フェアリーキス
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶつぶは、キスした経験ってある?
――む、出たわね、いつものポーカーフェイス。その余裕ぶった態度、いちいちトサカにくるわねコノヤロー。ちょっとはあたふたしてくれれば、もっと可愛げがあるのに。
ん、私? あるわよ、そりゃ。両手の指で数えきれないくらい。
――なによ、その顔。「どうせ本とか写真越しだろ」的な、小ばかにするニュアンスねえ。
あんまり調子こいてると、今からあんたのくちびる奪うわよ。
ブチュッじゃなくてブチッとね。ほーら、ここにソーイングセットのはさみが……。
あっはっは、今度は「メンヘラ〜」って顔になった。つぶつぶの百面相は、見ていて面白いわ〜。
ポーカーフェイスなんて、あんたにゃムリムリ。そうしてコロコロ表情変える方が、よっぽど魅力的ってもんよ。「そんな顔せず、笑え。つぶつぶ」、なんてね。
ん〜、でもまだ私のキス経験について、疑惑アリって色が抜けない感じ? そんなにつぶつぶが私とキスしたがってるとは、予想外だったわ。
ふふ、まあこの場は興味本位ってことにしときましょ。疑われたまんまだと私もシャクだし、ちょっと昔話をしましょうか。
私が小さかったころ、学校であるうわさが広まっていたわ。
「妖精さんにキスできると、幸せがやってくる」
初めて聞いた時には、「なにその劣化白雪姫?」と思ったわね。他のみんなも「ぼんやりしすぎ」と笑っていたけど、とある女の子が持ってきた話で状況は動き出す。
その子の話によると妖精たちにも、私たちと同じように学校が存在するんですって。生まれて間もない妖精は、みんなそこへ通うの。少なくとも、人間にめったなことではいたずらをしないように、しつけられるのね。
妖精たちの学校は、日が沈んでから始まる。空が暗くなり出すと、子供の妖精たちが順繰りに登校を始めるわけ。
妖精の世界に時計はない。太陽の動きにのっとるから、季節によって学校の開く時間が異なる。それが時刻にこだわる人間の世界とかち合えばどうなるか。
この、日が早くに暮れかかる冬は、私たちの下校と妖精たちの登校が重なる時ってわけよ。だから妖精を見つけて、キスすることができるってわけ。
ちょうど今みたいに、太陽がほんの少しだけ顔を出している時間にね。ふふふ。
絵本の中でしか見たことのない妖精。「会えるんだったらぜひ!」というメルヘンな子から「だったら、実際に見せてみなよ」とドライな態度をとる子まで、さまざま。
話を持ってきた子は「じゃあ放課後についてきたい人はついてきて」と、自信まんまん。私も半信半疑ながら、みんなと一緒にいくことにしたのよ。
ちゃんちゃん。
はい、それじゃこれで前半の終わり。後半はまた日を改めて、話をするってことで。
――ふむむ、いかにもフラストレーションいっぱいって感じねえ。
そーいう顔を見られたのは面白かったけど、つぶつぶの帰る道、こっちじゃないでしょ? 別に彼女じゃないレディの家までついてくるって、失礼な気がするんだけど。
――え? むしろレディの身が危ないから、ボディーガード代わり?
ふーん、なに? ちまたでいう「きしどーせーしん」ってやつ?
つぶつぶは、地図は読めても、道を覚えるのは苦手な気がしたけど、大丈夫? 帰れる?
あはは、子供みたいにふくれちゃって、しょうがないなあ。ま、構わないなら続きを話してもいいけど。
私たちは通学路から少しはずれる、水道道へやってきたわ。今、歩いているこことよく似た、両脇に田んぼが控える一本道。私たちも一列になってずんどこ進んでいた。それほど多くないとはいえ、車が通る場所なのに、用水路ではホタルが見られる珍しい地点だった。
学校が終わるのが遅かったこともあって、まだ5時にならないうちから、空がだいぶかげってきた。安全のために点滅するライトを持ち歩いている子もいたけど、話を持ってきた子が制した。
「妖精たちが怖がっちゃう。そんなものを出したらダメ」と。
彼女の足取りはゆったりしたものだったけど、暗闇の足はずっと速い。まばたきひとつで、空のライトが一段階暗くなる。そう感じちゃったくらい。これまで何度も通ってきた道の上なのに、寒々しさを覚えはじめるほど心細い。
実際に厚着をしている子でさえ震え出したところで、彼女はぴたっと足を止めた。
「間に合った。来たよ」
そうつぶやく彼女の前を、ふわりと横切る光があった。
長さは5センチ程度。線香花火の火の玉がいくつも連なって、細い棒状を成したかのような輝き。火花と呼ぶには、落ちるのがあまりにおだやかすぎる。粉のような光を盛んに散らしながら、遠ざかっていったの。
それを見送るや、ふわりと辺りの田んぼから同じものがたくさん浮き上がったんだ。膨らんだ風船のように、ぷっかりと昇る、同じような光の塊。それらは私たちの顏の高さくらいで止まると、一斉に同じ方向へ飛び立ち始めたの。
「ほらほら、妖精だよ。キスしないの?」
彼女の声がしたけど、私たちはもうそちらを見やることもできない。目の前を慌ただしく横切る光の火花は、ぱちんぱちんと音を立てて、私たちの服や髪へ跳ねてくる。
燃えはしないけど、思わず飛びのきたくなるくらい熱い。たちまち大騒ぎになったわ
――こんなの、妖精じゃない。
悲鳴が飛び交うこの空間で、私は思う。
私の考える妖精は、確かに花に隠れられるほど小さい。保護色の服を着て、かわいらしい女の子で、歌や音楽に合わせて飛び回ったりするもののはず。
それがこんな明るすぎる色で、火花をまき散らせて、誰かを傷つけかねないもの。そんなのが妖精だなんて認めない。あるはずがない。
逃げ出そうと踵を返しかけた私の背中を、誰かがどんとおした。その拍子に、前を横切ろうとした光と、私のくちびるがぴったり重なっちゃう。
じーんと私のくちびる全体に痛みが走った。上と下から、鋭い爪を立てて挟まれたかのよう。
思わず手をやると、ざらざらして生温かい感触が。手のひらには鉄の臭いがこびりついていたの。血が出ていた。
「――おめでとう。これであなたも幸せよ」
声は紛れもなく彼女のもの。肩もつかまれたけど、ぞっとするほど強い力で一気に引きずられたわ。
みんなの騒ぎ声が遠くなる。アスファルトを引きずっていた足元は、やがてふっと離れて、ぶらりんと垂れさがっちゃった。私たちを取り巻いていたあの光たちはますます遠く……いや、小さくなっていく。
私の身体は宙に浮きあがっていたの。暴れようとする私の肩が、いっそう強く握りしめられる。
「妖精の奥さんはね。旦那さんがずっと守ってくれるんだ。守るといっておきながら、すぐに約束を破っちゃう、人間の旦那なんかとは違ってね」
それからどうなったかって?
うん、私は妖精の奥さんになったの。旦那はあいかわらず私よりずっと小さいまま。でもくちびるで触れると、なにより暖かい。それでいて、どんなスープよりもおいしいの。
私が甘いものを望めば甘く。しょっぱいものを望めばしょっぱく。もう日に何度も味わわなきゃ済まないくらい。
――何よ。「とうとうお花畑に入ったか」みたいなあきれ顔。ま、表情の変化は旦那相手じゃ味わえないからねえ。楽しませてもらっているわ。
ウソだと思うならほら、道の脇にあるその植物、分かる? トランペットみたいな頭をしているでしょう。
これ、クックソニア。今から4億年くらい前、存在していた植物よ。初めて海から陸へ上がった生き物のひとつ。
難しかった? じゃあ……これはどう? どこかで見たことあるんじゃない?
――分からないかあ。これね、タカノホシクサ。ホシクサ類の中でただひとつ、水の中に沈んじゃう性質を持ってる。水面に出るのは花ばかり。ま、これももう絶滅しちゃっているんだけどね。
あはは、キツネにつままれた顔してる。ほら、周りをごらんなさいな。
先ほどまでの田んぼ道はどこへやら。あたりに木が生え、足元に草が茂り、「キイキイ」と絶えない獣の声。まるでどこぞの密林ね。ほら、今もずしんずしんと、地面が揺れているの分かる?
あれね、アルクトテリウム・アングスティデンス。50万年前までアフリカで生きていた、当時最強の肉食動物だったクマよ。
二本足で立った時の身長は4.5メートル。体重は最大で1.5トン強。今のクマとは段違いの速さと膂力、そして長い四本足。
ぶつかってこられたら、全身骨折じゃ済まないよ。電車に轢かれたみたいに、ばらばらになっちゃうんだ。しかも犠牲者はしばらくそのことに気づかない。
身体の自由が利かなくなって、「なんで? なんで?」って辺りを見回す。でも足の長い下生えに遮られて、様子が分からない。次第次第に痛みが広がって、涙がまなじりに溜まっていく。そうしてゆがんだ視界の中で、クマが自分の胴体をくわえあげて、初めてわかるの。
ああ、自分はバラバラになっちゃったんだって。もう、助かる見込みはないんだって。そしたら後は目を閉じて、増していく激痛が一刻も早く終わるのを祈るしかない……。
どうしてそんなに分かるのかって? だって何度も見てきたから。あれね、旦那のお迎えなんだ。
さ、つぶつぶ。もうここでいいから。これ以上進んだら、さっき話したような目に遭っちゃうよ。
旦那は嫉妬深いからさ。是が非でも味わいたいとかなら止めないけど……つぶつぶにとっちゃ、書き記せなかったら意味ないでしょ?
はい、その場で回れ右。絶対こちらを振り向かないで。たとえ木や川があっても立ち止まらないで。彼らは自分からよけてくれるから。
そのまま真っすぐ歩いたならば、それがあなたの帰る道。いつもの道につながるから。
また明日、学校で会いましょう。それまできっと無事でいて。