自室の部屋から広い太平洋へ漕ぎ出すルーム戦役
第一章 クワトロ君
よくやる徹夜のとき以外は、決まって朝寝坊のクワトロ君が、その朝はどうしたことか、もうちゃんと食卓についていた。私はストーブの前に敷いたカーペットの上に立って、ゆうべの客が置き忘れていったという杖を手にとってみた。それは俗にいう一本杖で、杉の木で作った立派な細身の杖で、球形の握りがついており、握りのすぐ下のところには、「全国サーフィン協会準会員デニム君へ、K.F.C.の友人たちより」と彫りつけ、そのわきへ2020年と年号がいれてあった。古風なサーファーが歩行を補助する際に持ち歩いたであろうと思われる、丈夫で気品があり、どこか頼もし気な感じの杖である。
「どうだい、ジーンズ君それをどう思う?」クワトロは私へ背を向けて食卓についていて、私からは何もいいはしないのにこれである。
「僕のしていることがどうしてわかるんだい?まるで背中に眼がついているみたいだね」
「僕の前に磨きのかかった銀のコーヒーポットがあるんだぜ。そんなことはまあどうでもいいが、君はその杖を見てどう思うね?ゆうべはあいにく二人とも留守だったから、どんな用事があってきた客だかわからないが、こうなってみるとこの忘れ物が、大切な参考品になってくる。君はその杖を見て、持主をどういうふうに推定するかね?」
「そうだね」と私はクワトロのいつものやり方をできるだけ真似ながら言った。
「デニムという人は相当の年輩の、友人の多い、とても活発なサーファーだと思う。というのは知人たちからこうした感謝の贈り物を受けているところから見てだがね」
「ほう!おみごと!」
「それからサーフィンをしている場所は車の必要のない適度な都会で、家は海から近い。徒歩で杖を使い海まで歩き、日常的にサーフィンをよくする色黒の男だということもおそらくいえるだろう」
「どうして?」
「この杖を見ればさ。初めはいかにも立派な物だったらしいのに、こんなに使い込まれていることろを見ると、田舎のサーファーとは思えないねえ。見たまえ、この鉄の丈夫な石突のスリ減り具合を。これはよほど持ち歩いたものに違いないよ」
「たしかにそうだ」
「次にまた、「K.F.C.の友人たちより」の解釈だが、僕はデニムの前職がケンタッキーの厨房か何かじゃないかと思う。そのケンタッキーの元同僚たちが、デニムの退職祝いに感謝の意をこめて、ちょっとした記念品を贈ったというようなことじゃなかろうか」
「ほう、うまいものだね」食べ終わったクワトロは椅子を後ろへずらし、タバコに火をつけながらいった。
「今日までの僕の小さな業績は、みんな君の助力のおかげなんだが、しかし遠慮なくいわしてもらえば、君は習慣的に君自身の才能を見くびりすぎてきた傾きがあるよ。君は自分自身では輝かないまでも、少なくとも光を伝える能力はあるんだ。ある種の人は、たとえ自身天才でないまでも、天才を刺激し発揮させる異常な力をそなえているものだ。僕は君に負うところの多いのを、ここに改めて感謝するよ」
クワトロがこんなことを言い出したのは初めてのことである。従来は私がどんなに彼の才能をほめても、また彼の苦心して成功した戦績を書き綴っても、かつて微笑の一つすら見せたことはなく、どこ吹く風といった態度だったので、少なからず腹たつこともたびたびあったのだが、こうした感謝の言葉を聞くと、白状するがひどくうれしかった。それに、こうした賞賛の言葉を聞くまでに、彼の推理法を応用する方法を会得したかと思うと、そこにも一種の誇りが感じられたのである。
彼は私の手から杖をとって、しばらくじっと肉眼で検めていたが、妙に顔を緊張させ、火のついたタバコをわきへ置くと、窓際の明るいところへいって、凸レンズで改めて杖を仔細に調べた。
「ふむ、おもしろいな、いささか初歩的だけれど」と窓際を離れて、ソファのいつもの場所へ腰をおろしながら、
「この杖には一、二の注目すべき点があるよ。そこからいろんな結論がでてくる」
「何か僕が見落としたかね?」
私は内心いくらか得意だった。
「見落としというほどのことはしていないつもりだがね」
「ジーンズ君、気の毒だが、君の下した結論は大部分間違っているよ。僕はさっき、君が刺激を与えてくれてありがたいといったが、正直のところをいうとあれは、君の誤りを正してゆくうちに、知らず知らず真実のほうへ引き寄せられてゆくこともあるという意味だったんだよ。いや、この場合は君の説がすべて誤っているとはいえないがね。なるほどデニム君はサーファーでテクテクとよく歩くというのは事実だろう」
「じゃ僕のいう通りじゃないか」
「そうさ、そこまでは正しい」
「だって、それが結論の全部なんじゃないか」
「どうして、どうして、全部なものか。けっして全部じゃない。それならいうがね、サーファーへの贈り物といえば、KFCからというよりもFCからと考えたほうが自然で無理がないよ。そこまで考えてくると、頭につけたKは高知の大自然で釣りとサーフィンをしていると考えるわけだ」
「そりゃ君の言う通りかもしれない」
「まずそのほうが確度が高い。そしてこの仮定を正しいものとすれば、そこから、この見知らぬ客がどんな男かということについて、さらに第二の推定を下すことができる」
「なるほど、それではしばらくK.F.C.は高知フィッシングクラブを意味するものとしておいて、そうすればいったいどんな第二の推定が得られるんだい?」
「わからないかねえ。それ、例の僕の方法を知っているじゃないか。あれを応用してみたまえ」
「高知で釣り好きの仲間たちとサーフィンもしているということだけしか、僕には思いつかないねえ」
「もう一歩すすめて考えてもよいと思う。こういう考えかたをするんだね。そうした贈り物をするというのは、どんな場合にもっともありがちなことだろうか?友人たちが申し合わせて、誠意を見せるのは、どんな場合だろうか?いうまでもなくデニム君がフィッシングクラブをやめて、どこか遠くへいこうというときだろう。記念品が贈呈されたのはこの通り事実だ。そしてデニム君は高知のフィッシングクラブから、どこか遠くへ移動しようとしたと信じられる。それでは一歩をすすめて、この杖はその際の記念の贈り物だと推定することに、大きな無理はあるまい?」
「まずそんなところだろうね」
「さらに推理の歩をすすめれば、彼はフィッシングクラブにいたけれど、幹部の位置にいたのではけっしてない。なぜかというと高知フィッシングクラブの幹部になるほどなら、高知でも指折りの人物だから、クラブをやめても聖地である高知を離れる道理がないからね。ところがこの人は高知を離れようとしている。それなら彼はどういう人物か?幹部でないといえば、おそらくはまだそれなりに若く、でも杖が必要だということは足が不自由であるといえるだろう。ジーンズ君、お気の毒ながら君のいわゆる「相当年輩の」はなんだか影がうすくなってきたよ。そのかわりに心に浮かぶのは、まだ三十そこそこの人好きのする、野心ある青年でうっかり者だね。そして犬を一匹かわいがっているが、その大きさはテリヤよりは大きく、マフティフよりは小さいとだけ、ぼんやりといっておこう」
そういってソファに背をもらせかけ、タバコの輪を小さく天井へむけてはいているクワトロ君を私は笑い飛ばした。
「犬のことはうそかほんとか、調べる手段もないが、デニム君の年齢や職業くらいなら、調べるのは造作もないことだよ。私もフィッシングクラブの一員だからね」
私はクラブ会員の名簿をおさめてある貧弱な本棚から名簿を取り下ろして、広げてみた。
デニムという名前は何人かあったが、問題の人はすぐにわかった。私はその項を読み上げた。
長宗我部デニム 高知フィッシングクラブ準会員、2018年入会高知在住。2018年より2020年まで高知で漁のかたわらサーフィンや釣りを趣味とする。論文「カツヲは獰猛か?」によって高知環境賞を受ける。職業「漁師およびハンター」
「ケンタッキーのことは何も出ていないようだね、ジーンズ君」
クワトロはいたずらっぽい微笑をうかべて言った。
「しかしご明断の通りサーファーには違いなかった。それにしても僕の推定もかなり正しかったと思うよ。僕はさっき、人好きのする、青年の野心家だといったね。僕の経験によれば、この世で表彰の記念品でも贈られようというには、必ず人好きのする人物でなきゃならないし、高知での充実した趣味に囲まれた生活を捨てて、どこかへ旅立とうとするといえば、よほどの野心家の男に決まってるね。それに人の部屋に訪ねてきて一時間もぼんやり待っていたあげくが、帰りに名刺でも置くどころか、かえって杖を忘れていくなんてのは、よくよくうっかり者じゃないか」
「犬のことはどうしてわかったんだい?」
「犬はこの杖をくわえてお供する習慣になっている。杖が重いものだから、中央をしっかりくわえてるとみえて、みたまえ歯形がはっきり見える。歯形と歯形の間隔から考えて、テリヤにしては大きすぎるし、マスティフにしては小さすぎる。そうだね、まあ毛の縮れたスパニエルというところかな」
彼は話の途中から立ち上がって、部屋の中を歩き回っていたが、この時引っ込んだ窓のところで歩を止めた。そしてその最後のあたりが、いやに確信にみちた響きを持っていたので、私は思わず顔をあげた。
「おやおや、ばかに自信があるんだね」
「なあに、その犬が今玄関に見えるからさ。ほら、犬の主人がインターフォンを鳴らしている。いやジーンズ君、そこにいてくれたまえ。客は君と同じ畑の人だ。君がいてくれると、何かと都合がいいだろう。さあ、運命の瀬戸際だよ、ジーンズ君。ドアの開く音で吉か凶か判断はつかないね。サーフィンの達人デニム君が、ハンティング専門家のクワトロにうかがいたいというのは、いったいどんなことだろう?や、どうもはじめまして!」
よくある型の健康的で日焼けした風姿を心に描いていた私は、入ってきた客の姿を見て、まるで意外だった。ばかに背のひょろ高い男で、くちばしのように高く鼻が突出し、鋭い色の眼があい寄って、金縁の眼鏡の奥できらりと光っている。まだ暑いためTシャツは着ているが、あまり服装にかまうほうではないのか、Tシャツは薄汚れてズボンにはしわがよっていた。まだ若いのに背がすこし曲がって、片足はすこし引きづっている。入ってくるなりクワトロの手にしている杖に眼をとめて、うれしそうな声をあげて小走りに歩み寄った。
「おう、これはよかった。ここに忘れたのか、それとも船会社で忘れたのかと思って、迷っていたところです。どんなことがあってもこの杖はなくしてはならない大切な品ですからね」
「記念の贈り物ですね」クワトロがいう。
「そうなのです」
「高知フィッシングクラブからの?」
「足を悪くしてしまったので引退して名誉会員になったとき、二、三の友人がお祝いにくれたのです」
「おやおや、これはいけない」クワトロは頭をふった。
「え?何がいけないのですか?」デニム君はすこし変な顔をして、眼鏡の奥で眼をしばたたいた。
「いえなに、おかげで私たちのちょっとした推理が狂っただけのことです。引退の記念なんですね?」
「はあ、足を悪くして釣りとサーフィンはやめたものですから、講習会などでちょっとした講習をしています。家庭もあることですしね」
「なるほど、なるほど、それじゃ僕たちの推理もまったく誤っていたわけじゃないね」とクワトロは私のほうを振り返った。
「それでデニムさん、あなたは・・・論文なども書いていることから魚の研究を?」
「ええ、足を悪くしてからというものもっぱらそちらが本業になっています」
「それではごく几帳面なお人柄のわけですな」
「魚についてほんの少しばかりかじっただけのことですよ。いわば魚という未知の大海原にいる存在を波打ち際に立って、ほんの二、三も拾いあげてみただけのことです。失礼ながらあなたがクワトロさんですね?そしてこちらは・・・」
「友人のジーンズ君です。フィッシングクラブの会員ですよ」
「これは初にお目にかかります。お名前はクワトロさんと関連して、たびたび承っております。ところでクワトロさん、あなたの顎は立派なものですねえ。あなたほどの発達した顎を見たことがありません。これほど顎の筋力の発達の著しい例を知りませんサメ並です。失礼ですがちょっと、あなたの顎と歯にさわらせてくださいませんか。あなたの顎は、現物が手に入るまでしばらくは模型でもいいですから、人類学博物館へ出せばじつに立派な陳列品です。いえ、まったくお世辞ではありません。正直なところ私はあなたの顎の標本がほしくてなりません」
さすがのクワトロもこれには参って、ともかくも椅子をすすめた。
「あなたもご自身の専門のことにかけては、私同様にずいぶんとご熱心のようにお見受けします。その指の様子から拝見するに、あなたはタバコをご自身紙巻きでお吸いになるようですね。さ、どうぞご遠慮なさらず吸ってください」
デニムは紙とタバコの葉を取り出して、おそろしく器用に一本巻きあげた。細くて長いその指はたえず震え、まるで昆虫の触覚のように敏感で、少しもじっとしていなかった。
クワトロは何もいわなかったが、ちらりちらりと刺すようなその眼で、この不思議な客に彼が少なからず興味をそそられているのを私は知ったのである。しばらくして彼はいった。
「ところであなたが昨晩もおいでになったのに、今朝もこしてお訪ねくださったのは、単に私の顎を調べるのが目的ではあるまいと思いますが?」
「いえいえ、それもやらせていただければ、こんなうれしいことはありませんが、今日私がうかがいましたのは、自慢ではありませんが、元来私は実行力のない男だと自覚しているところへ、今度突然重大な難問に直面することになったからです。ところがあなたはその方面にかけては日本第二のかただと思うものですから・・・」
「ほう、なるほど、失礼ながら日本第一というのは誰なのでしょう?」クワトロはちょっと開き直った。
「綿密な批評眼をもってすれば、関東のレイ氏の仕事をつねに第一に推さなければなりません」
「ではこの問題はレイ氏にご相談なさったらよいでしょう」
「綿密な批評眼をもってすればレイ氏だと申したのです。しかし実際問題の上では、日本ではやはりあなたがハンターの第一人者ですよ。うっかりしたことを申して、お気を悪くなさったかもしれませんが・・・」
「少しはね。ところでデニムさん、そんなことはどうでもよいとして、簡単にいってあなたのご相談をなさりたいのは、いったいどんな問題なのですか?」
第二章へ続く