第六十三話 出戻り①
「はいはい、なるほど。つまりこりゃあ出戻りってわけね」
「そんなんじゃねーよ」
「いいよいいよ。みなまで言うなし。あー、タオル取ってくんね」
「すまんな」
随分とずぶ濡れになってしまったが、やっとのことで見慣れた玄関にたどり着いて妹が出迎えてくれた。
これが酷い雨だったのだが家に帰るという時には関係ない。
家に帰るってのは例外なく至高にハッピーな時間であるわけで、自然現象程度が俺たち帰宅部の足取りを止められると思われているなら舐められたものだ。授業終わりのチャイムが鳴った瞬間の身軽さでなら空だって飛べる気がする。
「ほれよっ」
欅がタオルを投げてよこしてきたので、小さな会釈とともに受け取る。そして水でぺたんこになった髪を拭く。
「サンクス」
「いいってことよ。へへん」
妹はといえば機嫌良さげに、腰に手をやって笑っているのだった。
「傷心中のお兄ちゃんには、優しくしなきゃね」
俺のこの様子を見て妙なことを勝手に察しているのだろうが、生憎こいつが考えているほどのことは何も起こっていない。具体的に言えば別に橘にフラれていもいないし、そもそも付き合ってすらいない。まして自分の思いを伝えたわけでもない。
まあそれでも、この俺と同類の陰キャ女がそういう風に考える理由は無いではなかった。
今日この日、兄貴の帰宅はあまりにも早すぎた。
『嫌、だ』
今日のロングホームルーム、その言葉で教室の空気はしんとした。
俺が橘と一緒にステージに立つと誰かが言いだした時は、それはもう教室は湧いたんだけどな。みんな良いアイディアだと思ったのだろう。
しかし、考えるより先に出てきたのが拒絶の一言だった。
『目立つ役だけは、ぜってーやらねえし』
『いいじゃんいいじゃん、一条っちー! 今が楽しい時期っしょ? みんなでワイワイできるチャンスじゃんよ。楽しくないわけねーじゃん!』
と、誰かがヘラヘラと明るい声で返してくる。
だがもし俺がその場のノリに押し切られるような奴だったならば、学祭準備くらいは去年もそつなくこなしていただろう。
いやむしろ、その場のノリとやらが俺に強く要求すればするほど反発は強くなる。それがそのまま言葉に反映される。
『ぜってーと言えばぜってーだ。言っとくが、死んでもステージには立たんからな。もしその役割を押し付けようってなら、当日になって俺がのこのこ学校にやって来るだなんてバカな期待はするんじゃねーぞ』
あーあ、また水を指した。
学校祭だぞ。みんな例外なく白熱して当然なのにな。
俺だって分かっちゃいるんだ。だからせめて、目立たないようにしていたのに……余計な一言をぶっこんでしまう。
『二度と言うな。俺を主役に据えようだなんて』
それで無事、ステージ発表じゃない方の教室発表に振り分けられたというわけだ。
模擬店でもやるのか、はたまた段ボールとガムテープで子供だましのしょーもないゲームでも作るのか。いずれにせよ、表に出ることが多いステージ発表はクラスでも目立つ連中が行きたがる区分だ。その反対なのだからお察しってところなのだけれども。
放課後の居残り準備。
その陰キャクラブの初日すら、俺はまるで当然のようにサボってしまった。
黙ってスクールバッグを肩にかける陰キャ野郎を咎める奴は誰もいなかった。気づかれる前より早く、俺はするりと教室のドアを抜けた。そしてスマホの電源も切った。
「なんかさー。兄貴って、学園祭に親でも殺されたのかってね」
簡単に事情を説明して、最初に妹が言ったことがそれだった。
妹の部屋はホコリの匂いがして、女の子の自室って感じではない。暗い空間ではディスプレイの光だけがうるさい光を投げかけている。
いつ以来だろうか、俺はここに戻ってきてしまった。
戻ってくればよく分かる。俺にはここが合っている。
「ま、なんでも嫌ならやんなきゃいいってのは基本だよね」
「引きこもりがいうなら間違いねーな」
「見習ってもよろしくってよ? ぐふふっ」
「でもほんとに、俺。学園祭の何が気に入らねーんだろうな」
高二、十七歳。
まるでそれを楽しむのが当然、みたいな。
上辺だけでも合わせとけ、みたいな。
合わせられないやつは罪だ、みたいな。
そういう空気感を浴びれば浴びるほど、少しずつカチンと来る。
青春世界においては、楽しみたい奴だけ楽しめというのは通用しない。
それどころか、授業料に見合わないような矛盾が絶え間なく押し付けられる。
そういう意味では、単語帳を開くのはせめてもの抵抗だった。最近はどっかの誰かに毒気を抜かれてしまっていたわけだが、存外、俺が心の中で設定していた一線はまだ生きているらしい。
学校を出た時、金髪女の顔すら思い浮かばなかったほどだ。
「んで……明日からどうすんの? 客観的に見れば、なんだか突発的にグレた男子って感じなわけだケド。あの金髪ギャルとも、まだ続いてんでしょ?」
「……付き合っちゃいない」
俺はコントローラーを置いて、床に背中をどすんと落とした。
「でもこれで、兄貴とあのエロいねーちゃんが人種的に違うって確定した。ずっと思ってたけどさ。教室ってシステム、ほんと意味分かんないよね。四十人も種類の違うバカ集めれば、そりゃ死人だって出て当たり前じゃん」
「俺たちシロクマ一族に動物園は過酷すぎるな」
「違えねえ、違えねえ」
妹も横に細い上半身を落としてくる。
暗い部屋の硬い床に、まあまあ離れた距離感を保ちながら、兄妹並んで仰向けに横たわる。
ポーズしたゲームのBGMだけがピロピロと鳴っている。
「兄貴……こっちに戻ってくればいいじゃん」
「こっち……?」
「こっちは、こっち」
欅はクマだらけの目元を柔らかくして、小さく微笑んだ。
本当にどうすんだろか。橘は心配しているかも知れないし、もしかすると今日ので嫌われてしまったかも知れない。
あれから少しも話していないからこそ、どうしようもない憶測だけが胸に溜まっていく。
好きだと自覚した上でなお言わないのは、こうなると分かっていたからなのかも知れない。
俺とあいつは違う。違いすぎる。そう知っていたからこそ、いずれは嫌われる瞬間がやってくる。仲良くすればするほど、避けられない失望に餌をやって太らせるだけなのでは…………と。
家のチャイムが鳴った。