第六十二話 全部
学校生活は変わった。
成績のためでもない。受験のためでもない。
ちっとも使いみちの見つからない膨大な若さを、無為な時間の中に溶かすためでもない。
ただ会いたい人に会って、話して、笑って、見つめ合う。
たったそれだけのことがこんなに楽しいことだなんて、夢にも思わなかった。
認めるしかない。確かに今の俺は、たった一人の女の子のためだけに学校に来ている。それがたまらなく楽しかったりする。
「ほら、もう教室についちゃう。手、繋げなくなっちゃうし……」
「しゃーないだろ、すっかり遅れちまった。授業、始まってる」
「じゃあ、せめて……ね? ゆっくり歩こ?」
俺は言葉では肯定せずとも、歩調だけはしっかりゆるめるのだ。
休み時間を大幅にオーバーして、廊下には人気もない。
しっかり手を繋ぎながらコツコツと床を鳴らす。
二人して黙っているが、目が合えば微笑んでくれる。つられて俺もニヤリとしてしまう。
この瞬間。こういう時間。何も言葉が出ないけど、女の子の気持ちが伝わってくる、こういう一瞬。
ムズムズする。気持ちが言葉になって漏れそうになってしまう。
大好きだ……と。
「ねえ? 全部、好きなの」
「……っ。何て?」
突然だったので俺は繋いだ手までビクリとさせてしまう。
その反応が面白かったのか橘は舌先を出してニヤリとした。
だがその直後にいじらしく微笑んで、しかも妙に真面目な声色で、言うのだ。
「なんかさ、ちょっと心配そうにしてたから。今の、胸にきたっしょ? えへへ……」
「全部好きって、何の全部だっての! さっぱり分からんな、ふん」
「全部は全部、だよ? キミとしてることの、全部。こうして仲良く話してること。一緒にいること。あのね、あたしさ。キミの手の感触、すっかり覚えちゃったの。それでこの手もね……大好きなの。優しくて、柔らかい」
どうやら、橘にはバレているようだった。
学校生活は確かに変わった。しかしそれは、これからも絶えず変わり続けるってことでもある。
時間が不可逆的に進み続ける以上は止めようのないことなのだし、かといって先に分かっていたところで対処のしようもないから今の今までさっぱり気づかないふりをしていたわけなのだが……学園祭の季節がやってきた。
とうとうやってきやがった。
今この瞬間が大好きだからこそ、俺は見て見ぬふりをしていた。
「やっぱお化け屋敷っしょ?」
「いやいや小学生かよw 模擬店とか?」
「教室発表はテキトーでいいけどさ、ステージ発表はどうすんの? ダンスでもすんの?」
あーでもない、こーでもない。
あーしよう、いやいやこうしよう。
昼休みの次は、ロングホームルームの時間だった。
夏のムワッとした空気の中でも、教室の面々はピンピンしているようだ。
シャツに腕まくりをして、手をパタパタさせて汗を拭ったりして、それでもなお目を輝かせている。どいつもこいつも普段以上に元気だ。
こればかりはしょうがない。学園祭期間とはそういうものだ。
だが俺はほとんど本能的に、席で身体を縮こまらせていた。
数カ月ぶりに、ぼっちらしく机に突っ伏す。このまま寝たふりをすれば誰も気づかないだろう。
一個前の橘が振り向きさえしなければ……。
「模擬店は保健所の許可が必要だし、他のにならないかな?」
黒板の前で、学級委員の天樹院がロングホームルームの音頭を取っていた。
彼女が先頭に立つなら、俺がこうして寝たふりをしていたとしても、そつなく物事が決まっていくだろう。何ならもう今日から準備が始まるだろうし、無論のことクラス全員が参加を期待されている。
だが、学園祭だと?
俺が何年ぼっちやってきたと思っている?
陰キャ・ドクトリンに従えば、実は別段大したイベントでもない。
つまんない。参加したくない。サボるから、俺。
わざわざそんなことを口に出して、無駄な対立を生む必要はないのだ。
それよりも、やる気がないってことは背中で示せばいい。
たとえば俺が今ここで臆面もなく単語帳を開けば、それは明確な意思表示になる。こいつやる気ねーんだなって、クラスが察してくれる。それならあとは、毎日みんなが準備をしている横で平然と帰れば上級陰キャの完成だ。
みんな楽しむことに忙しくしてるんだから、どうでもいい陰キャ野郎を引き止めるほど暇じゃないってことなのだろう。だから案外、次の日も平和でいられたりする。まあ陰で散々に言われているのだろうけど。
しかし、このクラスに限ってはそのポリシーで通用するかは微妙だ。
俺はもう、橘かれんの隣を歩く男子になってしまった。
だからこうした議論を聞き流していた末に、サッカー部の爽やか野郎・荻野傑がわざわざ俺とあいつの名前をクラス全員の前で持ち出したとしても、特に不思議というわけではなかった。
ただ不意打ちだったので、その言葉にヒヤリとする。
「もちろんステージ発表はさ、橘と一条だろ?」
クラスごとにステージで全校に見せる出し物と教室での出し物を両方やるわけだが、ステージの方では俺と橘を主役にしようというのだろう。
冗談じゃない。そんなの絶対に御免だ。
「えへへ、照れちゃうし……♪」
しかし橘はと言うと、恥じらう振りだけを見せて嫌そうでもなくニヤニヤするという、お決まりの反応。
“純、どーする? えへへ……”
金髪女が目線だけこちらに振り返ってくるから、つまり、
「な、なんだよっ。お前らみんなして……」
クラス全員の視線が俺に集まって、静まった。
こういう空気、すごい苦手だ。
やってやるさ。俺がそう言うとでも思っていたのか? 折り紙チェーンしかやらないって、来る時に言ったろ。
いや……きっと、橘は本気にしていないんだ。
俺が何だかんだで、二人で一緒に目立つのがまんざらでないと思っている。
この微妙なズレを少しずつ肌で感じているから、俺は今より前には踏み出せないでいた。橘が好きだ。そこに間違いはない。
しかしこのズレが表面化すれば、いずれは好かれなくなる。
そのことをよく知っているから最後の言葉まで至らなかったのだろう。
「嫌、だ。目立つ役だけは、ぜってーやらねえし」
「え……?」
俺の拒絶を受けた橘の表情から、俺たちの間にどうしようもなく横たわる境界線が見える気がした。
3月1日に発売した書籍版2巻ですが、好調に推移しているようです。
一巻もまだだよって方は、ぜひこの機会によろしくおねがいします!
それと、明日も引き続き更新して盛り上げていければと思います…!