第6話 異世界の食材を求めて ついにゲット
【1】目的地到着
出発から三日目の朝。冷え込んだ空気が肌を刺し、吐く息が白く煙る。
一行の前に広がっていたのは――静寂に包まれた、静水の沼だった。
見渡すかぎりの水面は鏡のように滑らかで、濃い朝もやが水面を這うようにたなびいていた。
沼の縁には、小さな赤い花々が水に揺れ、まるで誰かの息遣いのようにゆらゆらと咲いている。
その幻想的な光景は、思わず声を飲むほどに美しかった。
だが、甘く見てはいけない。
この沼は見た目とは裏腹に、“獣の罠”とも呼ばれる難所。
一歩間違えば、ぬかるんだ足元に足を取られ、動けなくなったところを魔獣に襲われる――そんな危険が日常的に潜んでいた。
「……地面、ゆるいな。靴が半分埋まる」
「このへん、昼になると陽が昇って沼気が動くわ。あまり長くは滞在できない」
ティナとリューナが低い声で周囲を確認し合っていると、チグーがぴたりと足を止めた。
くんくん……と鼻を動かしたかと思うと、尻尾をふるふると振り、水際の茂みへとそろりそろりと進み始める。
「……チグーが反応してる」
「何か見つけたか?」
美月が後を追おうとしたその時、ティナがそっと手で制した。
「足跡……見て、あっちの泥。まだ新しい」
目を凝らすと、水際の柔らかい土に、丸みを帯びた巨大な足跡がいくつか並んでいた。
水を吸ったような重たい泥の踏み込み――そこに潜んでいるのは、間違いなくあの獣。
「グルンだ……!」
「水際だ。レオン、迂回して背後を取れ」
「了解。グラウ、俺が合図したら右から出てくれ」
「任せろ。仕留めるなら一撃でいく」
空気が一気に張り詰める中、チグーがじっと茂みを指し示した。
そこに、いた。
丸々と太った一頭のグルンが、のそりのそりと水を飲んでいた。
巨大な胴体、短い脚、ずんぐりとしたフォルム――だが、その目には野生の勘が宿っており、
少しでも音を立てれば逃げられるのは間違いなかった。
ティナが矢をつがえ、リューナが魔煙草に火をつけて地面に置く。
香草の煙が広がり、視界をわずかにぼかす。
「今だ!」
レオンが合図を送り、ティナの矢が地面を打ち鳴らしてグルンの注意を引いた。
その隙にグラウが横から突進、豪斧を振り下ろし、レオンが後ろから足を払って体勢を崩す。
「捕まえたぞ……!」
すばやく網で包み込み、足と首に紐を通す。
グルンは暴れたが、すでに脱出できる隙はなかった。
「……見た目より重いな、この子」
「脂がのってる証拠だよ」
美月はじっと目を見つめ、「ごめんね」と小さく囁いてから、静かに骨の位置を確認し、解体に入った。
小刀を使い、骨髄の部分を丁寧に抽出する。
骨の中からとろりと溢れ出したのは――白く濃厚な、黄金に近い脂だった。
スープの核となるこの脂に、美月は手を合わせ、静かに鼻を近づけた。
「……これが、“あの味”の核心……!」
どこか懐かしく、深い香り。
子どものころ、父が深夜に炊いていたスープの湯気が、ふっと脳裏に蘇る。
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一行はすぐに次の目的地――黒岩山地を目指す。
半日かけて岩道を登り、やがてたどり着いたその場所には、ゴツゴツとした奇岩が連なり、
その間に赤く光るような葉が、風に揺れていた。
「……あれだ。火霊草……」
赤い葉の根元には、小さな橙色の実がぽつんと実っていた。
近づいただけで、ほのかに柑橘のような香りが鼻腔をくすぐる。
「香り、すごい……清涼感があるのに、土のコクもある。まさに“脂を包む香り”……!」
その瞬間――地鳴りが響いた。
「……来るぞ!」
岩陰から、怒れる魔猪が現れた。
その巨体が岩を砕くように突進してきたかと思えば、鼻息で土煙が舞い上がる。
「縄張りを侵したなって怒ってる……!」
「脂が暴れるなら、こちらも熱く返してやる!」
グラウが真正面から斧を構え、衝突寸前で強烈なカウンターを放つ。
その一撃で動きを鈍らせた魔猪に、ティナの矢が連続して突き刺さり、リューナが撒いた粉が目を曇らせる。
最後にレオンが両脚をとらえ、魔猪は岩間に崩れ落ちた。
「……っふ、さすがにキツかった……!」
全員が息を整える中、美月は火霊草の実にそっと手を伸ばした。
その実は、まるで使命を理解していたかのように、やさしく枝からすっと外れた。
「……やっと、そろったね」
グルンの骨髄脂。
火霊草の実。
すべてが、“次の一杯”のために――。
ラーメンの神様がほほ笑むかのように、風が静かに山を吹き抜けていった。
【2】食材採取
風が静かに流れる黒岩山地の山陰。
魔猪との激戦の余韻がまだ肌に残る中、美月は荷を下ろし、小さな鍋と携帯かまどを取り出した。
岩場の隙間に乾いた薪を並べ、火打石で着火する。
ぱち、ぱち、と火が灯り、すぐに小さな炎が生まれた。
「……せっかくだから、この場で一杯、作ってみたい」
誰がともなく頷き、黙って準備を手伝い始める。
ティナが水筒から湧水を鍋に注ぎ、リューナが野草をすばやく刻んで香味として添えた。
レオンは周囲を警戒しながらも、美月の手さばきに目を細める。
「……お前のスープ作り、何度見ても、戦いだな」
「はい。素材を生かす、でも油に負けない……。火加減、香り、順番、全部が大事なんです」
まずは、グルンの骨髄。
少しだけ砕いた骨を鍋に入れ、ゆっくりと時間をかけて炊き出す。
じわじわと白濁した脂が浮かび上がり、まるで黄金の霧のように鍋の中に広がっていく。
「この脂、香りが甘い……。重たくないのに、芯が強い……!」
次に投入するのは、火霊草の実。
薄くスライスして加えると、湯気がふわりと変化した。
脂の濃厚な香りの中に、ほのかな清涼感。
まるで柑橘と山の香草を混ぜたような、複雑で鮮烈な香りが鼻をくすぐる。
「……すごい……脂が、香りに包まれてる。香味油のような役割を果たしてるんだ……!」
最後に、美月はティナの手で摘まれた野草を加える。
アトル草、岩茸、香り根など、森の恵みたち。
それらが合わさり、煮立ったスープに命が宿る。
「できました――“蒼香白湯試作一号”です!」
小さな木椀にスープをよそい、まずは美月が一口すすった。
「……っ」
言葉にならなかった。
スープは確かに濃厚なのに、驚くほど軽やかで、
まるで舌の上でとろけながら、最後にはすっと霧のように消えていく。
ギトギトしたはずの脂が、火霊草の香りで包まれ、優しさに変わっていた。
「……これだよ、これ……!」
順に木椀を手にした仲間たちも、それぞれに無言で口をつけた。
一口、二口、三口――誰も言葉を発しない。
だが、それはまずさの沈黙ではなかった。
「……うそだろ、これ……ギトギトスープのはずなのに、あと味が……水みたいに消えてく」
「スープだけで満足感があるのに、胃が重くならない……」
「これは……もはや、芸術じゃないか……!」
グラウが、口の端を震わせながらぽろぽろと男泣きした。
「俺は……脂の塊をこよなく愛してきた男だ……でもこれは……罪のない脂だ……!」
リューナは黙々と紙とペンを取り出し、調味バランスの推測を書き始めていた。
「この香り……たぶん火霊草に含まれる精油成分が、グルン脂の飽和性を中和してるのよ。すごい……このスープ、学会で発表したいくらい……!」
ティナはにこりと笑って言った。
「もう、このスープ、武器よね。下手な剣より効くわ」
チグーは満足げに美月の足元でくるんと丸まり、鼻をぴくぴくさせながら目を閉じた。
すべての素材が響き合い、相反するものが調和を奏でる。
その一杯は、ただの“食事”ではなかった。
癒しであり、革新であり、ひとつの物語だった。
「……このスープ、もっとたくさんの人に味わってほしいな」
ぽつりとこぼした美月の言葉に、皆がゆっくりと頷いた。
この山の奥で生まれた一杯は、
やがて町に、国に、そして異世界に“革命”をもたらすことになる――その予感が、確かにあった。