第五十九話 「好きだ」の代わり
長くて短い休みも終わりが迫っていた。
それでも何日かは確かに残っているわけで、はてさてその空白をどう扱おうものかと思案する。
そう、今や一条純と橘かれんは二日も顔を合わさずにはいられないのだ。まして休日で時間だけはある。会わない理由なんてあるはずがなかった。
だが連日で街を出歩くには、俺の財布は貧弱すぎる。
もう二度とあの大事な人を突き放したりはするまい。とはいえ財政難は如何ともし難く……そんでもって、苦し紛れに出した答えとその結果がこれだった。
「あら~。あらあらあらあら~」
玄関に迎えに来た我が叔母は、赤いほっぺたに手をやって上半身をぶるぶるさせている。なんと言っても、ふと夏休みに海へ旅立った甥っ子が派手な金髪の女の子を家に連れ込んで来たのだから声も上げたくはなるというものだろう。
この反応、予想してなかったわけじゃないんだ……。
でも、他に選択肢がなくてだなあ……。
俺の意識が羞恥で床の下まで沈みそうになっているのとは対照的に、橘かれんの笑顔は燦々と我が家の玄関に光を放つ。
そして叔母は、その明るさに目を輝かせた。
「純君!! ねえ!!!!」
「は、はい……」
スーパーハイテンションで紫色のオーラまで出しそうなアリカ叔母さんのデカい声を浴びて、俺は背筋をピンと立てた。
「この夏で、どこまでいったの!!!!!?」
「聞き方を間違えすぎですよ、叔母さん!? てか、近所迷惑……」
「えへへ……。初めまして……」
こういう時、橘かれんは誰の味方だろう?
決まっている、俺を羞恥で殺すためなら悪魔にだって与するだろう。家族の真ん前だってのに、彼女はおもむろに手を握ってきた。叔母の血走った眼がその小さな座標一点に集中し、鼻息は荒くなる。
「橘かれん……です。純君の、えっと……元カノ?」
「お、俺に聞くなよ!」
「だってー。せーしきには一日だけ彼女やっただけじゃーん? 罰ゲームでさ」
「うっ……」
元カノって言い方はしっくりこない。
彼女と言うには、俺はかれんに言うべきことをまだ言っていない。
友達と言えば当たり障りはなかろうが……そもそも事実じゃない。
ましてかれんを目の前にして普通の友達と言い切ってしまうには気が咎めたし、俺の意思がそれを許さなかった。ただの友達なんかじゃない。もっともっと、大事な人だ。しっかり本人の前で、それを分かるように言葉にしてあげなきゃ。
だからスーパーローテーションのガリ勉は俯いて、声を潜めて、それでも何とか言った。
「……………………ラブラブキス友達、です…………」
無論のこと、これは即家族会議な事案だった。
当然だ。いくら仲良くなったからといって、この派手な金髪女を連れてきたのは間違いだった。はいそうですか、上がっていきなさいってなるわけがない。それどころか、晩飯コースになって当たり前なのだ。
つーか、ラブラブキス友達って何だよ。
「いや~、残念ね! かれんちゃんが来るって知ってたら、もっと奮発してたのにね!」
おい、七面鳥と鯛とカキフライが同じテーブルに並んでるぞ。まるでいっつもこんな感じですーみたいに言うんじゃない。
まあ、今日ばかりはアリカ叔母さんも精が出たということなのだろう。
もうね、どんだけタンパク質を推したいんだよって。ちなみに主食枠は赤飯と来た。一体全体、何を祝っているつもりなのか問いただしたい所だ。しかし断じて言うが、お祝いごとなんて何もないのである。
ただ単に、少し一緒にいたかっただけだ……。
「なんか、すいません……♪」
「いいのよいいのよっ。はぁ……。にしても、可愛いのねぇ…………」
「や……。恥ずかしいです……」
そこまで恥ずかしそうじゃない橘さん。
一緒にいれば分かる。こいつは相当、自分の見た目だとかには自信を持っているフシがある。それで言葉尻だけでは恥ずかしがっているのだから、あざといことこの上ない。
……まあ、可愛いけどさ…………。
居間の食卓を四人で囲み、橘が俺の隣、そして向かい側に叔母さんと欅が並んで座っている。そのうち二人はニヤニヤとして、テンション高めなご機嫌状態だ。
俺たちが会った頃の話とか。
いっつも放課後は一緒にいることとか。
無論というか、叔母さんは橘をいたく気に入ったらしい。
さっき玄関で早速イチャイチャ……じゃなくて自己紹介を済ませた後も、これが思いがけないことに、彼女は礼儀正しく対応してみせた。晩飯まで一緒に作っていたよ。
だが叔母をクリアしようとも最後の難関があった。
「…………どうも」
妹は食卓に頬杖を尽きながらその様子を見ていたのだ。
ちょうど客人を招いた時の猫のように。突っかかるでもないが、感じよくというわけでもなく、“この人、いつまで居るの……?”って、言葉を介さずして俺を咎めてくる。
まあいきなり何の前触れもなくやって来て食卓まで共にするとなれば、ツンツンモードになるのもやむなしといった所か。
怖いが、それでもいずれは知られてしまう関係だ。
だからクラスに対してそうしたように、せめて彼女のことを知って貰う必要はある。叔母に茶化されるリスクを承知で連れてきたのもそのためだ。
だが、何せ、欅とかれんだ。真逆すぎる。
合うかどうかが、俺には自信が持てないでいた。
俺と妹の目が合うと、食卓に微妙な沈黙が流れた。
叔母もきっと同じことを考えて心配のはずだ。しかも長い間、家を外していた。欅は不満っぽい顔を向けてきたが、まあ確かに埋め合わせをしてあげなければなるまい。けど今は、俺とかれんとのことを……。
「えっと、あたし……」
かれんが出た所を、俺は手で制した。俺が言うからいいんだ、と。
「えっと、欅……。クラスメートの、橘さんだ」
「そう。……一条、欅です」
欅はそれだけ言ってご飯に手をかけようとしたが、俺はまだ視線を外さないでいた。
ぎこちなさを噛み締めながらも、次の言葉を持ってこようとした。
何か、おかしいな。そこまでして他人に分かってもらおうと思ったの、これが初めてかも知れない。
「無理に欅も橘さんと仲良くしろって言ってるわけじゃないんだ。でもせめて、分かって欲しい……。叔母さんには嘘っぱち言っていたけど、お前が睨んでいた通り、ずっと俺はぼっちだった。この人のおかげで、そうじゃなくなった。つまり何が言いたいかっていうと、なんっつーか、その、あれだ……」
優しい人、なんだ。すごく。
言い終わって、俺は何を必死こいて言っているんだと顔を赤くした。
実際、妹にはそんな変に肩の力が入った兄さんがおかしく映ったらしい。彼女は澄ました顔で肩をすくめて、言ったもんだ。
「つまり、あたしにお姉さんができたわけ……ね」
おどけた顔をしてなくとも、これは妹なりの冗談の言い方だった。
俺も叔母もそれを分かっていたから、次第に食卓の緊張がユルく溶けていく。かれんも安心したようで、すぐにトレードマークのニンマリ顔が戻ってきた。
「えへへ、そだよ……。お姉さん、なんだよ……?」
そして俺の隣に座っていたはずなのだが、欅の隣まで椅子を持っていってしまう。
妹は困惑気味に小さな身体を引っ込めるが、そういうリアクションはお兄ちゃんが散々通ってきた道だからな。もちろん、橘かれんが相手なら効果は今ひとつだ。
「欅、ちゃん……」
「は、はい……」
「かれん姉ちゃんって、呼んで……? ねえ、ねえ……?」
「む。食事中、だし……。食べなきゃ……」
「いーじゃんいーじゃん♪ 一回だけでもさ♪」
「かれん、姉ちゃん……。ほら、もういいでしょ……っ」
「や、姉ちゃんだって……。ほんと幸せ……」
俺は叔母と顔を見合わせて、やれやれとも何とも言えず、温かい気持ちで笑みをこぼすのだった。ツンデレ気味の少女と、太陽みたいに笑う女の子。実体験だが、こういうのは最高の取り合わせなんだ。
妹よ、今に見てろ。かれんなら大丈夫だ、俺が保証する。
こいつならきっと、誰の心の扉だってこじ開けてやって来るから。
◇◆◇
こうなると却って俺は邪魔みたいだ。かれんを含む我が家の女子三人は話に花を咲かせ始めたので、部屋に戻って夏休みの宿題に手をかける。
これ、俺には珍しいことだ。
普通なら休みの中盤には終わっているドリルも、街でデートして海に行ってと色々続いては、すっかりホコリを被ってしまっていた。そのことがすっかり変わった自分を勇気づけてくれているようでもいて、肩をすくめたくなる。
そうしていると、ふと部屋の窓に見慣れた金髪の少女が映りこんだ。
「純? お風呂、お先にもらったよ……?」
「ああ」
振り返ると、かれんはサイズ違いのパジャマ姿でドアの近くに立っていた。きっと妹か叔母のだろうが、彼女はその二人よりも長身だ。ピチピチ過ぎて、彼女も恥じらい気味だった。
それでも安心した顔を向けてくれるので、俺もつい優しい気分にさせられる。そうだ、あの森で言った通りだ。この子の優しさは俺まで優しくするんだ。だからこんなにも強く繋がっていられる。
彼女はベッドにすとんと腰を下ろした。
今日は連れてくると知っていたから部屋も程々には掃除したが、落ち着かない。金髪女が俺の部屋でゆったりしてやがる。そのことで今更そわそわしてきて、何だかそれがおかしく思えてきたりもして……。
「んじゃ、さっさと俺も風呂入ってこないとな……」
しかし、そこで袖が引っ張られた。
久し振りに、袖が……ああ、最初はこんな感じだったんだ。図書室の帰り際、まだ一緒に帰ってなかった頃だ。何か言い残したことがあると、決まって袖を指で摘まれる。
“何だよ?”……俺が顔でそう尋ねると、かれんはねだるように上目遣いで微笑んできた。
「ちょっとさ……話そ?」
「ああ、いいよ……」
身体を寄せ合って、しばらく落ち着いた雰囲気で見つめ合う。
今の俺たちは沈黙や気まずさすら味方につけてしまえるのだ。
お互い黙っていると、かれんは面白がって脇腹を指で突っついてきた。何をー、と俺も同じようにする。きゃはは、と笑うのを眺めていると、俺もあはは、と嬉しさを小さな声として漏らすのだ。
「ふん。ふ、ふふっ……。ほら、何か話したかったんじゃないのかよっ?」
「さっきね、欅ちゃんと仲良くなってきちゃった……♪ 綺麗な髪をね、三つ編みにしてきちゃったの……」
「根は優しいけど、一人が好きな奴だ。あんまりひっついてやるな」
「純もそうだった……でしょ?」
「まあ、違いないな」
「ねえ? あたしも、家族に入れてもらったみたいだね……?」
そだな、とは言わずに笑顔と沈黙で返す。
俺が否定しないのが嬉しいようだ。黙っているとお互いにニヤけた視線が交差して、雰囲気だけが甘く静かに沈んでいく。
そして手を握りあって、肩を寄せてきて、そのままベッドに倒れて……とすんと。
「保健室でこんなことしてたよね、この前……」
「あの時は、もっとムスッとしてた」
「もう邪魔する人、いないし。ねえ、イチャイチャ……」
「はいはい、イチャイチャな……」
熱く、近く、彼女の鼓動を感じる。
かれんの温もりが俺の五感を侵食し始めた。こうしてくっついて、擦れ合って、じゃれあって。どこかで「そんなはずがない」拒んでいた彼女の淡い感情すらも、今なら素直に受け入れられる。
そうして見つめ合っていると、少女の視線が熱を帯び始めた。
「純と、ずっとこういう風になりたかったの……。嬉しいの……っ」
「……ずっとツンツンして、悪かったな」
「ううん、いいの……。仲良くなれて、分かんなかった純の気持ちも分かってきて……はぁ、幸せ」
「大げさだ、こんなんで幸せなんてっ」
「だって、これから家族になるんだろ……」
そのまま……。ずっと、そのままで……。
彼女の肩に手をかけ、もう片方の手で髪を撫でた。
「あ……」
そうすると安心したように体重をぐったりとかけてきて…………いつまでもそうしていると、やがて呼吸が落ち着いてくる。
「こんなんで幸せだなんて、言うな。まだ幸せになんか、できてないからな」
「純……」
「リア充になるんだろーが。俺が幸せに、してやるから……」
今はそれが、「好きだ」の代わりだった。
大好きだ。愛してる。
それを言えるようになるまで、まだまだ道のりは遠いのかも知れない。それでも自分の気持ちを知るところまで来れた。ガリ勉ぼっちには上等な成果といえよう。
この子が……かれんが俺の一瞬一瞬をキラキラさせてくれたんだ。
そのことを一生忘れない。静かな想いが撫でる手付きまでも優しくして、少女はやがて、俺の横で寝息をたて始めた。