序章 — 予兆
――僕は燃えていた。
炎は紙のように壁を丸め、天井から落ちる埃さえ火の粉になって舞い上がる。瓦礫の重みが肋骨に食い込み、呼吸のたびに世界が軋んだ。
目の前にはユウスケがいる。親友だ。
クラスの中心にいて笑い方を知っていて、僕の沈黙を笑いに変える方法まで知っている…はずの。親友だ。
……その言葉を胸の奥で反芻するたびに、なぜか痛みの方が強くなった。
彼の手には剣があった。銀色の刃は炎を飲み込んで、逆に冷たく光っている。
「ごめんな」
彼はそう言って、僕の胸へ刃を押し入れた。
痛みは鋭いのに、どこか遅れてやって来る夏の雷みたいに鈍かった。肺の奥が逆流して、息と一緒に何か大事なものが出ていきそうになる。
「お前はこの世界にはいらなかった」
それが何を意味するのか。脳がとらえるより早く身体は納得してしまった。
そうか。僕は“いらない”のか――と。
目が勝手に周囲を探す。出口はない。炎は壁のふりをして僕らを囲い込み、床は瓦礫の下で別の床に変わっている。机の脚が等間隔にコン、コン、コンと鳴った。
(誰が叩いている?)
音はやがて拍手に変わり、拍手は鐘に変わった。三度、乾いた音。
僕は笑おうとした。冗談だろ、ドッキリだろ、これは。
けれど笑いは喉で止まり、代わりに赤い紙の手触りが掌に残っていることに気づく。
いつから持っていた? 紙には太い文字で、僕の名前と――罪状。
「遅刻」
ただの生活の失敗。教室なら笑って流される程度の誰もが一度はやる、あの。
なのに赤は鮮やかで、炎よりも雄弁だった。
「やめろ、ユウスケ」
口が勝手に動いた。懇願の形は祈りに似ている。
それでも僕は、彼の目の奥に何かを探した。助けの気配、迷いの影、いつもの冗談の火種。
見つからない。
代わりに映ったのは、自分の顔だった。
炎の反射がガラスの欠片に揺れて、ユウスケの輪郭を撫で、そこに――僕がいた。
(違う。違うはずだ)
胸の中で声が二つに割れる。
ひとつは、裏切られたと叫ぶ僕。
ひとつは、裏切ったのは自分だと囁く僕。
どちらの声にも同じ体温があって、どちらの声にも同じ名前がついている。
震える視界の端で、スマホが胸ポケットの中を這いずった。
ヴ…ヴ…
通知の振動は火の音に似て、火の音は机を叩くリズムに似て、リズムは鐘に似ていた。
「ごめん」
ユウスケが繰り返す。
その“ごめん”は、僕に向けられたものか。それとも自分自身に向けられたものか、分からない。
刃の冷たさが、いよいよ核心に触れる。
痛みの奥で言葉にならない理解が芽を出す。
ここは裁判所だ。
校舎でも、部屋でも、瓦礫の狭間でもない。
世界そのものが、僕を裁くための形に組み替わっている。
「罪を言え」
誰の声でもない、無数の声が僕の内側から響いた。
僕は息を吸い、炎と灰を飲み込み眼を閉じた。
せめて名前だけは守りたかった。僕が僕であることの最後の証明を――
そこで鐘が三度鳴った。