一 目覚め
──ぐふぅっ!!
完全に俺は相手の強さを見誤り、抉られた腹から流れゆく熱い血の多さが、生と死の境にいることを否応なしに自覚させる。
既に右腕も失い、剣も持てず俺に最早戦う術など残されていなかった。
無意識に身体がビクンと痙攣して急速に足の踏ん張りが利かず、地面へと糸の切れた操り人形のように崩れる。
血だまりの冷たさが頬に触れる。
体から流れる血が、熱を奪い寒くて震えてしまう。
薄れ行く意識の中で、甲高い声が鼓膜を震わせた。
「人間風情がここまで昇華できるとは思わなかったぞ。しかも私に手傷を負わせるとは驚きだ」
急激に襲いくる眠気で瞼を閉じかけていた俺に、声の主は話を続ける。
「お前の強き魂……、私の手により……を呪い殺す……になる。……を失っ……、しばらく地獄の……続くだ……」
耳の中で流れるザーザーと波のような音で妨げられて、うまく聞き取れない。
ただ、深く深く闇の穴へと落ちていき身体が溶けて闇と一体になる。
これが死というものなのだろうかと考えるものの、抗う術もなく俺は考えるのを止めた。
「どこだ、ここは?」
瞼を開くと視界は真っ暗で上を向いているのか、それとも下を向いているのか分からず方向感覚を見失う。
目が闇に慣れてきて、微かに天井の梁かと思われる物が見て取れる。
視線だけを左右に振ってみると右の視界の端に光が差し込んでいる隙間が確認出来た。
日の光かランプの灯りかは分からないが、外から光が入るということは、ああ、何処かの部屋にでもいるのだなと理解した。
なぜ俺がこんな場所で寝ているのか全く覚えがない上に、考えても考えても頭の中は真っ白な靄がかかっていて、答えが一向に出てこない。
「そもそも、俺は一体誰だ?」
自分の名前が思い出せないのは記憶喪失というやつだろうか。
まずはここから出て自分の顔でも見ることが出来れば、何か思い出せるかもしれないと、俺は体を起こして立ち上がる。
妙な違和感──そう、立ち上がった時に違和感を感じた。
立ち上がるということは、地面、もしくは床を踏んでいるはずなのだが、その感覚が無いのだ。
普段はそんなこと意識しない分、却って違和感を覚えた。
立ち上がってからは視界が真っ直ぐに安定しない。身体が上下左右に揺れている。
荒い運転の馬車にでも乗っているようで気分も悪くなり、ひとまずこの部屋から出ることが先決だと判断した俺は、暗闇にも慣れ視界の先にたくさんの木箱が積まれているのが見えた。
この場所はどうやら倉庫のようだ。
俺は木箱にぶつからないように慎重に進むのだが、その足をはっきりと確認することが出来なかった。
俺はもう一度、目を擦り確認してみるのだが、足が見えない。
右足を出してみると、出した感覚はある上、前に進むのだがその右足が見えない。
冷静になるように大きく深呼吸して思慮する。
足が無く地面に触れた感覚もなく前に進む。
俺の中で空が飛べるのだと結論に至った。
自分が人間であることは自覚している。
人間は空を飛べないのだが、唯一手段はあった。
「そうか、俺は魔法使いだったのだ。それも空を飛べる高等な魔法使い」
ならば残りはここを出て自分の顔を確認して名前を思い出すだけだ。
目を凝らし、足元は気にすることなく木箱を避けて前へと進むと、壁とおぼしき場所にまで辿り着く。
この壁をつたって歩けば、いずれは出入口にたどり着くと考えた俺は、再び歩みを進めていくと扉らしい物が確認することが出来た。
問題は鍵がかかっていないかで、もし外に鍵がかかるタイプの扉ならば出ることは叶わない。
思いきって扉の取っ手に、俺は手をかけてみた。
上手く掴むことが出来ない。
俺の手が取っ手をすり抜けていくみたいに、何度やっても取っ手に手がかからないのだ。
もしや……とある思いに至り俺は思いきって扉自身に触れてみる。
触った感触がない。いや、触れないどころか手が扉の中へと入っていく。
ゴクリと生唾を飲み込み俺は思いきってそのまま前へと進む。
ずぶずぶと手から腕、そして肩まで扉を突き抜けていく。
意を決して目をギュッと強く瞑ったまま、体ごと扉へと飛び込んだ。
何も起こらない。
俺はゆっくり目を開けると瞼の隙間から光が飛び込んでくる。
「やはり外に突き抜けるとは、俺は相当、高等な魔法使いなのだな」
暗闇から一気に明るい場所へと出たからか光が強すぎで、俺は手で明るさを遮りながら周りを確認する。
とても青々と敷き詰められてはいるが、丁寧に剪定された芝生。
植えられた花壇も、よく手入れされており彩り豊かな花が咲く。
なにより、花壇の側に建つ白亜の屋敷、そしてその大きさに驚く。
窓の数から三階建てで且つ相当の部屋数があると見受けられる。
どうやら自分がいたのは、この建物の庭にある倉庫なのだと理解できた。
「俺の屋敷なのか? これは王族の御抱え魔法使いレベルだぞ」
自分が何ゆえ倉庫で寝ていたのかなど微塵にも考えることなく、俺は自分の顔をどう確認しようかと考える。
屋敷の中には鏡くらいはあるだろうが、万一俺の屋敷ではなかった場合、問題になりかねない。
ならば、なるべく人との接触は避けるべきだ。
これだけ広い庭だし池くらいならあるはず。
俺は人目に触れないように木の陰に隠れて周囲を伺いながら池を探す。
慎重に、慎重を重ねて屋敷の裏にまで回ってくると、ようやく池を発見する。
辺りを伺い、誰もいないと判断した俺は一気に池の側にまでやってきた。
「頼むぞ、せめて名前くらい思い出してくれ」
キラキラと日に当たり輝く水面へ自分の姿を写す。
「…………」
一度、退いて大きく深呼吸をする。そして再び水面に写る自分の姿を確認する。
俺は水面に写った自分の姿に心臓を鷲掴みにされたみたいに苦しくなり大きく息を吐いた。
水面に写った俺には顔がなかった。
正確に言えば少し違う。
人型ではあるが全身真っ黒で、見えているはずの目も無く小鳥の囀りが聞こえるのに耳が無い。
木や草の香りが匂うのに鼻も無い。
人間を型取った何か、それが俺だった。
人間だった覚えは微かにある。
だけど今は空を浮いて壁すら通り抜ける黒い影。
ああ、俺は“幽霊”なのだと。
俺自身、幽霊など見たことはなく、まさかこんな姿をしているとは。
なってみないと分からないものだなと、ごちゃごちゃに散らかった頭の中で冷静に分析していく。
「冷静になんてなれるか!!」と誰も居ない裏庭で一人叫ぶ。
パニックに陥った俺は、裏庭の壁をすり抜けて、無我夢中で存在しない足を懸命に動かし続ける。
どれ程走ったのか分からない。実際に走ったわけではないので息も切れることは無いが。
疲れで頭の中のごちゃごちゃしたものが、スッキリ取れるわけでもない。
虚しさと、これからどうすれば良いのかと絶望感に苛まれる。
これだけ街中を走ったにも関わらず人目を感じることは一切なく、目の前に姿を見せても驚きもしやしない。
声をかけても返事もない。
触ることも出来ない。
俺は、この広い世界で一人きりなのだと。
皮肉なことに、孤独と向き合う事で冷静になれた俺は、奇妙なことにようやく気づいた。
それは、俺を無視して通り過ぎて行く住人の頭上に浮かぶ文字の羅列。
名前[アールド・グレイ]
種族[人間]
性別[男]
年齢[二十]
宗教[ガーランド]
技能[力補正レベル1][体力補正レベル1][準魔法]
俺の隣を通り過ぎていく中年っぽい男性の頭上に浮かんでいたものだ。
二十歳にはとても見えない風貌のこの男性。
額には波状の皺があり、ほうれい線もくっきりと出ている。
本当なのだろうかと、しばらく後をつけてみることに。
「よう! グレイの兄貴!」
「俺はまだ二十歳だ! 兄貴って呼ぶな!」
八百屋の親父から兄貴扱いされているが、八百屋の親父の頭上の年齢だと五十二。
本人も二十歳と言い切っている。だとしたら、頭上の年齢が正解か。
どうやら頭上に個人的な情報が現れているようだが、他の人も見えているのだろうか。
それとも俺だけか。
もしかしたら、自分の名前がわかるかも知れないと頭上を見てみるが、当然自分の頭も動くので見えない。
そもそも、出ているのかも分からない。
俺は一人寂しく通りを進んでいく。記憶の隅で霊感が強い人など幽霊が見えると聞いた覚えがあるが果たして居るのだろうか、そんな人間。
「ん? なんだ、ここは?」
考え事をしながら進んでいたからだろうか、かなり大きな門構えの奥に赤いレンガ造りの建物が目の前に現れた。
先程見た白亜の建物の何倍もの大きさ、広すぎる庭に、建物の最上部には鈍く光る大きな鐘もある。
門の横には綺麗に磨かれた看板が設置されていた。
「聖ルーナリア学園?」
学校かと、俺は柵になっている門の間から中を覗き見る。
歳はバラバラだが大体十歳から十五歳くらいまでだろうか、少年少女達が大きな建物へと入っていく姿が見える。
少年少女達は、赤、黄、緑、白など様々な色をしているが一概に同じ型の服装をしていた。
俺のすぐ隣には門番が居るのだが、こっちを全く見ようとしない。
当然か。
ここまで誰一人、自分に気づく者はいなかった。
「ちょっとお邪魔してみるか」
何故か学校に興味が惹かれるのは、生前俺は学校に行っていなかったのだろう。
どんな所なのか一度見てみたくなったのだ。
幸いというか俺の姿は見える者はいない。
一番大きな建物の正面入口から入ってみると、多くの靴がびっしりと並んで棚に収められている。
建物内はとても静かで、人の姿が見えない。
階段を登って二階に上がるが、やはり人の姿はない。
長い廊下を進んでいくと、部屋の中にはたくさんの子供がいた。
どうやら、勉強は部屋の中でやっているようだ。
俺は廊下を更に進み次の部屋を覗いては、更に進むを繰り返す。
何度目か忘れたが同じ事を繰り返すと、気のせいだろうか部屋の中にいる少年と目が合っている気がする。
少年は、じっと俺の方を見て動かない。しかし、本当に俺を見ているのだろうか。
ただ、余所見している可能性もある。
ものは試しにと、俺は指で自分を指し示す。俺を見ているのかと。
その子は何度となく頷いた後、余所見に気づいた大人に怒られるのだった。
本日は五話まで更新します。