第1話:ラーメン屋の娘 異世界へ
朝五時。
空がまだ淡い藍色に染まり、町の音が目覚める少し前。
古びた暖簾がかかる一軒のラーメン屋から、小さな光と湯気がこぼれ始める。
「おはようございます……今日も、がんばろう」
暖簾をくぐって厨房へと入るのは、小柄な若い女性。
澄んだ声でひとりつぶやくその姿は、まるで店の空気そのものを目覚めさせるかのようだった。
彼女の名は、美月。22歳。
この店「中華そば みつき屋」の看板娘であり、娘であり、そして将来を担う料理人でもある。
フライパンの前に立つ彼女の動きは軽やかで、迷いがない。
寸胴に火を入れ、昨日の夜から仕込んでいたスープをひとさじすくい、目を閉じて味を確かめる。
魚介と鶏の香りがふわりと鼻を抜け、彼女の顔がふんわりと綻ぶ。
「うん、今日もいい出汁が出てる……」
朝の仕込みを終えると、彼女は急いでノートパソコンの前へ向かう。
画面の向こうでは、栄養学の授業が始まろうとしている。
彼女は通信制の大学で管理栄養士の資格を取得するため、毎日授業を受けており、無事に資格を取得して、大学の卒業も決まっていた。今でも授業を受けているのは、社会人向けの講義で深く栄養学を学ぶためでもある。
「ラーメンはジャンクじゃない。栄養とおいしさ、両方を届けられる“希望の一杯”にできる」
そう信じて、小さな体で毎日奮闘している。
講義が終われば、開店準備。
厨房では、今日のオリジナル「にんじんと大豆の豆乳味噌ラーメン」が仕上がりつつある。
月替わりで出す創作麺は、どれも野菜や発酵食品をたっぷり使い、体に優しい一杯だ。
「美月ちゃん、今日もこの味、最高よ!」
「このトッピング、家でもマネしてみたくなるねぇ」
昼の混雑の中、常連客から飛び交う声に、美月は何度もうなずき、笑顔を向けた。
店の奥では、両親が穏やかに働き、時折彼女に目をやって微笑んでいる。
──夕暮れ。片付けの手を止め、空を見上げると、春の風が彼女の髪を揺らした。
「……無事に卒業できたし、少しだけ、自分にごほうびあげようかな」
思い立って手に取った旅行パンフレット。
そこに載っていたのは、「拉麺の神を祀る」という不思議な神社の写真だった。
“麺の夢を叶える神様”──そんな噂に、心が少しだけ揺れた。
「神様が本当にいるなら、ラーメンで人をもっと元気にできる世界に行けるよう、お祈りしてこようかな……」
それが、美月にとって最後の「日常」だった。
その先に、あの不思議な転移が待っていることなど、まだ彼女は知る由もなかった。
【2】
「おーい、美月ー。スープの火、もうちょい弱めた方がいいぞ」
店の奥から父の声がかかる。白い割烹着にねじり鉢巻き、無骨だけどどこか温かみのある姿。
昔は寡黙だった父も、最近では娘の創作ラーメンに舌を巻き、ちょっとしたアドバイスをくれるようになった。
「はーい、わかってるよ、お父さん」
返事をしながら火加減を調整し、美月は小鍋の味噌スープをひとすくいして確認する。
「うん、これで野菜の甘みも残るし、豆乳も分離しない……完璧!」
「ほんと、美月の味噌、優しいよね。母さん好きよ」
母が笑いながらカウンターに並べるのは、仕込み終えたばかりの煮玉子と、色とりどりの薬味たち。
料理が好きで優しい母は、美月のチャレンジをいつも応援してくれた。
「ありがとう。管理栄養士、無事に卒業できたのも、お父さんとお母さんのおかげだよ」
そう言って、美月はぺこりと頭を下げた。
「まったく、ちゃんと寝てるのか心配になるくらい勉強してたもんなぁ……」
「今思えば、あんたが高校も大学も通信にしたって言ったときは、ちょっと心配だったけどね。立派になったよ、美月」
あたたかい笑いが、湯気の中に溶けていった。
***
数日後、卒業祝いとささやかな休暇を兼ねて、美月はひとり、電車で数時間の地方へ向かった。
目的地は「拉麺神社」――小さな山里にひっそりと建てられた、全国のラーメン職人たちが参拝に訪れるという、不思議な神社だった。
「わあ……本当に、あるんだ……」
鳥居の向こうには、湯気のような白い紙垂が揺れ、石段の両脇には湯気を模した陶器の装飾。
社の奥からは、かすかに香ばしい小麦の匂いすら感じる気がした。
「……毎日食べても、体にいいラーメン。みんなが元気になれるラーメンを、もっと広めていけますように」
両手を合わせ、そっと祈る。
目を閉じたそのとき――ふっと、風が止んだ。
静寂。耳鳴りのような無音。
そして、体がふわりと浮くような感覚。
目を開けると、そこには――
蒼い空、見知らぬ森、見たことのない草の匂い。
山間の静かな町の入り口に立っていた。
「えっ……? ここ、どこ……?」
足元の石畳は見慣れぬ模様で、背後にあったはずの神社も、山も、姿を消していた。
そして、その瞬間、彼女の頭にひとつの言葉が浮かんだ。
〈スキル:体調鑑定〉を獲得しました。
「スキル……? え、これって、異世界ってやつ……?」
美月の、知らぬ世界での新たな一歩が、静かに始まった。
【3】
「……スキル、って……体調鑑定?」
頭の中に浮かんだその言葉に戸惑いながら、美月はおそるおそる辺りを見渡した。
森の中を抜けると、小さな石橋がかかる川があり、その先に、木造の家々が肩を寄せ合うように立ち並ぶ町が見えた。
「……どこか、ヨーロッパの田舎町みたい。でも、見たことない服の人たちばかり……」
彼女はひとまず町へ向かい、戸惑いながらも人々の姿を観察していた。
そこで、ひとりの少年が、うずくまって苦しんでいるのに気づいた。
「だ、大丈夫? どこか痛いの?」
近づいて声をかけたその瞬間、美月の視界に不思議な“情報”が流れ込んできた。
________________________________________
〈対象:少年〉
●体調異常:腹部不調、軽度の脱水
●必要成分:ナトリウム、糖分、水分
●現在欲しているもの:あたたかくて優しい塩味のスープ
________________________________________
「……っ!」
驚きと同時に、頭の中で理解できた。
――これが、“体調鑑定スキル”。
まるで管理栄養士の実地試験のように、目の前の人の身体の状態、必要な栄養素、さらには“食べたいと思っているもの”までが、映像と感覚で伝わってくる。
「これは、すごい……っ」
とっさに町の井戸から水をくみ、近くの市場で塩と干し芋を買い、火を借りてスープを煮る。
芋をやわらかく煮て、ほんの少し塩を加え、口当たりをよくするために持っていた旅用の干しご飯を砕いて加えた。
見た目は簡素だが、体にやさしい、ほんのり甘じょっぱい即席スープ。
「さあ、これ……よかったら、ゆっくり飲んで」
少年はおそるおそる口をつけ――数口すすった瞬間、顔がほころんだ。
「……あったかい……おなかが、楽になってきた……」
その様子を見ていた近くの女性が、美月に声をかけてきた。
「あなた、いったい何者? さっきの子、昨日から何も食べられなくて困ってたのよ」
「い、いえ……ちょっと、人の体調が分かるだけで……」
「体調が分かるって、診療師なの?」
「う、うーん……食で整えるのが、得意っていうか……」
町の人々は怪訝な顔をしたが、それ以上は何も言わず、やがて「不思議な子だ」と笑って去っていった。
だが、そのあと。
「さっきの、あったかい汁をもう一杯ください!」
「わたしも、手首が冷えて寝つけないの。なにか作れるかしら?」
次々に、困りごとを抱えた人々がやってきた。
スキルで読み取った症状に合わせて、芋の粥に焼き根菜を加えたり、ハーブと卵を合わせた雑炊を作ったり。
町の人は「薬でも魔法でもないのに、元気になる」と不思議がりながら、笑顔で空の器を返していった。
その夜、美月はとある食堂の店主に呼び止められた。
「嬢ちゃん……うちの厨房、手伝ってみる気はないかい?」
月の光が照らす異世界の町並み。
その中心で、美月は静かに頷いた。
「はい。私にできることがあるなら、やらせてください」
鑑定スキルと、故郷で培った“食の力”を胸に――
彼女の成り上がりの物語は、まだ始まったばかりだった。