幸せであるが故に不幸を偽る
これは推敲も手直しもしていない今を、ありのままを、情緒的な表現など気にせず、直情的に記したものである。エッセイと呼ぶには愚形で見るに値しないが、読んでもらうためではなく、まるで枠組みにように、私が私であるために、私というものが霧散しないように留めておくために書く。
それは唐突であった。一通のメール。そこに記されていたのは今までが瓦解する一文。
私はそれまでレールの上を歩く人生であった。順当な勉強と入学と卒業を繰り返し、この先もこれが続くと思っていた。思えば入試に向けて自分が崩れそうになったときもこうしてフリック入力を無闇にしたものだった。
私は流れからはみ出てしまった。流れからはみ出ること自体が私を傷つけるのではなく、流れからはみ出た私を見る無数の視線が私を傷つけるのだ。いや、正確には傷付いてはいないかもしれないが、傷ついていると妄想してしまうのだ。そしてこの場合多くは中傷ではなく慰みの視線によってこの妄想は引き起こる。だから押し込めた。考えないようにした。ただ、嘘を吐き、笑顔を模し、変わらぬ心を周囲に表した。私が増えるこの感覚。嘘は不幸しか産まないと言うが、私の場合はもう1人の私と言う不幸を産んだ。
もう1人の私である限り、本当の私は傷つかなかった。違うコミュニティを作り、別々の顔を使った。おかげで生きてこれた。もう1人の自分と本当の自分が重なっているとさえ思えた。演技が上達し設定を忘れなくなり、代わりに現実を忘れられた。でも、別々のコミュニティがぶつかってしまうこともある。普通だ。ただ、これは私にとっては致命的だった。齟齬が生まれる。その齟齬の消し方はやはり不幸な私を作ることでしか、私は解決できなかったのだ。
嘘に嘘を重ねる、不幸に不幸を上塗りする。それが私。いつしか私が私であるのか、不幸が私なのか、わからなくなった。それが私の幸せなのかもしれないと思えるわたしは幸せだと思うことにしよう。落ち着いてこれた。私が私を保てた。でもやはり保たせてくれたのは不幸だ。私は不幸を抱き抱え、いや、不幸におぶさりながらこのまま生きようと思う。