中部鉄道旭線 開通から戦後直後
その鉄道は、戦争の申し子として生まれた。当時愛知県の尾張旭近郊にあった機関銃弾の工場から銃弾を、当時計画されていた陸軍小牧飛行場へ運ぶ手段として計画された。
起点は後の名鉄瀬戸線の旭前駅で、そこから志段味を通り、春日井(鳥居松)で国鉄線の中央本線に合流した後、春日井市を横切り、味美駅で小牧線に合流。そのまま小牧飛行場へ乗り入れる予定だった。
小牧飛行場は昭和17年に本土防空体制強化に併せて建設が始められた。それに伴い当時名鉄小牧線から引込み線が引かれ、燃料や各務ヶ原からの部品輸送、そして新線で運ばれたてきた銃弾の輸送に用いられる予定だった。
新線には銃弾輸送の他にも、工場労働者の輸送任務や当時大曽根駅で繋がっていた国鉄中央本線と名鉄瀬戸線間で行われている貨物輸送の一部を肩代わりさせる意図も盛りこまれており、急ピッチで建設が進められた。
この路線にとって幸いと言えたのが、着工が昭和17年7月と比較的戦況が悪化する前の時であったため、線路や架線柱、電線用の物資をなんとか手にいれられたことであった。
そして突貫工事の上で、同路線は中部鉄道旭線となって開通した。軌間は1067mmの狭軌、電圧は名鉄瀬戸線、ならびに小牧線と同じ直流の600Vであった。これは旭前、味美の両駅で瀬戸線、小牧線と線路を繋げたためであった。また全線単線で開通したものの、輸送量増大を見込んで複線用地が確保された。
駅は旭前、志段味、春日井、味美、豊山の5駅で、同規格の私鉄と比べて駅数が少なく、比較的駅間距離が長くなった。これは物資不足、ならびに停車駅削減による節電のためであった。
なお名鉄ではなく、わざわざ新興の会社を創ったのは、この路線が非常に軍事施設に近い、言うなれば機密度の高い路線であったからである。
この路線が開通した昭和19年6月はマリアナ諸島が陥落し、日本本土空襲が現実のものとなったころであった。そのため各地で工場などの疎開が開始され、瀬戸でも陶器工場の一部が兵器工場として転用され、さらに水野の山中に作られた愛知飛行機の地下秘密工場では爆撃機の生産が行われた。
瀬戸線と旭線の両線は、瀬戸で造られる兵器の輸送まで行う必要が出てきた。
開通当初の旭線には電車がモ100型の101から104までの4両、機関車が凸型電気機関車のデキ100型のデキ101から103までの3両が新造され配備された。
デキ100型は名鉄のデキ200型とほぼ同型の車両であり、またモ100型も名鉄のモ800型に近いスタイルの列車であった。
この他に30両ほどの貨車も製造されている。
この時新造された車両はいずれも戦時中に造られたために、車体の擬装は最低限度にとどめられ、外観も直線を多用したものとなった。
また昭和19年10月に、さらに電気機関車1両と電車2両を発注したものの、戦時中の物資不足のために電装品がそろわず、これらの車両が引き渡されたのは戦後からになった。
このため、車両不足を名鉄瀬戸線と小牧線、さらには国鉄から車両を借り受ける形で補わざるを得なかった。
開通当初のダイアは、旅客列車が朝夕が1時間に1本、データイムが2時間に1本であった。これ以外に貨物列車があったが、貨物列車は半分近くが瀬戸線や小牧線からの乗り入れ列車であった。
ただし、ダイア通りに列車が運行されたのは4ヶ月程度の間のみで、その後戦況が悪化し米軍機が本土の空に現れるようになると、空襲警報のために列車の運転は中止された。また終戦が近づくと警報が発生していなくても、電力事情の悪化による停電によって運転が中止されることもあった。
昭和20年8月15日、日本は敗戦した。それに伴い、中部鉄道の軍需物資輸送任務も一端は終わりを告げることとなった。同業務が再開されるのは、小牧飛行場へ米軍が進駐し、燃料輸送などが必要となった昭和21年からであった。
戦争は終わったが、中部鉄道も他の鉄道と同じく物資の不足と戦うこととなった。ただ幸いと言えたのは、同線は比較的人口が少ない地域を走っていたために、乗客の数が少なく、すし詰めで人を運ぶような事態には陥らなかったことだ。これにより車両を長持ちさせることが出来た。
終戦後しばらくの間の主な乗客は、民需工場へ出勤する労働者ぐらいなもので、あとは少数の沿線住民に限られていた。なお名鉄との合併話も出たが、これは結局流れてしまった。名鉄が今後の発展が望めないと判断したためとも言われているが、定かではない。
また貨物列車は瀬戸線が止まった場合のバイパス業務や、付近の農家で採れた農産物の輸送で細々とだが継続された。
終戦の混乱が治まってきた昭和24年、ようやく戦時中に発注されていた電車1両が入線した。電気機関車は余っている状況なので、他社に転売された。
一方これと前後して、戦時中に急ごしらえで造られた各種施設の更新がスタートした。特に架線や変電施設、軌道の一部が開業後数年しか経っていないにも関わらず、痛みを生じていた。ただし路線長が短いこともあって、改修は短期間で終了した。
また戦後初めてのダイヤ改正が行われたのもこの年であった。この時期貨物輸送量がやや持ち直したとはいえ、戦中に比べてはるかに少なかったことから、路線の収入源は旅客に重きが置かれることとなった。これに伴い、朝夕ラッシュ時は30分に1本、またデータイムにおいても1時間に1本とほぼ本数が2倍に増強された。それと同時に、名鉄瀬戸線と小牧線に直通する列車も何本か設定された。
志段味、春日井間には北守山という新駅も設置された。
この頃になると沿線に何校か高校や中学校が建設され、そこへ向かう学生の乗車が見込めるようになった。また志段味地域から瀬戸へ向かう工場労働者や学生の乗客も見込めるようになった。
昭和26年に全線の設備の改修工事が終わると、時の矢作社長は大英断を下した。それは積極的営業政策の展開で、全線の複線化と学校誘致、さらに旭前駅から瀬戸市南部、さらには長久手方面への延伸であった。




