青の疾風
最終列車が鈍い音を発し、ゆっくりと動き出した。
曇った窓ガラスに手の平を当ててこすってみたら、ぼんやりと薄明るい雪の中で父と母が並んで左右に大きく両手をふっていた。
窓の外から「がんばれよー!」と交互に叫ぶ大きな声がした。
松尾賢二はその年の三月に秋田県の北部、日本海に面したN工業高校を卒業すると内定していたOA電機通信に就職することになり、会社の寮に入るため家を出たのは、三月二十日の夜で周囲には雪がたくさんあり、春はまだまだ遠くにあった。
奥羽本線の大館駅から上野行き急行列車に乗り換えるため、柔らかい雪が音もなく静かにゆっくりと舞い降りては積もりゆく、ぼんやりとした雪明りの中を両親とともに小さな無人駅に向かった。
人通りのほとんどない駅までの、道の足跡は消されてしまって、その新しくできた道の雪を踏みしめながら、新しい社会に向かって無言で進む松尾の気持ちは、シーンと冷たく静まった回りの空気と同じように引き締まるのだった。
青森行きの下り普通最終列車が雪の降り続く白いホームにゆっくりと滑りこんできた。
凍って動きの鈍いドアを押し開け、車内に入ってから家から履いてきた長靴を父が駅まで手に持っていた履き慣れた革靴に替えた。まもなく発車の汽笛が雪の降り続く空気を破って鳴った。
ホームの土手に立っている古ぼけた電柱の傘の明かりの中に入った柔らかい雪が、まるで都会への出発を送るために舞を踊っているようだった。
こうして松尾賢二は三年間着古した兄からの学生服姿で、十八年間親しんだふるさとの山々に別れを告げた。
翌朝、眠りから覚め窓の外を見てびっくりした。
いっぺんに冬から春の世界に連れ込まれ、どこを見渡しても雪らしいものはまったくなく、畑には春野菜が青々と輝いているではないか。列車のアナウンスは「終点の上野駅まで二時間程で到着します」と放送していた。
突然目の前に現れた春の柔らかい太陽の光は心の底から勇気と力が湧き出てくるような眩しさに感じられ、じっとしていることが段々苦痛になってきた。そこで早速、列車内を歩いてみることにした。ポカーンと大きな口を開けて煙草のヤニで茶色く汚れた歯を出して眠っている男や、窓の外の景色をぼんやりと見つめている中年の女もいた。
トイレで用を足し洗面所で顔を洗って出てくると、どこかで会ったことのある若い男の白い顔とぶつかった。若い男は松尾の思い出そうとしている目と合うとニコニコと笑いながら声をかけてきた。
「やあ、しばらくぶりだね」と、しかし、ほんの少しの間ではあるが名前を思い出せないでいると、男は松尾の気持を察したのか白い顔には不釣り合いな、太い眉と小さな目を開いて再び口を開いた。
「俺だよ、工藤だよ、同じクラスだった」
松尾はそう言われてやっと思い出した。
「ああ、やっぱりそうか、あの東雲の工藤正雄か」
「そう、そうだよ」と、言いながら工藤は大きく頷いた。
ようやく白い歯を出し、微笑みながら。
「最初どこかで会った顔だなと思ったんだが、もしかして人違いかもしれないと思い、だから声をかけられなかったんだ」
罰の悪そうな弁解を聞いて、工藤は自分の格好もまんざらではないなという妙に自信ありげな顔つきをして。
「俺は一目見てすぐ分かったよ」
工藤は松尾の学生服姿を何か珍しいものでも見るように、目を細め眺め回した。
松尾も彼のまんざらでもない姿を見て。
「きっと誰だって見間違う、卒業するまではボサボサの坊主頭にくたびれた学生服だったろう。それが、今はピカピカの背広に格好いいネクタイを締め、おまけに髪の毛はビシッと決めてるんだから」
よく見ると、工藤正雄は足の爪先から頭のてっぺんまで完璧に一人の社会人であった。
しばらく同級生の動向やお互いの将来などについて話をしていると、空気の対流に乗って整髪料の強い匂いがしてきたので聞いてみた。
「いい香りがするが一体、頭に何を付けてるんだ」
すると座席の下から流行りのバッグを取り出し、中から小さなウイスキーのような液体の入った瓶を出し、松尾の目の前に差し出しながら。
「これはフランス製の整髪料で結構高いんだぜ」
そして、その覚えたての名前を確かめようとして、瓶の正面に貼ってあるフランス語のラベルを見つめながら何やら独り言を繰り返した。
二人は「お互いに頑張ろう」と言って上野駅の到着ホームで別れた。
大きくて長い屋根付きのホームには大勢の人々が、それぞれの待人を出迎えていた。その中には工藤のおじさんと称する五十才位の赤ら顔で背が低く、腹の突き出た人が彼の到着するのを待っていた。
出迎えてくれる人は誰もいない松尾は、旅行カバンを一つ抱えて一人でさっさと次のホームに向かって歩いて行った。
駅の中はどこへ行っても、人、人、人の群集で心の中には「やっと日本の首都、東京に出てきた」という実感が否応なしに湧いてきた。
松尾は「中央線、中央線、中央線下りはどっちだ」とお題目のように唱えながら、中央線への階段を上り終ったら、ちょうどホームに滑り込んできたオレンジ色の電車の行先も確かめず、乗り遅れては大変とばかりに飛び乗った。
一時間の間に同じような電車が次から次へと何本もやってくるとは考えてもいなかった。
電車が新宿駅に着いた時、この先どうなることかと乗客に揉まれたが、三鷹駅を過ぎたあたりから本来の気を取り戻し、間もなくすると座席にありついた。
電車は今どの辺を走っているのか見当もつかなかったが、たった今、出てきたばかりのホヤホヤの田舎者であることを、向かい側に座っている三人の女子校生たちに見破られたくない一心で、窓の外をキョロキョロと振り向き駅名を確かめることもせず、初めて見る都会の流れる景色を物珍しそうに眺めていた。
沿線には赤やピンク、色とりどりの花が、春の柔らかい陽をいっぱい受けて咲いていた。まるで社会全体が輝いているような白さと眩しさで、昨夜のどんよりとした雪景色を思い出したら、タイムトンネルの世界に飛び込んだような錯覚を感じるのだった。
見合いのように反対側に座っていた女子校生たちが、何やらクスクスとお互いの顔を見合わせて笑い始めた。
その中の一人の視線は明らかに松尾に向けられていた。
しばらく走っていると電車は豊田駅で止まって動く気配はなくなった。車内を見回してみたら乗っているのは松尾とぐっすりと眠りこけている一人の中年男だけだった。
開け放たれたドアの外では、さっきの女子校生たちが車内にぽつんと取り残されている松尾の困惑した姿を見て、必死に笑いをこらえていた。
「ねえ、ねえ、見てみて、あの人やっぱりこっちの人ではないわよ」と。
三人の中で一番背の低い生徒が隣を指で突っつきながら言った。
すると横にいた髪の長い生徒が自分の推理が当たったとばかり喜んで。
「そうでしょ、あの制服に付いてるバッジとボタン見た。それに靴、まるで流行遅れよ」
松尾が三人の中では一番可愛いと思っていた、大きな瞳をした生徒が口を開き。
「どこからやって来たんでしょう。ここが終点だってことを知らないんでない。誰か教えてやってよ、まだ気が付かないでいるよ、そのうち車掌さんに怒られるわ」
すると髪の長い生徒が大きな瞳の生徒に向かって、半分からかうように。
「それなら、あなたが知らせてきたら。きっとウマが合うわよ、そして、ついでにどこから来たのか聞いてみたら、おそらく聞いたことないような田舎からよ」
それを受けて背の低い生徒が。
「ついでに名前と電話番号も聞いてみたら」と早口に付け足した。
松尾は三人の女生徒の視線をまともに受けて、このままでは何かが違うと思い、重いカバンを持ち上げ、外に出ることにした。
一陣の爽やかな突風が松尾の頬を撫でていった。
松尾は胸を突き出して思いっきり深呼吸をしてみた。明日から始まろうとしている新しい人生を力一杯抱きしめたくなるような気持ちで、そういえば「旅の恥はかき捨て」と誰かが言っていたようなことを思い出し、さっきから気になっていた三人の女生徒に近づいていき。
「すみません、この電車どこへ行くんですか」と訪ねた。
すると三人はお互いの顔を見合わせ白い歯をのぞかせ可愛い声を出して笑った。
松尾もつられて笑った。
大きな瞳の生徒が顔を覗き込むように。
「この電車はここが終点よ、どこまで行くんですか」
松尾はズボンのポケットからくしゃくしゃになった一枚の小さな紙片を取り出し、道順の書いてあるところに目を移し、目的地を口の中で反芻してから。
「中央線にある高尾駅っていうところまで」と言い、さらに大きな瞳の生徒に次の道順を聞こうとしたら、背の低い生徒が割り込んできて、早口に。
「高尾駅ならもうすぐよ、階段を渡って向こうのホームから乗るのよ、私達も乗り換えるところだったの」そして続けた。
「どこの高校ですか?」
松尾はどう答えて良いのか返事に困った。
乗り換えの階段に向かってゆっくりと歩きながら返事を探した。三人の女子高生たちも旅行カバンを抱えた松尾の横についてきたので。
「僕は高校生じゃないんだ、ついこの間、卒業したばかり」と苦笑いをした。
すると三人は同時に「ふぅーん」と不思議な顔をしながら声を揃えた。
髪の長い女生徒が意地悪そうな目をして。
「じゃ、卒業したのにどうして学生服を着てるんですか?」
他にこれといって丁度よい着るものがなかったし、金がないので背広を買ってもらえなかった、などと言えなかったので意地悪そうな目をして聞いてきた色白の美しい生徒に向かって。「一応、卒業だけはしたんだけど……やり残した事があるような気がし、そのことを忘れないようにと思って……それにこの方が気楽です」と強がりをいった。
三人の女子校生たちは「そんなぁ」とお互いの顔を見合わせながら笑った。
そうこうしているうちに乗客のまばらなホームに高尾行きの電車が入ってきた。
ドアの開くのを待って四人は乗り込んだが、三人の女子校生達は空いている席に座ろうともせずドアの近くに固まっておしゃべりを再開した。松尾もカバンを床に置き話の輪に入ろうと思ったが、まもなく電車は八王子駅に着いた。
三人の女子校生たちはそこで降りるのであった。
三人は「さよなら」と小さく手を振ってドアの外に快活な足取りで出て行った。
松尾は心の中で「さすが、東京の女子高生は積極的だなぁ」と思った。
中央線、高尾駅の改札を出て、回りの街並みを見渡してみたら、描いていた東京のイメージとは違って、ほとんど田舎の風景と同じであった。
街を行き交う人々を見ながら歩いていると、まもなく目指すOA電機通信という会社に着いた。人の良さそうな守衛のおじさんが。
「あのピンク色の大きな建物が高尾寮だよ」と指さしながら教えてくれた。
守衛室から寮までの間には、工場の大きなコンクリートの建物が道を挟んで並んでいて、その中には一面コンクリートで窓らしいものもない変わった建物もあった。
途中に平屋があり、その入り口付近で五、六人の女性がおしゃべりをしていた。
社員の行き交う姿の見あたらない広い構内の道を、一人歩いている学生服姿の男に、女性たちは視線を向けていた。その建物は社員食堂で女性たちは遅い昼食を食べようとしていたのだった。
女性たちも同じようにそれぞれの住み慣れた地方から家族と別れて就職し、女子寮に入ったばかりだった。松尾はその近くを通る時、ペコリと頭をさげ「よろしく」と挨拶をした。
女性たちの何人かも同じように挨拶を返した。
寮の中に入って行くと、高齢の管理人が待っていました、とばかり愛想のよい顔をして出迎えた。こうして松尾は社会生活の第一歩である寮生活に踏み出したのであった。
新入社員研修もスケジュール通り終わった後、入社式の四月一日に松尾は電子部品製造課第二係という職場に配属された。
仕事の内容はいたって簡単でリードスイッチという部品の検査で、窒素ガスを封入されたガラス管の両側から入っている金属の、金メッキされた接点の特性を、機械や顕微鏡を使って検査することで特別な経験も必要なく、すぐに覚えられる仕事であった。
まもなく寮生活にも仕事にも慣れ親しんできた六月の末、松尾は高校時の吹奏楽部での演奏会アルバイトの延長として労音の活動を始める中で、民青同盟にも入って寮と会社の中で非公然の活動をするようになった。
五十名近く入った新入社員の中で民青に加盟した新入社員であったので、OA電機通信共産党支部は松尾については一人前になるまでは非公然な活動をするようにすすめた。
夕方、仕事が終わっても寮の部屋にいることは少なく、時々は非公然な活動をするため外に出かけていた。
労音や民青の会議、他に開かれていた民主団体のさまざまな学習会や基地反対の集会などに参加するのが松尾の主な活動だった。
寮は会社の塀に囲まれた敷地の中にあり、正門は一箇所しかなかったので、外に出て行く時は必ず守衛のいる正門を通らなければならなかった。夜、遅く寮に帰る時もまた同じように守衛の前を適当に挨拶をして帰るのだった。
守衛に挨拶することもなく避けるように門を通り過ぎると、外で何か悪いことでもしてきたと解釈され、後で会社の勤労課に報告されることもあった。恥ずかしくて他人には知られたくない寮生同志のほのかな恋などは、出る時も、また帰りも正門を通る時は別々の時間差が必要で、そうしなければ始まったばかりの恋愛が勤労に知られることとなり、好ましくないと判断された場合は時によって、上司や管理人、回りの人間関係を通じて壊れるまで妨害が入ることになるのだった。
そのようなことを経験的に知っている活動家の先輩たちは、時々、そのような守衛のいる正門を通らず、寮に最も近い塀の上を時代劇に出てくる忍者のように飛び越えては部屋に帰ってくるのだった。松尾も夜、活動で遅くなった時は部屋に一番近い二メートルばかりのコンクリート塀を、よじ登って帰ったことも一度や二度ではなかった。
日曜日のある日、OA電機通信の共産党支部と民青班は朝早くから一日行動をする計画をしていたので、松尾は時間を気にしながら寮を飛び出し、電車に乗り高尾駅の次の西八王子駅に降り、木造アパートの一階端にある支部のセンターに行った。
センターには既に何人かの人が来ていて、それぞれガスでお湯を沸かし、お茶の準備をしたり行動に使う資料や持ち物の準備を手際よくやっていた。松尾も署名用紙の仕分けを手伝った。
まもなく予定していたメンバーが全員揃ったので打合せが始まり、責任者の武山が「ごくろうさん」と言ってから、書いてきた簡単なレジメを渡して説明を始めた。
めいめいが目の前にあるお茶に手をのばし、真剣な眼差しで聞き、武山の低い声だけが六畳の狭い部屋の中に響いた。
「今日の行動は地域にベタに入って安保反対の署名を取ることです。すでに今まで何回かやってきたが、まだまだ数が少ないのが現状で、今日は午前中から手足早くやり、二人一組で約五、六十として三百ぐらいは集めたいと思っていますが皆さんどうですか」
全員、異議なしということになり、安保の危険性について書いてある「文書」を読み合わせすることになった。
武山の正面に座り、肩まである長い髪を後ろで束ね、笑うとえくぼの可愛い品質課の渡部が提案した。
「松尾くん読んでください」
みんなの視線が集中したので、一番若い松尾は背筋を伸ばし、やや緊張した面持ちで配られた文書をゆっくりと読んだのだった。
短い安保の学習も終わり、具体的な段取りになり、松尾は二百五十CCのバイクを持っている同じ課の飯田と組みを作ることになった。
住んでいる棟は違うが同じ寮生でもある飯田は三つ年上で、仕事のストレスがたまると夜中にバイクで外に飛び出し、走り回る癖があることで知られていた。二人はバイクということもあってセンターからは最も遠い地域に入ることになり、さっそく地図などの必要なものを手に出かけることにした。
腕の時計を見たら十時で、午後一時の最初の集中時間にはまだ三時間はあった。
バイクの後ろに乗せてもらうのは初めてだったので、飯田の後ろにしっかりとつかまって、松尾は冗談半分に話しかけた。
「先輩、安全運転でゆっくりとやってくださいよ。革命が成功して日本が社会主義になるまでは死にたくないから」
「まかしとけって、メーターを見てみな。これを手に入れてからもう二万キロ近く走っているんだから。ヒヤッとしたことは何回かあるが事故ったことは、今だ一度もないんだから」と自信ありげに言った。
署名活動は松尾にとっては、これで五回目であったので、それ程苦にも感じなかったが、最初の時は一体何をどういう順序で話したら良いのか分からなかった。
署名に入った家の玄関先で「安保反対の署名にご協力ください」とまでは繰り返していたので自信はあったが、その後が上手く話すことができなく支部や班の先輩にまかせっきりであった。 しかし、同じ事を繰り返しているうちに次第に要領がつかめて質問にも応えられるようになり、相手を多少は説得することができるようになってきた。
松尾は署名活動に入るたびに「政治問題での署名活動は難しい」そして「先輩たちのようにもっと学習しなければ」と思うのであった。
二人の乗ったバイクは、指定された地域の中にある団地に向かって軽快に走った。
木造平屋建ての細長くて同じ形をした建物が、道路を挟んで両側に規則よく並んでいた。このような団地は松尾の田舎にはなかったので、間取りがどうなっているのだろうか興味があった。バイクを団地の端に植えてある大きな桜の木陰に停めて片端から入ることにし、先にお手本ということで、飯田が先輩風を吹かせて最初のドアを軽く叩いた。
しばらくして中から返事がし、六十才位のおばさんが顔を出した。
飯田が笑顔を作って。
「お忙しいところお邪魔します。OA電機通信に勤めている者ですが、安保条約反対の署名にご協力をお願いします」と言って、クリップボードに挟んだ署名用紙とボールペンを差し出した。するとおばさんは一つ返事で。
「ああ、いいよ」と言い。
「OA電機通信に勤めているんですか」と付け足し、下駄箱の上に署名用紙を置き、名前をボールペンで書きながら。
「あんた達も若いのにOA電機通信も大変だね、頑張ってね」と言った。
松尾は何か勘違いをしてるのではないかと思い。
「おばさん、この署名はアンポ、アンポジョーヤクの署名なんです。安保反対の」と言いかけると。
「分かってますよ、安保は怖いものね」と言った。
飯田が聞いた。
「僕もそう思いますが、どうして怖いんですか」
おばさんは思い出したかのように口を開いた。
「うちの息子が八年前、学生の頃、アンポに殴られて頭と腕に大怪我させられたのよ、何一つ悪いことなんかしていないのに。ちょうど今頃だった」
飯田がここぞとばかり。
「息子さんは六〇年安保闘争に参加したんですか。これまた奇遇ですね」と一人で感心していた。
「そんなことだったら安保闘争で怪我をさせられた、息子さんのカタキをとる意味でも是非、家族みんなの分も一緒に署名してください。お願いします」とビラを数枚渡したら。
「はいはい」とうなずき、一緒に住んでいる家族全員の名前を隣に並べた。
ドアを閉め、次の家のドアをたたく前に署名用紙を見てみたら、何と五人の名前が書き連ねてあったので飯田は嬉々として。
「幸先がいいな。この分だといっぱい集まりそうだ」と言った。
飯田の予想通り、署名には留守家庭を除いて八割近くの人が快く応じてくれた。たいした時間もかからず五名連記の署名用紙が十枚程いろんな人の名前で埋まり、今までにない自信が生まれてきた。
二人とも額にうっすらと汗をかき喉も渇いていたので、垣根沿いにあった自動販売機でコーラを飲んだ。
コーラが喉を潤し、空になった胃の中に入っていくのが心地よく、時計をみたら一時までには三十分以上の時間があったので、二人はバイクだとセンターまで十分もかからないから昼飯でも食べてゆこうとした。
浅川に架かっている橋を渡ったすぐのところに白地に赤で『安くて旨い定食』と書かれたのれんが目に入ったので、松尾は飯田の背後から大きな声で「先輩あそこに入ろう」と言った。
定食屋の前には飯田と同じようなタイプのピカピカに磨かれた、新車らしいバイクが二台きちんと並んで止まっていた。中に入っていくと大学生らしい男女四人がテーブルを囲んで、仲良く同じカレーライスを食べながら隅のテレビを見ていた。
二人は早速テーブルに着いて壁に貼ってあるメニューを眺めた。
松尾は食堂のおばさんが「いらっしゃい」と言いながら持ってきたコップの中の生ぬるい水を飲みながら、何にしようかと考えていたら、飯田が帰りかけようとしているツーリングの若者たちを横目で見ながら。
「いいなあ、今日みたいな天気、バイクは最高だろうな。しかも後ろに可愛い娘なんかが乗っていたら文句のないところだ」と、松尾は。
「先輩、今日は男で悪かったね」と笑って反論した。
二人はそれぞれ焼肉定食と野菜炒め定食を頼み、あっという間に食べ終わって店の外に出た。八王子駅北口に向かう遠くの赤信号の前で二台のバイクに乗った、さっきの男女四人の若者の赤と黒のヘルメットが、太陽の光を反射して光っていた。
二人は再びバイクにまたがって午前中の成果と教訓をみんなのものにするためセンターへと向かった。飯田の運転するバイクは、来る時とは違う車の多い道を走っていたので。
「先輩、どこかへ寄ってから帰るんですか」と松尾は聞いた。
「ちょっとね、欲しい本があるから、くまざわへ寄って行きたいから付き合えよ」とアクセルをふかした。
エンジン音と同時に松尾は「オーケー」と大きな声で返した。
松尾は電車で八王子駅に降りて時間がある時は大抵、くまざわ書店の二階に足を運んでいた。二階には国民文庫のマルクスやエンゲルス、それにレーニンの本がたくさん並んでいて、共産党中央出版局や新日本出版社の読みたい本がまとまって本棚に並んでいたからであった。
飯田もそうであったが民青班の人達はくまざわ書店を利用していた。
バイクを書店の裏の狭い路地に止め、歩くとギシギシと音がする二階に上がって行った。
飯田は本棚の中を探していたら「あったよ」と喜々とした声を発した。
松尾は何という本なのかと思い反対側からそばへよって表紙を見たら、国民文庫の毛沢東『実践論・矛盾論』という本であった。
「先輩は毛沢東が好きなんですか」
「ああ、なんといっても毛沢東は革命思想の実践で、あの広大な中国に革命をもたらし、社会体制を人民のために変えた人間だからね、並の人間にはできないことだよ。その偉大な思想のほんの少しでも知りたいと思ってね」と言って飯田はポケットの財布を探していた。
松尾には『毛沢東』での忘れられない苦い経験があった。
小学校五年生の社会の時間、担任だった女の先生が急用で休んだので、その代わりとして髭の濃い男の先生がやってきた。
クラスをじろりと見渡してから、黒板いっぱいに大きな字で『毛沢東』と横に書き、生徒にむかって。
「この字は何と読むかわかるか」と挙手を求めた。
生徒はキョトンとし、すぐに手を挙げるのは一人もいなかった。
すると先生はクラスで一、二番のいたずら生徒であった松尾を名指し。
「読めなければ、この字から受ける感じでもいいから言ってみろ」と、なかなか座らせてくれなかった。
東ではないが……南にある山奥に秋になると紫のアケビが沢山、連なっている沢があり、みんなには秘密の場所があったので、そのような事かも知れないと思い、感じたことを言った。
「東の方に動物の毛がたくさん採れる秘密の沢のことです」
すると先生は意地悪な声で。
「それは地名か。それとも何か?」と聞いたので、自信を持って。
「地名……わかりません!」と答えた。
すると後ろの方で「はい」と手を挙げた生徒がいたので、先生はにやりと笑って指名した。
その男子生徒はしっかりとした声で。
「モウタクトウ」と読んだ。
先生はついでにと言い、その意味をたずねたのであったが、生徒は自信をもって。
「中国革命を指導した政治家、革命家です」
先生はその生徒の立派なこたえに対し、大いに満足して誉めあげるとともに、松尾に対しては「お前は毛沢東も知らないのか」と言って、みんなの前で軽蔑し、社会の時間が終わるまで。
「後ろに立ってろ」と言われ、教室の後ろに立たされたことがあった。
生徒の父親の職業は『町長』であった。
飯田は財布の中から百円玉をいくつか出してレジを通った。
手には『毛沢東』が大事そうに握られていた。
日曜日の午後ともなれば街を行き交う買い物客の雑踏で道は混雑していた。そこで二人はなるべく広い道を通って行こうということになり、八王子駅北口の広い道に出てから、まっすぐに五十メートルほど走って、甲州街道のバイパスを抜けて行こうとした。
松尾の腕には集めたばかりの署名用紙とビラが四、五十枚入った紙袋がしっかりと抱かれていた。飯田は少し急ぐようにアクセルを回し、加速されたバイクは徐々にスピードをあげ、二人の乗ったバイクは郵便局の角にある交差点の手前にさしかかった。
信号は長い青から黄、そして赤になる寸前で、対向してくる車もスピードをあげた。
飯田の運転するバイクもいち早く交差点を抜けようとスピードをだした。
交差点の中に入った瞬間、右折してくる対向車のボンネットが松尾の目の前に見えた。「あっ」と声を出す間もなく車はバイクの右側面の後部にぶつかってきた。その弾みで松尾は空中に投げ出され、二、三回転をし、両腕からコンクリートの車道を擦りながら落ちた。立ち上がろうとして顔を上げ周囲を見たら、バイクは歩道に乗り上げ、二人の女性を跳ねていた。
うつ伏せに倒れている一人の女性の横で、もう一人の女性が苦しそうにしゃがんでいた。その女性の肩越しに飯田が声をかけていた。ぶつかってきた車は白いライトバンで交差点の外端に止まり、運転席には中年の男がいて、外の様子を伺うように座っていた。
松尾の両肘から手首にかけて皮膚が大きく削られ、埃や小さな砂粒がいっぱいくっつき、その下からは鮮血がゆっくりと痛みと共に滲んでくるのだった。
回りにはだんだん人が集まってきた。松尾はようやく立ち上がった。
ふと目の前を見るとガードレールの下に、さっき集めてきたばかりの署名用紙とビラがバラバラになって落ちていた。
「まもなく警察が来る」と思った松尾は、跳ねた女性は飯田にまかせ、辺り一面に散らばった署名用紙とビラを腕の痛みも忘れて必死になってかき集めた。指の先からはポトポトと鮮血が垂れて最後の何枚かの用紙を汚した。しかし、それらを手に持っていたら事故調査の時に、あれこれ関係のないことまで聞かれ、支部や班のみんなに迷惑をかけることになりかねないと思い、集めた署名とビラを一まとめにし、丁度近くにあった大きなゴミ箱の蓋を開け、その中に突っ込んだ。「あとで取りにくるからな」と独り言を言って蓋を元に戻した。と、同時にサイレンの音が聞こえ、二人の女性と一緒に松尾は救急車で近くの病院まで運ばれた。
松尾の皮膚が剥され鮮血で汚れた両腕を見て、看護師は白いクリーム状の薬を、両腕の傷口に直接塗り込み、その上にパラフィンを当て包帯を手際よく、ぐるぐると巻き終えると。
「はい、これでもう終わりよ」と言った。
包帯からはみ出た両手は汚れたままであった。皮膚の傷口にくっついている埃や小さな砂粒をきれいに洗い流し、優しく消毒してくれるもの、とばかり思っていた松尾は、あっけにとられ看護師に聞いた。
「えっ、終わり?じゃ……もう帰っていいですか」看護師は忙しそうに次の仕事に移りながら「そうよ、あとは受付で聞いてください」と微笑んだ。
気持ちを落ち着かせるために、もう少しこの場に居たいと思いながら、松尾はホルマリンの匂いのする処置室を出て洗面所に向った。
手にこびりついた血の跡や埃やゴミを洗い流しながら、鏡の中の自分を覗いてみたら髪にも額にも、そして鼻の頭にも埃と血が付いていた。
両腕には真白な包帯が巻かれ「これで目だけ残して頭にも包帯をしたらまるでフランケンシュタインかミイラってとこかな」と鏡に写っているもう一人の自分の姿を見て苦笑いをし、このような格好で街の中を歩いたら人々は、一体、どう思うだろうかと想像してみた。
きっと、みんな恐れて逃げていくことだろうと思いながら、蛇口の水を両手一杯にすくって埃などで汚れた顔を不自由な手で洗った。
飯田と松尾の二人は、八王子警察署の狭くて小さな机と椅子だけの殺風景な部屋の中に案内され、事情聴取の警察官が来るのを待っていた。
松尾の大げさな包帯の恰好に比べると、飯田は幸い掠り傷一つなかったのだが、顔色は松尾の方が良く、飯田は運転していた責任もあって少し青ざめていた。
無口で座っている飯田に聞いた。
「先輩、センターへの連絡どうでした」飯田は口をあけ、空気を大きく吸うと、狭くて低い天井を見上げながら重そうに口を開いた。
「連絡をしようとしたがパトカーが来てから動きが取れなくて、それにぶつかってきた車が逃げてしまったんだよ」と言ったので驚いて聞いた。
「それじゃ、事故の責任はすべて我々にあるということになるんですか」
「どういうことになるのか、これから詳しく聞かれるんじゃないかな」と自信なさそうにこたえた。そこで松尾は。
「先輩、逃げた車は白いライトバンでしたよ。多分、N社の車だったような気がするんだけど。それでナンバーの方はわかってるんですか」
飯田は目を細め、眉間に深いシワを寄せて。
「それが何も分からないから、ここに来るように言われたんだよ。早く跳ねた人へ謝りにも行かなければならないし、何でもなければ良いが」と、がっかりと肩を落とした。
松尾はこれから始まる事情聴取に対し、顔色の悪い飯田を少しでも元気づけようと努めて明るく振るまった。
「先輩、署名とビラの方は大丈夫ですよ。救急車がくる前に一枚残らず、全部拾って、ゴミ箱の中に隠しましたから。だから、色々聞かれたら街へ遊びに来たところだった。とでも言いましょう。そうすれば交通事故として処理されて終わりですよ、きっと」
二人でそんなことを話していたらドアが開いて、交通課の恰幅のいい四十才位の職業が板についた巡査が、数枚の書類を持って入ってきた。
二人は神妙な顔をし、事故の状況時の事務的で簡単な質問に、かわるがわる応えた。それを所定の事故報告書に確認しながら書いていた巡査は、一息ついてから二人の顔をかわるがわる見ながら。
「君たちはまだ若いし、人生はこれからだ。跳ねられた婦人の二人も病院へ問い合わせたら、幸い大きな怪我もなくて掠り傷程度だそうだ。一人は気が落ち着いたので家に帰り、もう一人の方は頭を打ったので、念のため今日は入院するそうだ」
それを聞いて二人はお互いの顔を見合わせ、ほっと溜息をついた。
松尾はこれで息の詰まりそうな部屋から帰れると思ったが、恰幅のいい巡査は胸のポケットからゆっくりとセブンスターを取り出して、その中の一本を厚い唇にはさんだ。そして目の前にあるステンレスの使い古した灰皿の中にあった、喫茶店かスナックから持ってきたような茶色の小さなマッチ箱を手に取ってこすり、時間だけは日が暮れるまで、たっぷりあるという顔をし、タバコの煙を狭い部屋の中に撒き散らした。
飯田の憔悴した顔を見ながら。
「ところで君はもうすぐ二十二才になるのか。いつまでもバイクを乗り回していてもしょうがないだろう。遊びたい気持ちも分からんではないが。事故がなければ二人で一体、どこへ行くつもりだったんだ」二人は身構えた。
飯田は言葉を探していたので松尾はすかさず。
「パチンコでもしようと思って出てきたんです。高尾には遊ぶようなところが全然ないので」「高尾の方にだって遊ぶところはあるだろう」と巡査は反論した。
「ボウリング場とかはありますがパチンコ屋はありません。それにボウリングはあまり好きじゃないです。金ばかりかかって景品もないし」と松尾は言った。
飯田も横で「そうです」というふうに相槌をうった。
巡査はそれでもしつこく聞いてきた。
「どこのパチンコ屋へ行くつもりだったんだね」
「職場の友達が長崎屋の裏通りにあるパチンコ屋が今度、新しく台を入れ替えたって教えてくれたもんですから二人で探し行くところだったんです。休みの日はこれといって何にもすることがないから暇なんです」と松尾はいかにも三無主義にとっぷりと浸かっている若者の代表でもあるかのように応じた。
「長崎屋の裏にパチンコ屋があったかな」と巡査が窓の外を見ながら自問自答したので、松尾はすかさず。
「ありますよ」と自信たっぷりのある声で言った。
実際のところ松尾は八王子に来てから二度程度その道を通っただけで、パチンコ屋があったとは知らなかった。ただ飲み屋があり、賑やかな通りなので一軒位はあるだろうという単なるハッタリだった。
巡査は話を変えてきた。再び飯田の顔を見て。
「君は事故の時、バイクからうまく飛び降りることができ怪我をしないですんだが、どうしてその時、ぶつかってきた相手の車のナンバーを確かめなかったんだね。ほんの二、三秒もあればナンバーを確かめるぐらいはできるだろう。パトカーや救急車が来るまでの間どうしてたんだね」
飯田は灰皿の上に置かれ、低い天井に向かってゆらゆらと立ちのぼるタバコの細い煙を見つめながら。
「歩道に突っ込んで二人の女性を跳ねた時、気が動転してしまって、どうして良いのか分からなくなって、道路に倒れている女性に声をかけながら見てました」
すると巡査は諭すように。
「見てたってしょうがないんだよ。加害者なんだから。そういう時はまず負傷者の安全を確保して、すぐに救急車を呼ぶんだよ。わかったかね」と言った。
短い沈黙が流れた時、松尾は窓の外を眺めた。
雲一つない青い空が、朝、寮を出た時と同じ色のままであった。
「今頃、みんなどうしてるんだろう。きっと心配してるかもしれない」と考えながらゆっくりと一呼吸した。
「早くここから解放されて、連絡をしなければ」と考えた。
巡査は相も変わらず、ゆったりとした仕草で二、三枚の書類をかわるがわる見ていた。
松尾は何か計算があって、そうしているのだろうかと考えたり、どうしたらこの場を早く切り抜けることができるだろうかと考えた。しかし、暇を持て余している三無主義の若者という設定になってしまったので、ここでせっかちになっては相手の思うツボと考え、これから何時間でも付き合ってやるという腹積もりが必要と考えた。
書類から目を離した巡査が、松尾の両腕の手と肩を残して平等に巻かれている白い包帯を見つめながら、厚い唇を動かした。
「君、その腕の方はどうだね。痛くないかね」松尾には早く帰りたければ「素直に痛いと言え」というふうに聞こえたので。
「優しい看護師さんにやってもらったから全然痛くありません。明日からの仕事の方も平気です」と余裕のある顔をした。
すると巡査は「それは良かった」と同情し、続けた。
「君の本拠地は秋田だね。秋田は米がうまくていいところだろう、私も何年か前に旅行で行ったことがあるが、みんな素朴でいい人ばっかりだったな」と思い出したように言った。
ということは……その反対の人間?つまりは、ひねくれて悪いということかと思い、ひょっとすると、巡査は飯田が途中で買った『毛沢東』を現場の警察官から報告を受けているのではないかと考えた。それで高校を卒業し、すぐに秋田の田舎から東京という大都会に出てきたばかりで、世の中のことをほとんど知らない松尾が『毛沢東』を読むような飯田と遊んでいても、今日の事故のように将来ろくなことが起きないから、これからは付き合わない方が良い。などと本来の業務とは関係のない余計なことを、あれこれと心配しているのではないのだろうか、と考えてみた。
巡査は松尾の方を見て。
「君はまだ一八才か、若いなぁ。これから、いろんなことがやれて将来が楽しみだ。秋田の両親もきっとそう思っているのでないか、今日みたいにバイクの後ろに乗って、走り回るのは危険だからやめた方がいいんでない?バイクによる若者の死亡事故が最近、ここの管内でも多いし」と言うと、飯田の方をじろりと見て。
「君はバイクで大垂水峠などへは行くかね」
「月に二、三回ほど車の少ない時間帯を狙って、相模湖を一周したりしますが」と言った。
すると巡査は保護者のような顔で。
「あの大垂水峠をレーサー気取りで走ったりしてないだろうな。事故を起こしてからではどうしようもないよ。この間も一人、市内にある大学の学生がカーブを曲がりきれずに、ガードレールを飛び越えて、崖の下に落ち首の骨を折って亡くなったんだよ。確か、三ヶ月前に免許取ったばかりで、しかもバイクは買ったばかりの新車だったなぁ。だから君たちも遊ぶことばかりや、最近、騒がれているヘルメットをかぶって鉄パイプを振り回し、大学の屋根に登って暴れている連中のようなバカなこと考えたりしないで、もう少し社会や大勢のためになるようなことをしなければならないよ。そうでなければ今まで君たちを苦労して育ててきた親や兄弟を悲しませることになるだけだよ」さらに続けた。
「人生には毎日の食事での栄養も不可欠だが、サルでなく人間になるためには、哲学も食事と同じくらい必要なものではないか?文化や哲学や芸術などへの素養もなければ、人生時間の浪費といえるんじゃないか」
いつ終わるともしれないような巡査の長々とした取調べが終り、警察署の門を出たら太陽は西の空にだいぶ傾いていた。時計を見たら五時をすでにまわっていた。
狭い部屋でタバコの煙で汚れた空気を吸わされていた二人は、外の空気をうまそうに、たっぷりと吸った。
松尾は飯田の安心した顔を見て。
「先輩、あの巡査、俺たちを暴走族かトロツキストと間違えていたのではないでしょうか」
「そうかもしれないな、特に俺のことはまともな人間ではないというような目で見ていた感じがしたな、もう二度とあんなところへ行くのはごめんだな」と道路に軽く唾を吐いた。
松尾は「それもそうだ」と相槌をうちながらも。
「先輩、あの巡査、もしかしたら共産党シンパだったかもしれないな」
「どうしてだよ?」
「だってサルから人間とか、文化や哲学など真理への意思が大事とか言ってましたよ」
「そうか、俺たちも最初から民青って言えば良かったかもしれないな」と飯田はバイクの事故以来、始めて表情を崩した。
二人は近くにあった電話ボックスからセンターに電話を入れてみたがベルが鳴りっぱなしで、誰も出る気配はなかった。
時間も遅かったのでみんな、もう引き上げたのかもしれないと判断し、とりあえず被害者に謝ろうと病院へ行くことにした。
病院は駅へ向かう途中にあった。
松尾は数時間前に世話になった受付で病室の番号を聞き、どのように謝ろうかと考えながら階段を上って行った。
病室の前に立ち、一呼吸をしてから飯田がトントンと軽く叩いてみた。返事がなかったので再び叩いてみたがやはり返事はなかった。せっかく謝罪しに来たのに、どうしようかと迷っていたら、そこへちょうど洗面所から帰ってきたのだろうか、緑色のガウンを着た一人の若い女性が同じ病室のドアの把手に手をかけたので、二人はその女性の背中にくっつくようにして、一緒に病室の中に入った。
入ってすぐ手前のベッドにいた女性が謝らなければならない相手であった。
三十才位の家庭の主婦と思われる女性は、化粧を落とした青白い顔でベッドから上体を起こし、目の前の空間を見つめながら、ぼんやりと考え事をしている様子であった。
松尾の包帯を見てすぐに自分を跳ねた加害者の人達だ、ということを理解し、急に冷たい顔になり、ぷいと横を向いてしまった。
飯田はすぐにぺこりと頭を下げ「すみません」と言ったので、松尾もやや遅れて同じように「すみません」と小さな声で頭を下げた。
飯田は顔を上げてから。
「僕が運転してました。彼は後ろに乗っていたのですが、こんなことになって本当に申し訳ありません」と言って再び頭を下げたので、松尾もつられ同じように頭を下げた。
しばらく無言で横を向いていた女性は二人の方に向き直って、二、三回交互に何かを確かめるように見てから静かに言った。
「聞いたところによると何でも、あなた達は交差点で右に曲がろうとした車に跳ねられ、その弾みで歩道を歩いていた私たちのところへぶつかってきたのだそうですね」
飯田は「そうなんです」と言って、松尾の両腕の包帯に目を移したので、松尾も何か言わなければと思い。
「僕なんか空中に投げ出されて、くるくると何回か回ってからコンクリートにおもいっきり叩きつけられ、こんなみっともない格好になってしまいました」とおおげさに言った。
包帯に巻かれた両腕を、今度の事故の被害者の一人とも言わんばかりに目の前に差し出した。「もう大丈夫なんですか」と聞いてきたので、痛みはピリピリと残っていたが。
「この程度の怪我なんか、怪我のうちに入りませんよ、ほんの少し皮膚と一緒に下の肉が削られただけなんですから」と我ながらみっともないと思っている腕を見ながら苦笑いした。一方では、心の中で何よりも署名用紙とビラが助かったんだから、と自分に言い聞かせていた。
ベッドの女性は帰り際に、二人の顔を見比べてから。
「今度から十分お気を付けて運転してくださいね」と飯田に向かって言い、松尾の包帯で巻かれた両腕と地面に擦れて破れかかっているジーパンの膝を見ていた。
病院の階段を降りながら思い出したように。
「先輩、これから捨ててきた署名用紙とビラを取りに行きましょう。明日になったら清掃車に持っていかれるかも知れないから」
飯田は「わかった」と頷いてから付け足した。
「もうなくなっているかも知れないよ、清掃車は一日中、あちこち走り回っているんだから」
「なくなっていれば仕方がないが、捨てた時、中にはゴミが全く入っていなかったし、回収の済んだ後なら、もしかしたらそのままになっているかも知れない。先輩、せっかく集めた署名でもあるし、歩いてすぐのところだから行ってみよう」と署名に応じてくれた人々の顔を思い出した。
思った通り、集めた署名用紙は古びたゴミ箱の中に入れた時の状態のままだった。
署名用紙とビラの上には小さな潰れたダンボール箱が何個か乗っていて、生ゴミで汚れるのを守っていてくれた。
早速、中から丁寧に取り出してパラパラと軽くはたいて、小さな砂や埃を用紙の間から弾いて大事そうに抱えた。事故現場は何事もなかったかのように車の音と人々の往来する賑やかさがあった。
ゴミ箱の中に包帯した両腕を突っ込んで、ゴソゴソと何かをしていた松尾の姿を十メートル程離れたところから歩きながら見ていたのだろうか、髪の長い赤いワンピースのスラリとした美しい女性が、包帯に巻かれた白い腕を見つめながら、怪訝そうな顔をして二人のそばを通り過ぎて行った。
長い黒髪の美しい女性の通り過ぎた背後には、ハイヒールの軽やかな音と、香水の芳しい香りが二人の間に一瞬、漂った。
腕の包帯も取れて傷の瘡蓋もほとんどなくなった頃、仕事を終えて急いで寮の部屋に戻った松尾は学習会に出かけようとして、押入れ奥のダンボール箱の底にきちんと入れておいた前日の「赤旗」と「学習の友」を手に取ろうとしたら、昨夜入れた時とは違う格好になっているのに気がついた。
数冊の本とノートや「民青新聞」も誰かに触られたような形跡があった。
昨夜は夜十時頃、部屋に帰ってきた。すでに同室の長野は松尾の布団も自分の横に敷き、軽いイビキをかき眠っていたので、目を覚まさないように蛍光灯の消えた仄暗いなか、タオルを肩にかけ洗面所に行き、歯を磨いたり、寝支度をし、部屋に戻ってから電気スタンドを押入れの中に引き入れ、襖を閉めてから十二時頃まで押入れの中に身を潜めて、国民文庫のマルクス『賃労働と資本』を赤鉛筆片手に、忘れてはならないと思うところに線を引きながら読んだのだった。
そろそろ寝ようとして目の前の段ボールに「民青新聞」「赤旗」大学ノートと「学習の友」を入れ、最後に表紙にカバーをした国民文庫の本をしまい、さらに見えないように折りたたんだビニール袋に入った、新しいシャツとパンツをそれぞれ二枚入れてしまい、そうっと襖を開けて自分の布団の中に潜り込んだのだった。
朝は長野に「時間だ、起きろ」と耳元で言われて起きた。
眠そうな目をこすりながら布団から半分、身を起こし、長野の所有物であるステレオのスイッチを入れ、FM放送から流れる爽やかな音楽に耳を傾けながら目を半分に聴いていた。すでに長野は身支度をすませ最後の行動である髪の毛を、鏡をのぞきながらドライヤーと櫛で整えていた。
松尾は大きなあくびをしてから起き、敷いてある自分の布団と、隣にきちんとたたんである長野の布団を押入れの上段に入れ、作業着に着替え最後に部屋を飛び出したのは松尾で、ドアには間違いなく鍵をかけたのだった。長野が仮に仕事中、何かの用事で戻ったとしてもわざわざ押入れの物は見たりしない人であることは確かであり、見ようと思えば松尾が夜、出かけている間に誰かにはばかることなく公然とできたし、そのくらいの時間はいくらでもあった。
松尾と同室の長野の年は二十五、六才で寮に入って初めて会った時はおじさんに見えた。
改めてここは学校やクラブではなく、本当の大人の社会であることを認識させられたのだった。
長野は仕事一途な人で、技術関係の本や雑誌は購読しているが、政治的な事件や話には全く関心がないらしく、同室の松尾が夜遅く帰ってこようが、どこかで何かをやっていようがあれこれ、詮索したり質問したりするようなことはほとんどなかった。仕事も定時で帰ることはめったになく部屋に帰ってくるのは、いつも二時間か三時間の残業が終わってからで、土曜日の休みでも普段通りに起きて会社に行き、日曜日には部屋の中でゆっくりとしているか、趣味の囲碁を打つに外に出かけるぐらいであった。
囲碁はアマ三段を持っているということで時々、二人で部屋にいるような時は「一局やろう」と言って声をかけるが、長野にとっては忘れた頃にしか打たない、初心者レベルの松尾相手の囲碁はあまり面白くもないのであろうか、最近は声をかけることもなく、お互いの生活はそれぞれ自由に流れていた。
そのような長野が押入れの私物を覗いたりすることは考えられず、あれこれと疑うほうが恥ずかしくなるぐらいだった。しかし、誰かがダンボールの新聞や本に手を触れたことだけは確かで、新聞の位置も少し違っていたし、本に挟んでいた何枚かのしおりも変なところにあり、そのうちの一枚は外れていた。もし、金目当ての泥棒ならもっと他に捜すところはあるだろうし、部屋の中もあちこちいじられていてもおかしくないが、そのような形跡はどこにもなかった。と、すると……あとは合鍵を持っている管理人かその類の人間ということになる、と推理してみた。 そして、夜、学習会から帰ってきたら早速、同じ寮に住んでいる民青の溝口先輩に相談しようと考え学習会に出かけた。
松尾は電車に乗るために急いだ。
高尾駅までの間に、仕事を終えて家路に向かう労働者を何人も追い越した。高尾駅始発の電車は時間通りに動き、電車の窓から暗くなった会社の風景に目をやったら、研究棟の中は不夜城のように明々と電気がついていた。
走りゆく電車の中で思った「みんな遅くまで働いているが、何が人生の目的であり楽しみなんだろうか。そんなに金が欲しいのだろうか、それとも自分の時間などなくとも、働くことが楽しいのだろうか」と。
松尾は最近、読んだ「賃労働と資本に書かれてあったような」と思い出そうとしたが、ぼんやりとしか思い出せなかったので「学習の友」と一緒に入れてある、紙袋の中からカバーのある本を復習のつもりで取り出し、パラパラとページをめくってみた。
「賃金」「労働力」「資本」「剰余価値」
「ああ、どこだったかな。読んだばかりなのに我ながら記憶力がイマイチだな」と嘆き、また同じようにパラパラとめくってみたが、目当てのページは気持ちに反し、すぐには見つからなかった。
電車が西八王子駅に着くと座席はほとんど勤め帰りの人々で埋まった。
近くのドアのそばには二人の痩せた背の高い男子高校生が、テニスラケットと薄いかばんを抱えて話をしていたが、勤め帰りの中年の労働者は疲れた顔で腕を組み、半分眠りながら降りる駅が来るのを待ちながら座席に座っていた。
松尾はふと気がついた「さっきから思い出そうとしているのは、ひょっとすると違う本ではなかったのかな」と。そして手に持っていた『賃労働と資本』をしまい、同じマルクスの『賃金・価格・利潤』を取り出し、ページを開いた。
一週間位前に読み終えたばかりの本で、赤鉛筆の跡とともに薄い小さなしおりが間に挟まっていたが、そのページのところだけ最初に目に入ってきた。
「この本だったのか」と、独り言を言い、改めてその部分だけを読み返してみた。
『労働日には一定の限界があると仮定してきた。また一八世紀のはじめの三分の二のあいだでさえ、一〇時間労働日がイギリス全土の普通な労働日であった。
反ジャコバン戦争の間、資本は我が世の春を謳歌して労働日を一〇時間から一二時間、一四時間、一八時間に引き伸ばした。マルサスという男は涙もろいセンチメンタリストなどではゆめゆめないのだが……労働者は、自分の労働力を売ることによって、その労働力の消費を資本家にゆずりわたすのであるが、彼が自分の労働力を売るのは、その自然な消耗は別として、それを維持するためであって破壊するためではない。
労働者が機械と違うのはまさにこの点である。機械はそれが使われるのと正確に同じ比率では消耗しない。それに反して人間は、仕事の単なる数字的寄せ算から考えられるよりも、もっと大きな比率で衰えるのである。
時間は人間の発展の場である。思うままに使える自由な時間を持たない人間、睡眠や食事などを取る純然たる生理的な中断時間は別として、その全生涯が資本家のための労働にとられている人間は、駄獣にも劣るものである。彼は他人の富を生産する単なる機械であり、からだは壊され、心は獣のようになる。しかも近代産業の全歴史が示している通り、資本は、もしそれを抑えるものがないなら、たえずしゃにむに全労働者階級をこの極度の退廃状態に落としいれることをやってのけるであろう』
もう少し先の方まで続けて読みたいと思ったが、アナウンスは八王子駅に着いたことを知らせていた。電車に乗って工場の中の昼のような明かりを見てから、頭の中でまとまらずにいた考えが、マルクスによって少しはスッキリしたので本を紙袋の中に入れ、目指す場所に向かって歩く速度を速めた。
人通りが少なく車がようやくすれ違うことができそうな細い裏道を歩いていたら、店の中が薄暗い小さな駄菓子屋があったので、もしかしたらパンのようなものが置いてあるかもしれないと思い、動きの悪いほんの少し開いていた引き戸を開け「ごめんください」と店の奥に向かって声をかけた。
しばらくして少し腰の曲がった皺だらけの老婆が出てきて、しゃがれた声で。
「なんですかいな」と初めて見る若い客に言った。
「パンと牛乳ありますか」と言ったら、立っている横のガラス棚を顎でしゃくった。
掃除のために手をかけたことのないような曇ったガラスに目を凝らせてよく見たら、袋に入った煎餅やポテトチップと一緒に売れ残ったパンが数個ばかり、客に見離されたのか無造作に転がっていた。
今日の夕食はアンパンとジャムパン一個、それに紙パックに入った五十ミリリットルの牛乳のみで終わりだった。
十五分位早く会場に着いた松尾はパンと牛乳を腹の中におさめると、机と椅子を並び替えるのを手伝った。準備が終り、参加者の来るのを待つだけの教室で「赤旗」を広げた。
「赤旗」は寮の自分の部屋には配達されないので、寮から歩いて十分の所にある共産党支持者の家の裏庭にある、壁板の隙間にある松尾専用の「ポスト」へ取りに行かなければ読むことができなかった。
ポストは二、三部入る大きさで休みの日の早朝には時々、青緑色に輝く小さなトカゲが一匹、用心棒のごとく出入りしていた。
普段の日は仕事が終ると寮食堂で夕食を食べてから部屋に帰り、すぐに着替えて専用ポストに向かうのであったが、会議や学習会などがあって「赤旗」を取りに行っている時間がない時は、やむをえず夜中に取りに行き、部屋に帰ってから押入れの中で読み、必要に応じた切り抜きをし、読み終わった「赤旗」は部屋には溜めないで次の日、専用ポストに向かう途中にある公園のゴミ箱の中に、綺麗に折りたたみ他のゴミで汚れないようにそうっと入れるのであった。
松尾は今までに何度も一度捨てた「赤旗」を再び拾っては、公園のベンチの後ろに立っている大きな街灯の明りの下で、未練ある記事を読んでは再びそうっと捨てて、新しい「赤旗」を懐で温めながら何気ない顔をし、守衛に軽く頭を振って部屋に戻ってくるのだった。
松尾にとっての「赤旗」は読める時には、できるだけ必要な記事を読んでおかなければならない新聞で、後から時間をかけてゆっくりと読むことのできる新聞ではなかった。
松尾はいつも目を通す「主張」と「潮流」や委員長の談話や中央委員会の政策論文などを読み、青年向けの記事も読み終わったところだった。
教室がだんだん賑やかになってきたが、参加者で最も多くなるのはいつも講義が始まってからしばらくしてからで、参加者の多くは自分の仕事を終えてから、電車を乗り継いで来るので仕方のないことだが、もう少しなんとかならないものかと思っていた。せっかくの講義を途中から聴くのと、最初から聴くのとでは意気込みや理解に差が出てくるのではないかと思う反面、時間のかかる遠くから参加している人に対して、何だか気の毒のような気もしていた。
五分ぐらい遅れて第三回目の講義が始まった。
講義の内容はレーニンの『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』で前回参加した時、先輩同盟員の溝口から「今度、講義でやるレーニンの論文は文庫本にしてほんの九ページ程度の短いものだから時間を見て読んでおいた方が良い」と言われ、あらかじめ読んできたのであった。
レーニンのこの論文は非常に短いのに講義を聴いていると、とても二時間程度で終わるような単純で、簡単な内容の論文でないことが、ほんの少しではあるが解りかけてきた。そして自分の科学的社会主義に対する認識も実践も、まだまだほんの初歩的でうわべをかすっているだけのもので、本当の人生、毎日の生活や活動の土台にはなっていないということを感じ「もっと学習しなければ」と思った。
講義が始まって十分位たってから溝口が遅れて申し訳ない、という顔をしながら後ろのドアからそうっと入ってきた。
彼は空いていた松尾の隣の席に無言で座り、そのまま休憩時間がくるまで講師の話に耳を傾けた。講師は机の上に置いた腕時計に目をやってから「そろそろ休憩にしましょう」と言いながら付け加えた。
「もう一度繰り返しますが、マルクス主義こそは何か閉鎖的で硬直した学説という意味でのセクト主義とは全く無縁な学説であり、世界文明の発展の大道に、人類の最も先進的な成果として生まれた学説としての偉大な意義があるということです。それでは休憩にしましょう」
さっそく教室の廊下にある自動販売機から、温かい缶コーヒーを二本買ってきて溝口に渡しながら言った。
「先輩、ちょっと相談があるんです。僕の部屋に仕事に出かけていて誰もいない日中、誰かが勝手に入って思想調査したような形跡があるんですが、どうしたらいいんでしょうか。多分、合鍵を持っている管理人の仕業ではないかと思っているんですが。今までにも管理人が寮生の部屋に勝手に入って何かを調べるというようなことありました」
溝口は少し考えてからものうげに。
「ああ、あると思うよ。ただはっきりとした証拠が掴めないだけであって、今までにも僕だけではなく飯田も、また女子寮の人たちも仕事に出てる間に部屋の中に誰かに入られて、隠してあった本とか民青新聞などいじられたような形跡があったと言っていたことがあった。おそらく会社から怪しいと睨まれた寮生はみんなやられているのではないかと思う。しかし、何といっても勤労や管理人が勝手に入って、部屋の中でゴソゴソやっていたという確かな証拠がないから、今のところどうしようもないんだ。部屋に帰ったら管理人が押入れの中にいた、というようなことでもないかぎり」
「しかし、いくら会社の建物だといっても本人の了承もなく勝手に個人の部屋にまで入る権利はないと思うのですが」
寮自治会委員の経験もある溝口がくやしそうに。
「まったくそうなんだよ。以前、寮委員やっていたとき寮生が仕事に出ている間に、本人の同意もなしに個人の部屋には管理人といえども勝手に入ることはできない。ということで会社に申し入れたことがあるんだよ。
そうしたら会社が言うには、寮は会社の敷地内にあり、外にある社宅などとは違い厚生施設だから安全管理の上で、どうするかは会社が判断することで、寮自治会からあれこれと指図を受けるものではないとね。
我々は寮食堂やグラウンドと違い、更生施設なんかじゃなくて付属居住施設だと言って反論したのだが、今だにお互い平行線なんだよ。
また寮委員の中には権利意識の低いのもいて、寮自治会が会社や管理人と喧嘩をしても寮生にとって得るものは何もないという人もいるんだ。
特に二寮の寮長で会社からも推薦されている土屋なんかは、朝出かけるとき窓に干していった布団が、午後から降りだした雨にも濡れないで部屋の中に入れられて、きちんとたたまれてあったのを、仕事を終え部屋に帰って見た時は管理人に対する感謝の気持ちで一杯だった。などと他の委員にけしかけて、このように親切な管理人が個人の部屋に何の理由もなく勝手に入ったりしているのではないか?などというのは何の証拠もないことであり、それは他人には言えない何らかの特殊な秘密を持っているからではないか。などと寮委員会で大きな顔をして言うんだよ」松尾はあきれた顔で聞いていた。
「それじゃ我々の主張や考えは特殊だというんですか。寮委員会のなかでは」
溝口は苦笑いをしながら。
「かならずしも、そういうことはないんだが、会社にしてみれば寮自治会が民青や共産党に握られるようになったら、寮生を思い通りに管理し搾取できなくなるから、土屋のような単純な人間を使って、我々の考えや行動に対しては異常なまでの敵意を抱かせるように教育し、民青や共産党の活動をしている人間は、ごく一部の特殊な人間がやっていることでもあるように言わせているんだろうと思うよ。
土屋のような自主性のない人間が大きな顔をするのは、やはり何といっても我々の力が自治会の中ではまだまだ弱いからなんだよ」
松尾は溝口から「我々の力がまだまだ弱いから」と言われても、すぐに納得をすることはできなかったが、同時に自分が置かれている非公然の活動をいぶかしりながら。
「先輩、やはり絶対に動かす事のできない確固とした証拠がなければ、今のままではどうすることもできないんでしょうか」
溝口は松尾の悔しそうな顔と、缶コーヒーの最後の一口を舐めるように飲んでいる横顔をなだめるように見つめた。
学習会が終わると溝口は会議が入っているからといって腕時計を見ながら、すぐに鞄を肩にかけ教室を出て行った。
松尾はもう少し今日の出来事も含めて今後のことについて、いろいろと相談や話し合いをしたかったのであったが、山口という学習会の中で知りあった運送店でアルバイトしながら夜間の大学に通っているという、若干年上でバイタリティがあり、筋肉の逞しい民青同盟員と駅まで話をしながら帰った。
帰り道、寮自治会の話を聞いていた山口がおもむろに言った。
「僕の行っている大学の昼間の自治会も、革マル派に主導権を握られて彼らに勝手放題にかき回されているんだ。
多くの学生の要求なんかまともに聞こうともせず、ただヘルメットに手拭い姿で訳の分からない政治スローガンを叫び立てているだけで何の役にも立たない連中だよ。
彼らはそのうち我々の戦いいかんではみんなから見放されて自滅するんではないかと思ってるんだ。今日の講義なんかを聴いていると、ますます元気が出てくるというか本当に役に立つよ、彼らはマルクスの名前を勝手に語っているが、マルクス主義とは全く無縁な閉鎖的で硬直したセクト主義そのものだよ。
彼らには将来の展望を何も生み出せないが、その点、二部の自治会に結集している学生の方は昼間は労働者ということもあってしっかりしている」
松尾は思った。
「寮自治会の指導部が弁証法的唯物論も知らない、訳の分からない人間に握られていたのでは、一番ひどい目にあうのは寮生自身ではないかと」
そのうち公然活動ができるようになったら、民青同盟員をどんどん拡大してやろう、それまでは力を蓄えておこうと胸を膨らませながら八王子駅で山口と別れ電車に乗った。
下りのホームに向かって階段を降りていくと、あちこちにほろ酔いの労働者がいた。程よく酔っ払った足取りで何やらブツブツと独り言を言いながら、電車を待っていた中年の会社員が、近くにいた松尾に向かって。
「オイ青年!頑張っているかー」と、ふうてんの寅さんを真似て声をかけてきた。
「おい、起きろ。時間がないぞ」という、長野の大きな声で起こされた。
昨夜、寝床につく時、目覚ましをセットするのを忘れたのだろうか、時計を見たら八時の始業時まで十分ぐらいしかなかった。
二人は布団をそのままに急いで作業着に着替えると、朝の全ての行動を省略して部屋を飛び出した。構内に入る狭い通用口のそばでは守衛が一人、遅く出勤してくる労働者の顔を見ながら口をへの字に結んで立っていた。
守衛から少し離れたところでは労働組合の役員が二人、出勤してくる寮生一人ひとりに「おはよう」と声をかけながらビラを配っていた。松尾の前を急ぐ長野はビラを受け取ると目もくれないで、そのまま途中にある大きなゴミ籠に捨てていた。
松尾は急ぎながらも何が書いてあるんだろうと思ってビラを見た。
七月七日、投票で行われる第八回参議院選挙で、労働組合が組織をあげて推進している社会進歩党候補者の当選をということで候補者の名前と顔写真でビラのほとんどが埋められていた。
受取ったビラを四つに折りたたんで自分のポケットに突っ込みながらタイムカードを押した。一息ついてからタイムカードの時間を見たらまだ一分あり、後からまだ五、六人の人が息を切らし慌てて飛び込んできた。松尾は洗面所に向い省略してきた事のいくつかを実行し職場に入って行った。すでに朝の事務的で短い係長のミーティングも終わったとみえて、何人かの人はすでに顕微鏡をのぞきながら、両手の中のリードスイッチを手際よく良品と不良品に別けさばいていた。
松尾は自分の席について仕事の準備を始めていたら、まだ三十才前なのに髪の毛が薄く目だけが大きく飛び出し、青白い顔をした主任の峯岸が、いつの間にか側に寄ってきて横から不満そうな顔で話しかけてきた。
「今日はどうしたんだ。これで三回目だぞ、みんな既に仕事を始めているよ、君のように目の前にある寮に住まわせてもらいながら、仕事が始まってから来るようでは、一時間以上もかけ大月あたりから通っている人は一体どう思うかな。もう子供じゃないから少しは考えた方がいいんでない。それで、昨日は何時に寝たんだ」
多少、遅く入ったぐらいで主任はどうして朝っぱらから説教じみたことを言うのだろうか、と思いながら黙って聞いていた。そして主任の顔を見上げながら。
「主任、確かにみんなよりは遅く職場に入ったけど、決して遅刻はしてませんよ、何ならタイムカード見てくださいよ。八時前には押してあります。それに仕事が終わった後、寮に帰ってから何をし、何時に寝ようとそんなこと本人の自由じゃないですか。それこそ子供じゃないんだから」
主任の峰岸は今までの松尾にはなかった反論にあい、半分驚いたような顔をしてから、何か意味ありげに言った。
「確かにタイムカードは八時までに押せば、組合との協約で遅刻にはならないかもしれないが現実は違うんじゃない。君だってこの部屋に入ってくる時、なんかバチが悪そうな顔をしてたじゃないか、もっと心を大きく開いて回りの現実をよく見なければ、皆からいろんなことで遅れをとることになるよ。僕なんか毎朝、どんなに遅くても三十分前には職場に来て、課長や係長の机を拭いていつでも仕事ができるようにしているんだから」主任はそれだけ言うと。
「今日は向こうでやってくれないか」と言って電源の赤いランプだけがついている、特性検査の大きな灰色の機会を見やったので松尾も首を回した。
いつもの機械の動かし手である池田はいないのだろうか、周りには人影もなかった。
松尾は立ち上がり、同じに入社した池田の姿を探してみたがどこにも見えなかったので。
「主任、池田は今日、休みなんですか」主任は青白い顔をさらに雲らせ。
「そうかも知れない、まだ何の連絡もないから。池田は君と同じ寮に住んでいるんだから、彼の状況については色々知っているんではない」
松尾は否定しながら。
「同じ寮といっても棟が違うし、また彼は一寮でしかも三階のずっと奥の方だから僕はほとんど知りません。今までだって寮の中で話したりしたことなどなかったから」
主任はこれまでも月に一、二度、何の連絡もなしに突然休むことのある池田に対して、あまり良い感情は持っていないらしく、同期の関係にあって、しかも同じ寮生である松尾に言っておけば、やがて自分の考えや気持ちが伝わると考えたのだろうか、わざとらしく言った。
「池田のように一つの新興宗教にかぶれてしまったら、世の中を客観的に見ることも平等に見ることもできない人間になってしまう。
偏ったモノの見方しかできなければ、それは仕事にも影響し、結局は自己本位に休んだり遅刻をしたりするようになり、同僚に迷惑をかけることになる。
今日の池田なんかよい例だ。君もそのような宗教や思想には十分気をつけたほうがいいよ」
主任のいう偏った思想とは何なのか。また、偏らない思想とはどういうもので、仕事とどういう関係があるのか、と反論を試みたかったのであったが労働基準法の学習不足でもあるし、また自分にもそれほど自信がなかったので、静かに自分の席から離れて特性検査の機械を動かしに行った。
できあがったばかりのリードスイッチが、次から次へとプラスチックの容器に入れられて運ばれてきた。一旦、機械が動き出すと側を離れるわけにもいかず、十時の休憩時間になると急いで洗面所へ行った。
そこへリードスイッチの封着室で仕事をしている飯田が白い防塵服姿のまま、松尾と同じように今までトイレを我慢をしていたとばかりに入ってきた。
松尾はポケットから朝、配られていた組合のビラを見せながら聞いた。
「先輩、組合がこのような社会進歩党の候補者の名前と顔写真の入ったビラをまいたんですが、このビラは少しおかしいと思いませんか。僕は今回初めて知ったんですが組合はこの候補者とどんな関係があって全面的に組織をあげて推薦し、また取り組むんですか。カンパも訴えてますよ」
飯田は二人しかいない洗面所の中で声をひそめて言った。
「組合の中央も八王子支部も大会で組合員の多数の意見だとして、社会進歩党を支持していくと決めているんだよ。おかしな話だけれども」松尾はすっきりしない気持ちだった。
「しかし組合員の中には他の政党を支持している人もいれば、我々みたいに共産党を支持している人だっているのに、このようなビラなんかが組合の組織を使って大々的に撒かれたら、これは組合員の団結にくさびを打つようなものではないかと思うんですがどう思います」
洗面所の窓から高尾山の濃い緑の山並みを見つめながら飯田は言った。
「まったくその通りだと思うんだが、今の組合の一党支持を打ち破るにはそれが間違いだという組合員が多数にならないとなかなか難しいんだよ。まだまだ反共的な考え方をする人も多いし、会社に身も心も取り込まれている人間は特にそうだから。結局は自分の身がかわいいから、あたらず触らずというところではないのかな」
松尾はビラに書かれている大きな字と写真を見ながら。
「それではどうすればこのようなおかしなビラをなくすことができるのか」と考えていたが、飯田は鏡の中の自分の顔を覗いてから白い帽子を直し、休憩室でコーヒーを飲むからといって出て行った。
休憩室ではそれぞれ思いおもいに、コーヒーを飲んだりジュースを飲んだりしていた。
松尾も十円玉を何枚か作業服の胸ポケットから出し、コーラを飲みながら話しの中に加わろうとしていたら、組合の支部委員をしている背が低くて丸々と太って色の黒い加藤が休憩室にやってきて、十人ばかりの人に向かって大きな声で言った。
「みなさん。今日の昼休みに職場大会をやりますから食事に行く前に休憩室に集まってください。出欠を取りますから必ず参加してください。特に組合員になったばかりの人は特別な理由がなければ欠席できませんから」
加藤はそう言うと、組合員になったばかりの松尾を横目でチラリと見てから、重そうな体を引きずって殺風景な休憩室から出て行った。
飯田の隣の空いている長椅子に腰をおろしながらたずねた。
「飯田さん、今日、職場大会があるということを聞いてましたか。加藤支部委員は議題も何も言わないでさっさと行ってしまったが何をやるんでしょうか。朝、撒かれたビラのことでしょうか」
飯田はまったく知らないという顔し。
「さあどうなんだろう。特別緊急なことでもないらしいし、いつもの飽きあきする単なる報告なんかじゃないか」
松尾には部屋を出て行く時の、加藤支部委員の目の奥に何か魂胆があるように思えた。
「飯田さん、何かありますよ、きっと。もう休憩時間も終わるし、何かあったとしても対応できませんね。昼の職場大会は個人の判断に任せるんですか」と不満そうに言った。
長椅子から腰を浮かせながら、飯田は。
「何かがあったとしても今からじゃ何もできない。武山さんも今度の選挙であれやこれやで忙しいし、組合対策にまでは目が回らないんではないかな」
二人は休憩室を最後に出て、それぞれの職場に戻って行った。
松尾は特性検査の機械を操作しながら。
「こんな日に限って休んだりするから」と池田を恨めしく思った。
顕微鏡での検査だと隣の人や向いの人といろんな話もできるし、あちこち自由に動いたりすることができ、短い意見のやり取りもできたからであったが、特性検査の仕事だと職場の端で機械に振り回されながら一人で黙々とやるしかなかった。
十二時のチャイムが全館に響き渡った。
機構部品製造課の第一係と第二係の五十人近くの労働者が休憩室にぞろぞろと集まってきた。狭い休憩室に入れない人々は、話が聞けるようにいっぱいに開き放されたドアの外の廊下の壁に沿って、立ったり座ったりしながら職場大会の始まるのをガヤガヤと話しながら待っていた。
まもなくして支部委員の加藤がいつものようにノートと手垢で汚れた水色のファイルを抱え、何かを考えているような神妙な表情で現われた。ノートをちょうど目の前に座っていた職場委員の長身の井上に渡し、出欠を取るよう言ってから、いつもの位置に陣取り、おもむろにファイルに挟んであった朝のビラを見ながら話し始めた。
「みなさんどうもごくろうさん。すでに朝の支部ニュースでもお知らせしましたが七月七日、投票で参議院選挙が行われます。
この選挙については、すでに組合としても、みなさんの要求でもある税制問題などの様々な国民的課題をどうしても実現するために、ということで自民党とは一線を画し、かつ野党第一党である社会進歩党から立候補する候補者の当選を果たすために、組織を挙げて全力を尽くすことを決定しています。
組合としての組織支援はもちろんのことです。ニュースでも訴えていますが個人カンパについても、今日の十時から開催された支部委員会で我々の支部としても取り組むことに決まりました。
目標として一人五百円以上をこれから集めることになり、私と職場委員の井上でみなさんのところへ回って行きますので、その時はよろしくご協力をお願いします」と、まるで自分が候補者でもあるかのような顔をしてぺこりと頭をさげた。
すぐに加藤支部委員は、これからが職場大会の中身であると言って組合の活動報告を始めた。松尾は思った。「今日の支部委員会で社会進歩党に対して支部として、一人五百円以上のカンパ集めることに決めたということであるが、我々一般の組合員には、何時そのようなことを話したのだろうか」と。今まで一度も欠かさずに職場大会には出ていたが、そのようなことが議題にされたことは一度もなかった。
「機関として多額の資金カンパをし、その上さらに個人からも集めようなんて」加藤や井上がカンパを集めに来たらどういう態度をとったら良いのだろうか、などと考えると、どうしても納得いかなかった。
そのようなことを考えている間に、加藤の教科書でも読んでいるような報告が終わり、休憩室と廊下に確認の拍手がまばらに起きた。松尾には報告に対する拍手というよりは早く終わってくれないと食べたい定食がなくなってしまう、と言わんばかりの催促の拍手のようにも思えた。
加藤は皆さんの気持ちはわかっています。とばかりに、にやりとするとすぐに付け足した。
「これで本日の職場大会を終わります」すると、休憩室の隅にいた飯田がさっと手を上げて大きな声で言った。
「質問や意見は受け付けないのですか?」加藤は飯田の不満そうな顔を見ながら。
「今日はただ報告することが中心で特別に職場討議をするような中身はありません。仮に議論をしたとしても高崎や品川支部という他支部で起きた問題や、中央委員会の単なる事務的な報告なので大した意味がないと思います」
「そんなことはないじゃないか」と飯田の発言は最もだと言わんばかり、ドアのそばに立っていた中年で髭面の田代が言った。つづいて二、三人の人がパラパラと手をたたいた。
加藤は渋い顔をし、一旦立ち上がろうとして再び腰をおろした組合員を見回してから、飯田に向かって。
「飯田さん何か言いたいことがあるんですか」飯田は立ち上がり、長い髪の毛を右手で一回かき揚げてから良く響く声で言った。
「報告事項については特にないが、その前に話した選挙カンパのことで意見と質問があります。というのは組合の機関として社会進歩党の一党に対してだけ、組合員の政治的な要求を実現できるものとして、金も物も出すというのは、いくら大会決定だからといっても、おかしいと思うのです。その上、さらに組合員一人ひとりから金を取るのは個人の政党支持の自由を侵すものだと思うんです。この職場のみんなが社会進歩党を支持しているわけではないし、中には組合がいつも批判の的にしている自民党を支持している人もいるのではないかと思います。だから一人いくら、などと我々の知らない間に組合として金額まで決めてしまうのは少しおかしいのではないでしょうか。それに社会進歩党に対して個人カンパをしたくないと考えている人について、支部としてどうするつもりなんですか」
加藤はあらかじめ予想していたのだろうか平然とした態度で。
「今度の参議院選挙で社会進歩党を支持するというのは機関決定であって、当然、我々、機関構成員はその決定を守らなければなりません。そうでなければ組合の存在意義もなくなってしまい、賃上げはもちろん現在ある公休や母性保護のための生休などの様々な権利も行使できなくなります。会社と唯一交渉できる権限を持っているのは労働組合だけであり、個人でいくら会社と掛け合ってもまったく相手にされません。
労働組合の最高の決定でもある大会決定が一部の不満を持ってる組合員によって、ないがしろにされてしまったのでは、会社に足元を見られることになりどうしようもなくなります。ですから我々は自分たちで決めたことはやはり守らなければなりません。
また、個人カンパについてでありますが、それについてはみなさんの自由ですが、前提として大会決定がありますからできるだけ協力をお願いします」
すると飯田の一つ年下でスポーツマンの今井が手も上げないで言った。
「それじゃ個人カンパについては、やってもやらなくても自由だというのか」
「その通りですがこの職場の組合員は五十三人ですので、最低でも二万五千円程度は集めたいと思ってます」と加藤は言った。
松尾も一言、思っていることを話したかったので手を上げた。
職場大会では同期の池田がよく手を上げ『人間革命』という本を手に、支部委員の加藤に対して、何を言いたいのか良く分からないような意見や質問をして参加者の失笑をかっていたが、今日はその池田の姿がないので、同期のよしみもあると思い質問をした。
「今度の選挙についての個人カンパのことですが僕はまだ選挙権もありません。また組合の大会決定というものについても知りませんし参加もしてません。それでも同じようにカンパをしなければならないのでしょうか」
もっとそれ以上に突っ込んで政党支持の自由などの意見を自分なり発言するつもりであったが、池田と同じように好奇心のある視線をまともに受けたのでやめてしまった。
加藤はまじめな顔をして松尾の質問に答えた。
「組合は選挙権があろうがなかろうが、また組合員歴がどうであろうとそのようなことで差別するようなことは一切ありませんから、ご安心くださいカンパについても同じことです」
しばらく沈黙があった。廊下の方から。
「もう時間がないぞ」
「これ以上続けると昼飯なくなるぞ」という何人かの不満の声が聞こえてきた。
中には「カンパの五百円ぐらいどうってことないじゃないか」と吐き捨てるように言う人もいた。
ドアの外の声のする方を見たら主任の峯岸が封着室のウドの大木というあだ名の主任と話をしながら、タバコの煙を天井に向けて吐いていた。
加藤は休憩室の薄く汚れている白い壁にかかっている時計にチラリと目をやると、脂ぎった顔でこれ以上、議論をしても無駄であるという意思をあらわに出し。
「昼飯の時間もないので、これで職場大会を終わります。ごくろうさん」と言って出て行った。
工場の外に出たら太陽の光が眩しく、松尾は目を細めながら社員食堂へと急いだ。
飯田と田代が何やら話しながら松尾の後ろを歩いていた。おそらく職場大会で飯田が発言したことに対する、加藤のもっともらしく装った反論について話しているのだろうと思った。
食堂は意外と混んでいた。他の職場でも同じように職場大会をやっていたのだろうか、五、六人のグループを見るとみんな同じ職場の人たちであった。
松尾は会社の中では努めて飯田と大ぴっらに話をするのを避けた。ましてや食堂の中では誰が見ているのかわからないので別行動であった。
カウンターの上に並んである定食を手に持ったお盆に乗せてから、ご飯と味噌汁を受け取って同じ第二係の人たちが四、五人並んで食べているテーブルに行った。
長掛良子という女子寮に住んでいて、四つ程年上の、職場でみんなから慕われ、美人としてもてはやされている女性の前が空いていたのでそこに座った。
彼女は日本舞踊が趣味で上手ということで知られていた。その長掛は小さな唇をすぼめてラーメンを食べていた。松尾を見るとにっこりと微笑んでから親しげに話しかけてきた。
「職場大会での発言なかなか良かったわよ」
「どんなところが良かったんですか」とはにかみながら聞いた。
「真剣で一生懸命だったところがよ。それに選挙権がないのにお金だけっていうのは何となく納得がいかないわよね、そんな気持ちがわかる気がしてね」そして続けた。
「私、若者には打算とか計算は不釣り合いのような気がします。言いたいことはストレートに言ったほうがいいかもしれないわね」
目の前の美しい長掛さんにだけは話したいと思った。
「本当は飯田さんのようなことを言いたかったのだが、選挙権もない僕が同じようなことを言ったら、すぐに加藤さんに呼ばれ、あれこれ質問を受けることになる。僕も飯田さんと同じように民青同盟員だから」と。
そして長掛さんのようなみんなから慕われている人が民青に入ったら、もっと楽しくなるだろうし、選挙では職場の支部委員にだって選ばれるかもしれない。などと考えていたらカウンターの近くで食べていた飯田と田代の二人が食べ終わって食堂から出て行くところだった。
二人の後ろ姿は何となく孤立しているように感じたのだった。
あくる朝、布団の中で目を覚ましたら外は久しぶりの雨であった。
カーテンを引いて窓の外を見たわけではなかったが、窓の下を走っている車の音を聞いていると分かるのだった。
このまま雨の音を聞きながら布団に潜っていたかったが、廊下では起きだして洗面所に出たり入ったりしている寮生のスリッパやサンダルの音が響いているので、意を決して布団から飛び起き、雨のせいで部屋の中がいつもより暗かったのでカーテンを思い切り引いた。
隣の布団では中村が寝返りをうって何かの寝言を言っていた。
寮に入ってまもなく、松尾は今まで入っていた部屋を変わった。
長野に一人部屋になれる権利が発生したので他の部屋に移らなければならなくなったのだった。寮生活を始めた時と全く同じように、布団とわずかな荷物を持って移ってきたのが洗面所に最も近い部屋だった。
一人部屋になれる権利のない松尾は係は違うが、同じ職場の痩せて髪を整髪料でいつも端正にしている中村と一緒の部屋になった。
中村自身は今まで一緒にいた先輩とうまくいかなかったので、管理人と寮長に部屋の移動を願い出ていたのである。
松尾は良く晴れた日曜の午前中、ほんのわずかな時間で引っ越しを完了してしまった。
長野のように机や椅子、ステレオ、そして洋服箪笥や茶箪笥もなく、コーヒーや砂糖やお茶の葉のような消費するものは、無くなると会社食堂の中にある生協から仕事の帰りに買ってきたが、それ以外のものはすべて長野の持ち物を使っていたので大事なものといえば、押入れの奥に入れておいた、小さなダンボールの中の数冊のマルクスとエンゲルスそれにレーニンの文庫本ぐらいであった。
松尾の荷物は押入れの上段とその上にある小さな引き戸に納まってしまい、六畳の畳の上には簡単に移動できないようなものは何もなかった。六畳の部屋も畳だけだと意外と広いものであると感じた。
中村は前に一緒に住んでいた先輩とはそれぞれ好みが違ったのだろうか、結構、色々な物を持っていた。彼女ができたら二人で仲良く使うつもりなのだろうか、お茶やコーヒー茶碗のセットや木製のケースに綺麗に並んだスプーンセットも持っていた。またスチール製の大きな本棚や組み立て式の洋服ダンスなども持っていて、あれこれ、それらの置き場所をどこにしたら良いかと考えていた。
松尾は新しく移った三階の中間にある部屋の窓から、外の景色をぼんやり眺めていると、遠くの方の女子寮から出ている道路と、男子寮から出ている道路が交差しているところで、恋愛関係にあるのだろうか、二人の男女が何やら立ち話をしていた。
女は終始、下を向いたままで男はといえば女の頭ごなしに何かを言っている様子であった。
外に出かけて行くのだろうか、二人連れの赤と緑色の鮮やかな色のスカートの女性が軽やかに二人のそばを避けるようにカーブして通った。
しばらく羨ましそうに見ていた松尾は振り向いて中村に言った。
「おい中村ちょっと来てよ」
中村は「何か用」と面倒くさそうに言ってから窓の近くにやってきた。
「あそこに見える二人の男と女、誰か分かる」と言って指をさした。
すると、しばらく見ていた中村は分かったという顔をし。
「あの女はたぶん長掛さんじゃないかな、きっとそうだよ。男のほうは誰だか全然わからないが」そう言って再び、自分の荷物の整理に取りかかった。
松尾は「やはり、本当か」と自分の目を疑って、さらに目を細めてみた。
二人の男女はもう、かれこれ十分以上は立ち話をしていたが、その間、長掛と思われる人は一度も顔をあげることもなく、同じ格好でうつむいていた。男も話すのを止めたみたいであった。
太陽の光が頭上から燦々と降り注ぐ中で、一体、二人は何を話しているのだろうかと思っていたら、男がいきなり長掛と思われる頬を右手でたたいた。
松尾は心臓の高まるのを抑えながら、じっと目を凝らした。
女は両手で顔を塞いでくるりと後ろを向き、男は後ろから何かを言っていたが全く聞こえなかった。長掛と思われる人はそのまま女子寮に向かって小走りに駆け出し、男はその後ろ姿をじっと見ていたが、やがてくるりと向きを変え、肩を落として反対の方向に歩き出した。
二人の男女の間に何があったのだろうか、また男に叩かれた長掛と思われる身に何が起きたのだろうか、と考えながら人のいなくなった白く乾いた道路しばらく見つめていた。
部屋の中を振り向いたら中村は細かな物の整理が終わったので、今度は廊下に出しておいた机や本棚などを部屋の中に入れようと。
「ちょっと手伝ってくれ」と言ったので。
「ああ」と生半可な返事をして廊下に出て行った。
中村は再び机や本棚のレイアウトを考えてから、部屋の壁に沿ってそれを並べたり、ダンボールの箱に詰めてあった本などをスチール製の本棚に並べたが、六段ある本棚は入寮してから数カ月しか経っていない中村には大きすぎてガラガラであった。
中村は高校時代の教科書なども並べてみたが、それでもやはり本棚には隙間があり、その隙間に筆入れや様々なこけしなどの細々とした物を飾ってみたりした。松尾はそれらを暇そうに見ていた。すると中村が。
「ねえ、今度、給料もらったらサイドボードを買わない」と、急に思いもない事を言ったので。「サイドボードなんか買って、どうするんだ」と聞いてみた。
中村は松尾の持ち物など一切ない、ガランとした片側の壁を見ながら。
「そこに大きなサイドボードがあると、部屋の雰囲気がいいじゃない」
確かにそのような家具があれば、殺風景な部屋も多少は豪華に見えるに違いないだろうが、サイドボードなどを買うつもりも、また興味すらなかったので。
「そんなサイドボードなんか入れたら部屋が狭くなるだけだよ。それよりも俺はコンパクトなステレオが欲しいと思っている。サイドボードを買ってどうするんだ。どうしても欲しいなら自分で買ったら」中村は不満そうな顔で。
「サイドボードがあれば、洒落たウイスキーでも入れ、友達が来たら楽しくやれるじゃないか」 未成年の中村は一体、何を考えているのだろうかと思っていたら「自分で買ったら」と言われたのでサイドボードは諦めたのか話しを変えた。
「松尾、本棚の一段を貸すから何かいい本でも並べたら」
「いいよ、そんなに並べるだけの本はないから」中村は怪訝そうな顔をしながら。
「本当に本ないのか。何でもよいから並べてみたら、本がないと他からみて馬鹿な人間に思われるぞ。俺なんか見てみろ、もうこんなにたまったよ。高校時代から読んでいた雑誌なんだ」と言って、下の段にずらりと並んだ雑誌を指差した。
それらの雑誌は初めて見る「詩」に関する雑誌で、感心しながら。
「そんなに読んだのか。なかなかの詩人じゃないか」
詩人と言われて気分が良かったのか照れながら。
「まぁね、しかし、詩はいいよ。お前も少し勉強してみたら、いつでも見ていいよ、どうせ暇なんだろう」
松尾には中村の読んでいる詩の本よりも、小説に興味があり。
「それじゃ、暇な時にでも見せてもらおうか」と言って、雑誌から目を離した。
故郷の隣駅である下川沿駅には『小林多喜二生誕の地』という石碑があり『蟹工船』という文庫本が読みかけであった。
松尾は中村と二人、寮食堂での遅い昼食を終わってから中村に「天気が良いから散歩してくる」と言って、専用ポストまで「赤旗」を取りに出かけた。
帰りに途中にある公園のベンチに腰を掛けしばらく読んでから、ふと思いついたようにそのままサンダルを引っ掛け、電車に乗りセンターへと出かけた。
センターに行くと「赤旗」はもちろん「学習の友」や他の雑誌など誰かに遠慮することもなく存分に読むことができるのだった。特に同期の中村と同じ部屋になってからは、長野とは違う意味で気を使うようになったのだった。
アパートの一階端にあるセンターのドアに手をかけると、誰かいるのだろうか鍵はかかっていなかった。
「だれだろう」と思いながら部屋を仕切っている襖を開けたら、支部指導部の武山がテーブルに座って何やら原稿を書いていた。松尾のラフな姿を見ると久しぶりに会ったかのように。
「元気だったか。今日は引越しをやっていたんじゃないのか」
「僕の場合、引越しといっても何もないんですよ、あるのは布団とどうでもいいような細かなものばかりで、たいして時間もかからないで終わってしまいました」
武山は手を休めることもなく。
「それもそうだな、僕なんかも入社した頃ほとんど荷物らしいものは何も持っていなかった。田舎から出てきた連中はみんなそうだったよ。しかし、最近は少し違うんではない。この間、ステレオを家から持ってきたり、中にはテレビまで持ってくるのもいるって誰だったか言っていたな」と言って、名前を思い出そうとして天井を見上げた。
松尾はテーブルの上の原稿を見ながら。
「武山さん何を書いているんですか」
「これか、今度、行なわれる参議院選挙の方針をつくっているんだよ。理論なくして実践ありえずともいうだろう」
感心しながら武山の向かい側に腰をおろし、仕事の邪魔をしないように持ってきた「赤旗」を畳の上に広げた。
しばらくして武山が口を開いた。
「ねえ、今度の選挙、できることでいいから手伝ってくれないかな。非公然活動で申し訳ないが」松尾は「赤旗」から目を離して武山の顔を見た。ちょうど今度の選挙に関する記事を読んでいたところであった。
「いいですよ。僕も何かをしなければと思っていたところなんです。それに、この間の職場大会では社会進歩党のためだけに皆から五百円以上のカンパを取られることになってしまい、気持ちがスッキリしなく、どこかでその分を何とかしなければ、と思っていたところなんです」と苦笑いをした。
松尾は支部委員の加藤が仕事中によってきて五百円以上を、と言って請求された時には思い切って断ろうと考えていたが、その前にどうすれば良いのか飯田や溝口に相談をしたら、現在の松尾については、あれこれと反論しないで素直に出しておいた方が良い、ということになったので加藤に渡したが、心の底では何か割り切れない気持ちであった。
「ところで武山さん、今度の選挙で僕は何をしたらいいんですか」
武山は持っていたペンをテーブルに置き、そばにあった急須でお茶を注ぎながら。
「今、みんなの配置を考えているんだが、我々に与えられた任務は自分たちの経営に対しての責任は当然であるが、その他にも、めじろ台団地一丁目のビラ入れと長房団地西側でのビラ入れと票読みなんだよ。日曜は居住支部や後援会と協力して、ビラ入れや票読みの統一行動をする時があるんだが、今回、票読みは遠慮してもらうとしてビラ入れの時の監視を頼みたいんだ」
「監視って何を監視するんですか」
「警察があれこれと選挙妨害をしてくることも考えられるので、ビラ入れの時にその近くにいて怪しい人を見かけたら知らせて欲しいんだよ」何となく理解した顔で。
「すると場合によっては警察に逮捕されるって事もあるんですか」
「ああ多いにありうる」と笑ってみせた。
「何でまたビラ入れ程度で捕まえたりするんですか。憲法で保障されている言論や表現の自由であってどの政党だってみんなやっていることではないですか」
武山はゆっくりと頷きながら言った。
「自民党やその他の共産党以外の政党だったら、ビラ入れ程度で警察がわざわざ捕まえたりすることはまずないが、共産党となると事情が違ってくるだろう。
何せ、今の体制を変革しようとしている政党だから国家権力からは常に色々な形で狙われているんだ。特に選挙の時などはデマや謀略行為が起こったりするから警戒が必要になってくる。
たいていのビラは朝早く起きて撒くんだが一日に二回も撒かなければならない時は、朝だけでは間に合わないから仕事が終わってから撒くこともあるし、反共謀略ビラが撒かれた時などには、すぐに反撃するということで夜に撒くこともあるんだ。特に夜、ビラ入れする時が危険なんだよ。警察が目を光らせているからね。だから電話ボックスや電柱の陰から見張って欲しいんだ」
武山の話を聞いてスリルのある任務だと思うと同時に胸がわくわくし、一日も早く選挙活動をしてみたいと思い。
「武山さん、僕はたとえ警察に捕まったとしても平気ですよ。選挙権もないから黙っていれば未成年者だからすぐに釈放ですよ」と悪戯っぽく笑った。
センターに置いてあった「学習の友」や他の雑誌のグラビアに目を通してから、部屋の隅に積まれてあった選挙に関するパンフレットと弾圧に対する手引書という、手帳のような本を借りて行くことにし「それじゃ」と挨拶をしてセンターを出た。
外に出たら太陽はだいぶ西に傾いていた。
西八王子駅のホームに立っているとまもなく電車が入ってきた。
日曜日であるせいか家族連れが目立った。買い物やどこかへ遊びに行っての帰りなのだろうか子供は大抵、座席でぐっすりと眠っていた。
車内を見回したら目に同期入社で女子寮に住んでいる、長崎路子と岡部真理の二人の姿が目に入った。二人は笑いながら仲良くおしゃべりをしていた。
新入社員の研修会で初めて知り合った二人だが控え目でおとなしく、はにかみ屋であるが社会を見る目がしっかりとしている長崎に多少、関心があった。
新入寮生歓迎会で高尾山に登った時に長崎と話をするチャンスがあったので思い切って話しかけたら、高校時代には吹奏楽部でフルートをやっていたというのであった。
松尾も高校時代に吹奏楽部でトランペットをやっていたので、二人の話しは思っていたよりも弾んだのだった。その後も「同期会」などの会合で時々、顔を合わせたのであったが、別館の二交代制で働いている長崎とは職場が違うので、なかなか話をする機会もなく時間だけが過ぎていった。
長崎路子は松尾に気が付いた。
隣に座っている岡部真理も松尾に目を向けた。二人は目が合うと、にっこりと微笑んだので、ゆっくりと二人のいる座席に向かって行った。
「久しぶりです。お元気ですか」岡部が「ええ」と短く言った。長崎もうなずいた。
「買い物にでも行ってきたんですか」と言って二人の膝の上に乗っているデパートの奇麗なピンク模様の紙袋に目をやった。
二人は顔を見合わせながら頷いた。岡部は松尾が手に持っている新聞に目をやりながら。
「どこかへ行っての帰りなんですか」
何と言って答えたら良いのか一瞬戸惑ったが、すぐに思いついたことを言った。
「ええ、西八に職場の先輩が住んでいるもんですから、ちょっと遊びに行ってきたんです。こんな格好で」
松尾の格好は二人の姿に比べると多少、不釣り合いであったが電車はすぐに高尾駅に着いた。松尾は長崎とゆっくりと話をしたかったのだが、岡部が二人の間に入っていたのでなかなか思うようにはならなかった。この時ばかりは中央線の駅と駅の間の短さを嘆いた。
駅の改札を出て、途中から二人の女性は駅前の洒落たケーキ屋の中に入っていった。
松尾賢二は、夕方の買い物客で賑わう商店のきらびやかな季節の飾りと明りを眺めながら、もっともっと弁証法的唯物論やマルクスの『資本論』を学習し、実践力を付けなければならないと考えた。同時に大事な青春時代を戦争で失ったであろう「神宮外苑の学徒出陣壮行会」の写真と記事を読み、社会の未来を考えながら「赤旗」の入った使い古した封筒を片手に、一人のんびりと寮に向った。
完




