第7話 異世界の食材を求めて 帰還
【1】町への帰還
冒険を終えた一行が、町の石畳を踏みしめて帰還したのは、夕暮れ時だった。
日が傾き、赤く染まる空の下で、彼らの影は長く伸びていた。
チグーの毛並みは少し泥で汚れていたが、満足げな顔で鼻を鳴らしていた。
グラウの背には大きな樽が、レオンは木箱を二つ抱え、ティナは薬草の束を提げている。
リューナはノートを片手に、道中で発見した食材の成分表をまだ書き続けていた。
――重くて、尊い。
その戦利品は、ただの食材ではなかった。
脂と香りと、絆。
すべてが、この旅で得たかけがえのない宝物だった。
風見亭に戻ると、美月は挨拶もそこそこに、すぐに厨房に駆け込んだ。
「……待ってて、必ず最高の一杯にするから!」
一晩中、店の明かりは消えなかった。
骨を砕き、火を入れ、沸騰させないように丁寧に炊く。
浮き上がる脂は、雪のように白く、きらきらと輝いていた。
そこに、薄く切った火霊草の実を加えると、立ち昇る湯気の中にすっと一筋の香りが走った。
「……この香り、沁みる……!」
乳白色に仕上がったスープは、まさに宝石のような光沢を放ち、
レンゲにすくえば、その表面にはごく細かな油の輪が、黄金色に揺れていた。
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翌朝。
風見亭の前には、まだ開店前だというのに人だかりができていた。
「噂で聞いたぞ! “幻の白湯ラーメン”が完成したって!」
「胃に効くスープ? 嘘じゃないよな!?」
「なんでも、“火霊草”っていう幻の実が入ってるって……」
その噂は、すでにギルドの中で広まりきっていた。
ある者は仲間に聞き、ある者は冒険報酬で得た銅貨を握りしめ、ある者は体調不良を抱えて藁にもすがる思いで列に並んでいた。
そして、ついに開店の時――
美月が満を持して提供した新作は、こう命名された。
《グルン白湯・火霊草香るとろコクラーメン》
まずスープを一口――
その瞬間、客たちの表情が一斉に変わった。
「……なんだこれ……」
「濃厚、なのに重くない……!」
「脂が舌に残らない……すうっと消える。え、魔法?」
「食べたのに……眠くならない!? むしろ……元気出てきた……!」
ある常連の老騎士は、器を抱えてしみじみと呟いた。
「昔食べたこってりスープは、歳をとってからきつくなってな……でも、これは違う。体が、喜んでる」
別の若い冒険者は、額に汗をかきながら叫んだ。
「これ食べたら、明日からまた迷宮行ける気がするッ!!」
とある母親は、病気明けの子どもにスープだけを分け与えた。
子どもは一口すすって目をぱちくりさせ、そしてほっとしたように微笑んだ。
その日、風見亭のラーメンは、ただの食事ではなく、“癒し”として語られた。
ギルド内では「胃に効く魔法級ラーメン」として掲示板に書かれ、
冒険者たちの間では「クエストの帰還後はまず風見亭」と言われるようになった。
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営業が終わった夜、厨房でひとり洗い物をしながら、美月は小さく呟いた。
「……やっと、ここまで来たんだな」
疲れているはずなのに、不思議と身体は軽かった。
旅の道中で得た経験、仲間たちの支え、そしてこの異世界の食材たち――
そのすべてが、この一杯に溶け込んでいた。
「でも、まだ終わりじゃない。もっと……まだ見ぬ味が、この世界にはあるはずだから」
チグーが「ぐるっ」と喉を鳴らし、美月の足元で丸くなった。
こうして、美月の旅はまた一歩、次の地平へと踏み出していく。
“おいしさ”と“健康”、そのギリギリの境界線を、ラーメンで超えていくために――。
________________________________________【2】王国の研究者たちの視察と“学術的食レポ”
風見亭の一杯――
《グルン白湯・火霊草香るとろコクラーメン》は、冒険者ギルドや町人の間で“奇跡のラーメン”として噂になっていた。
「重いのに軽い」「罪がないのにギトギト」「体が喜ぶ白湯」――
どれも相反する矛盾が共存する“ありえない料理”として話題を呼び、ついにその評判は王都の耳にまで届く。
そしてある日、風見亭に届いたのは――
『王国薬膳研究局・食物機能評価班による視察願い』
調査団のメンバーは、食と医療の最前線に携わる王国認定研究者たち。
本来であれば、視察を受けるには正式な申請と施設登録が必要だが、今回は「特例」。
噂の真偽を確かめるため、王からの非公式な指示で視察が許可されたという。
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その日、風見亭に現れたのは、白い研究衣をまとった四人の視察団だった。
・リーダーはノルベルト博士、厳格な老年の栄養学者。
・副団長はマリーナ准教授、香りと味覚の機能分析を専門とする若い女性。
・書記係のロランは、栄養成分の記録と論文化を担当。
・そして、料理の消化と吸収率を測定する若き胃腸学者のセイリオ。
「これが……噂のラーメンか。香りが立ち上る時点で、すでに興味深い」
「この湯気の“残留揮発香”……明らかに脂の分子が何かに包まれている……!」
「グルン脂……火霊草……野生薬草……まるで魔導素材を配合したかのような構成だ」
「分析より、まずは実食でしょう。すべては味に宿るのですから」
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そして――
《グルン白湯・火霊草香るとろコクラーメン》の試食が始まった。
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【視察団の食レポ:記録より抜粋】
◇ノルベルト博士(栄養学・代表)
「これは……スープの粘度、コク、塩味、どれもが“攻めている”のに、飲んだあとに喉が渇かない。
通常、これだけの動物脂を用いれば、舌にしつこさが残るはずだが……まったくない。
火霊草の香気成分が脂肪分を包み、腸に届く前に消化作用を促している可能性がある。
……これはもはや“食べる薬”の域にある。驚嘆すべき調理法だ」
◇ マリーナ准教授(味覚・香気専門)
「香りの構成が秀逸です。最初の立ち香は白湯のまろやかさ。
しかし、口に含んだ瞬間、火霊草の高揮発油が鼻腔に抜け、最後に微かに香る野草の土香が“締め”として機能しています。
香りだけで三段階のレイヤーを感じる料理は、王都の高級宮廷料理ですら珍しい。
『満腹』と『癒し』の両方が香りで演出されています」
◇ ロラン(書記・栄養成分記録官)
「……スープの成分、現時点の仮分析で17種類の香気成分、11種のミネラル、6種の消化酵素誘導成分を確認。
グルン脂は従来の獣脂に比べて不飽和脂肪酸が豊富。
加えて、火霊草に含まれる“アレクサ酢酸”が、血中脂質の吸収を調整している可能性があります。
……うまくいけば、糖尿病予防食としても研究可能です」
◇ セイリオ(若手胃腸研究者)
「はい! 食べてすぐに胃のあたりが温まり、胃腸が活性化していく感覚があります!
実際に胃の動きがスムーズになって、消化が早くなる感じ……体感レベルで実感できました!
それに、おかわりしたくなる味なのに、食べ過ぎにならない……これは……すごいっす!」
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研究者たちの試食と食レポは、そのまま王国の公報に掲載され、
《学術調査報告:実食型医食同源事例 No.17「美月の白湯ラーメン」》として発表された。
それは瞬く間に話題となり、
「医者が勧めるラーメン」「体調を整える一杯」「罪悪感ゼロの満足感」といった形で、王都中の関心を集める。
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風見亭には、その後も王都からの見学者や療養中の患者、さらには王族の食膳担当者までが訪れるようになった。
厨房でその様子を見つめながら、美月は静かに鍋を見つめ、こう呟いた。
「ラーメンは……国境も、病気も、疲れも超えるんだね」
チグーが、足元で「ぐるっ」と鳴いた。
彼女のラーメンは今や、ただの一杯ではなかった。
それは、“異世界に生きる人々の希望”を煮込んだ、湯気立つ奇跡の器だった。