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夢幻鉄道  作者: 山口多聞
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中部鉄道旭線 昭和30年前後

 昭和25年に勃発した朝鮮戦争による特需によって日本経済は持ち直し、さらに2年後にはサンフランシスコ講和会議が開かれ、日本は独立を回復した。


 中部鉄道の矢作社長が積極的な営業策を打ち出したのも、そうした世情を追い風にしてのものだった。ただし、問題も多々存在したことも事実である。


 まず全線の複線化について。当時旭前駅で接続する瀬戸線は複線化を行っており、データイム30分に1本の旅客列車、そして当時焼き物の町瀬戸へ原料を運び瀬戸から出来上がった陶器を運ぶ多数の貨物列車の輸送を可能ならしめていた。


 それに対して、中部鉄道沿線は豊山から春日井にかけての区間はそれなりに住宅が建っていたが、その他の区間の沿線はいまだ田園地帯や森林で、旅客の増加は見込めないというのが、大方の意見であった。


 さらに、これは矢作社長が提唱した路線延長計画も同じで、この30年後には一大団地となった瀬戸の菱野地区、ならびに長久手町もこの時期は未開発地域であった。


 ただし、これは逆に言えば土地を買い上げやすく、路線を造るには好都合ということになる。矢作社長の考えでは、かつての阪急電鉄に習って、路線を造った後に住宅地や学校、商店を誘致すれば乗客を見込めるという考えがあった。


 もっとも、問題はそれだけではなく、この時点で終点駅となっていた旭前駅の構造もあった。この頃の中部鉄道旭前駅は、瀬戸線のホームに並行する形での終端式駅となっていた。この状態から南への延長を図るには、この駅を廃止して瀬戸線をアンダークロス、もしくはオーバークロスする形で越えなければならない。加えて瀬戸線との乗り入れも不可能、もしくは大幅な連絡線路の移設をよぎなくされる。


 ちなみに同様の問題は国鉄中央本線との交差地点でも起きていた。戦時中工事期間をケチったために、同地点は中部鉄道と中央本線が直接交差していた。そちらも、今後中部鉄道が増発を行うなら改良工事を実施する必要があった。


 また複線化して増発するには車両の新造も必要不可欠だった。そうなると、予算はバカにならない。朝鮮特需で多少利益が増えているとはいえ、それら全てを行うだけの力など、中部鉄道にはなかった。


 幾度か行われた重役会議において、矢作社長は極力計画全てを断行する構えであったが、予算がないという現実の問題は抗うことなど出来るはずもなく、やむなく菱野地区への延長と旭前駅の改良工事は、免許申請期間中は保留とし、現在優先すべきである春日井駅の改良工事と、春日井・豊山間の複線化工事を行うこととなった。


 これら工事は昭和27年3月に開始され、複線化工事は半年後に終了した。また春日井駅の改良工事である中央本線をまたぐ高架線への切り替えと、国鉄との連絡線の移設も昭和30年2月には完了した。


 この工事が終了したことにより、昭和30年3月にダイヤが完成され、豊山・春日井間の列車はラッシュ時20分に1本、データイム40分に1本へと強化された。また同時期に開港した名古屋空港と、やはり創設されて間もない航空自衛隊小牧基地への物資、燃料輸送を行う貨物列車も1日に数往復運転されるようになった。


 またそれと同時に車両も新造され、モ200型2両と制御者のク100型2両が新造された。このモ200型はモ100型と外観は似ていたが、車内はクロスシートにされるなど改正点もあった。またク100型はラッシュ時にモ200、又は100型に増結される輸送力強化車で、車内はロングシートだった。


 一方この年、運輸省から菱野地区までの免許が認可され、さらに中部鉄道の筆頭株主の1つであった名鉄が資金援助する形で、旭前駅の改良と延長工事のプロジェクトが始動した。当初の予定では長久手町までの延伸が予定されたが、こちらは地下鉄1号線(後の東山線)の計画のために認可されなかった。


 ちなみに中部鉄道の戦時中における株式は、陸軍が30パーセント、国鉄が20パーセント、名鉄が20パーセント、その他数社の企業が数パーセントずつを分配して保有していた。


 戦後軍が解体された後は、陸軍の持ち株をその他の株主が均等に引き継いでいる。そのため、この中部鉄道の株は名鉄と国鉄が等しい数を持つという特異な現象が起きていた。


 旭前駅の改良については、まず中部鉄道がどのような形で名鉄瀬戸線を越えるかが課題となった。築堤を盛る案と、高架化する案が検討された。工事をするならば、前者の方が容易となる。ただし高架化の場合なら高架下のスペースを活用でき、なおかつ道路一つ一つに対して穴を開ける必要がないなどのメリットもあった。


 結局これについては今後の町の発展を期待することとし、高架化が行われることとなり、瀬戸線との連絡線は移設されることとなった。


 この延伸工事と、旭前駅改良工事、さらには春日井・旭前間の複線化工事は昭和30年9月にスタートした。


 これら工事のうち、最も難題であったのが延伸工事であった。当初の路線では菱野地区へ最短距離で走る予定であった。ところが、これは名鉄側が瀬戸線への平行は好ましくないと却下し、やむなく迂回ルートを通ることとなった。ところがこれが意外と厄介で、勾配がきつい区間が多くなった。そのため、中部鉄道は比較的カーブを緩やかにし、直線を多くするなどして、開業後スピードが出せるように苦心した。


 一方、春日井・旭前駅間の複線化工事は予定通りに進捗した。さらに嬉しいことに、この時期から名古屋市近郊の開発が本格化し、中部鉄道が通る志段味地区も団地や住宅地としての開発がスタートした。これは矢作社長の先見性を裏付けるものだった。


 同様に、南の終点である菱野地区でも団地の開発計画が持ちあがっていた。


 そして昭和35年5月。ついに菱野への延長工事が完了した。それより半年早く、旭前駅の改良工事も完了していた。


 これら新規開通区間と、改良駅はいずれもホームの延長がそれまでの18m級車両2両分から、20m級車両4両分となっていた。これは将来の輸送力増強を見込んでのことだった。


 この新線開通に伴い、車両も新造されることとなった。この時新造されたのは当時流行した日車標準車体採用のモ300形で、初めてガルタン制御が採用され、既存の車両よりも加速性能と最高速度が大幅にアップした。また座席もロングシートとクロスシートを混ぜたセミクロスシートであった。また制御者としてク300型も新造された。


 この2車種は合計12両が投入された。


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