悪魔の契約
「悪魔の契約だ」
そいつは漆黒の瞳で俺を見つめる。まるで蛇に睨まれた蛙のように、誰から見てもはっきりしている格差。俺はその圧に押しつぶされ、目を見開いて呆然と突っ立っていることしかできなかった。
元々その日は俺にとって最悪の日だった。何もなくても良い日ではなかったが、今朝届いた一封の封筒がさらに今日を最悪の日に仕立て上げた。なんの封筒かは最初からわかっていた。ここ数日ずっとこのことだけを考えていたのだから。いや、ここ数年間ずっと同じようなことを考え続けてきた。
だが現実は無情で、震えた手で開けた封筒から出てきた紙束からは不合格の文字が現れた。それは今まで積み重ねてきた数年の努力を否定されているようだった。希望は絶望に変わった。
だが元々ないような希望だった。努力という言葉で飾っても、その質は他の人間とは違っていた。凡人な上に努力もそこそこ、世の中には才能を持っている上に努力さえも怠らぬような人間がいるのだ。勝ち目などなかった。だからその日の惨状は予見されていたようなものだった。
そんな日にそいつは現れた。
「何か言え、だから人間は嫌いだ」
殺意が見えた。今まで生きてきて受けたことがない程の圧力は、殺意というものなのだとわからせられる。そいつにとっては少しの、脅し程度殺意なのかもしれないが、俺からすればその殺意はさらに絶望を増加させていくに十分な要素であった。むしろそれまでの絶望が塗り替えられずに未だ心の端にでも存在できていたことに驚く。
「もう一度だけ説明してやる。貴様はどこでも好きな時間に戻れる。それが一年前であろうと、10年前であろうと、生まれた時であろうと好きな時間にだ」
なんだそれは。
つまりもう一度挑戦のチャンスがあるということか。一度体験した人生をもう一度繰り返すことができる。それも完璧な選択を選び続ければ必ず今よりも良い人生になる。今の人生には絶望しかない俺にとってそれは願ってもないことだった。
しかしそんなに上手くいくはずもない。それは俺のクソみたいな人生で唯一発見できたことかもしれない。禍福は糾える縄のごとし、上手い話には裏がある。
「だが貴様の記憶は消させてもらう」
その一言で人生最大のチャンスは、紙屑同然の物となった。
記憶が無くなるのであれば何も意味がない。もはや今世には希望がないことに変わりはないようだ。仏教徒ではないが、次の人生までの時間が少しだけ短くなっただけだ。
それにこの条件にはもう一つ致命的な欠点がある。それは優純不断で女々しい俺のような人間だからこそ芽生える感情。挑戦とリスクの違いを理解できぬ俺のような人間ならではの不安。
俺は、俺が変わることが怖い。
今の自分がどれだけ醜くとも、今の自分がどれだけ情けない結果しか出せなくとも、今の自分の夢に誇りを持っている。こんな凡才だろうと、一端の夢を持っていることに矜持を持っている。いくら願いが叶おうと、到達できたゴールが違うゴールならば意味がない。
今俺が欲しているものは今の俺でしか獲得し得ない。
その契約の価値が下がったと同時に、悪魔に対する恐怖の度合いも下がった。全てを吸い込むような墨色の目は、人と同じただの黒色で、気持ち悪いほどに発達した腕は安っぽい作り物のようで、なんとなくで見えていたオーラは胡散臭い占い師のようだった。所詮その程度の事しかできない力持たざりし怪異なのだと。
だがそんな契約も裏紙として使う程度の価値だけはある。変わることが怖いのなら変わらない地点まで戻ればいい。自分の考えが、思考の方向が定まったその日まで戻れば問題ない。
何が変わるかはわからない、だが少しでも今より変われるのなら....
「俺を——年前まで戻してくれ」
「......」
そいつは不気味に黙ったまま目を動かした。ぎょろぎょろしたその目はまるで哀れな蛙を見るようで、さっきとは違う恐怖の感情がどこかから湧きだしてきた。それはとても人間らしくて愚かで滑稽な感情だった。
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長い夢を見ていた気がする。でも内容は思い出せない。その夢には既視感があって、どこかで見たことがあるような気がした。
でも所詮は夢だと、そう割り切り僕は足の上にあった本を閉じた。時計を見れば既に0時を回っている。もう少しで読み終わると思っていたのに急に睡魔に襲われてしまった。ぎりぎりで読み終わったものの、結局すぐに寝てしまっていたようだ。
どこかの偉い人が言っていた。計画のない目標は、ただの願い事。
そうはなりたくないな。
胸の中で呟いた言葉は何故か僕の身体に針の様に突き刺さった。
*
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***
あれから——年がたった。そして俺は言った。
「俺を——年前まで戻してくれ」
悪魔は悲しそうな目で俺を見ていた。
「人間は愚かだ」
腹の底を響かすような悪魔の声はやけに新鮮に聞こえた。