第五十八話 自己紹介
すっかり静かになった森を、腕を組みながら歩いている。どれくらいの時間を闇の中で過ごしたのかは分からないが、夜はこうしている間にも更けていきそうだ。いつまでもこうしているわけにはいかない。
もちろん、いつもの帰り道よろしく足取りはゆっくり目。
ずっとこの時間が続けばいいのに。分かっている。俺もかれんも、きっといつもそう思っていたから……。
更に歩調が遅くなり腕をガッチリ絡ませる。
横目で視線が交差すると、嬉しそうに「んふふ」と小さく微笑んでくれる。
「お化け、居なくなっちゃったね……?」
「あ、ああ……」
愛おしげに潜めた声で囁いてくれると、俺も同じく微笑み返すのがやっとだ。
まだ少し自分でもぎこちなさを感じながら、二秒も維持できない笑顔が崩れる前に目を逸らした。あんだけ距離が近づいても……俺はまだまだだ。
「俺らがアレコレしてんの、見られたせいかな……」
「ふーん? アレコレって……?」
「二人で、一緒に、その……」
「ちゅーしちゃった……。四回も……」
「そ、そんなにしたのか」
「あたしら、すっかりリア充になちゃったね。幸せ……」
今日だけでかれんと四回も……。
俺は雰囲気に酔っ払っていた事に気づいて、その事実をすぐには咀嚼できずに立ち止まった。橘かれんと、キスを、四回も、しかもクラスの前で、だ。決して軽い気持ちだったわけでも、自分が何をしているのか分からずにやったわけでもないが……。
「肝試しとかゆってさ。みんなを怖がらせちゃったの、あたしらじゃん♪ ドン引きされちゃったかな……?」
「うう、今しがた色々気付いて俺も肝を冷やしつつあってだな……」
「なになに? 今更恥ずかしがってんの?」
もっかい、する……?
その場で立ち止まり、しんとした空気の中で見つめ合う。言葉と言葉の間隔が遠のいていって、俺が黙っているほど、かれんの控えめな笑顔が大胆な光を覗かせてきた。
「もう……後何回すれば慣れるの?」
「…………別に」
「ねえ、純? もっかい、ちゅーしたい……?」
金髪女は実にこいつらしく、自信満々に眉を曲げる。
そりゃあ一回目どころか五回目まで行ってしまったからには、六回目だって無いとは言えないわけで。今はこんなに身体を寄せ合いながら心地よさすら覚えている。最初は手を繋ぐだけで、あんなに緊張しっぱなしだったってのに。
「…………したい」
「ばか、うれしいし……。んー……ちゅ」
くっついたままの静寂をゆっくりを味わう。
けど切ない一瞬だった。唇が離れると、笑顔を交わして歩みを再開する。
……ずっとこんな時間が続けばいいと思ったのには、他の理由もあった。
それを反映するかのように、森の出口が近づくに連れ、歩調はみるみるうちに鈍くなっていく。かれん以上に、俺が。
次に起こりうることを考えれば、俺は彼女ほど無邪気にはいられなかった。
「もうみんなにしっかり話さなきゃ、な」
「……え?」
「まだ言葉っ足らずだろ。俺たちのこと、見られたしさ……」
もう何分かすれば、二人ではいられなくなる。
今まではいつだって二人っきりだった。図書室でもこの林の中でもそうだった。周りのことなんて、気にする必要がなかった。
けど、もう、見られた。
一条と橘。暗い森の中で、キスまでして……行動で俺たちの関係を見せつけた形になった。このままうやむやにはできまい。
「あたしがみんなに紹介するよ? 純が彼氏ですってさ♪」
「……いや。俺の役目だ」
「純……?」
少女が心配そうな顔を向けてくる。
元居た森の入口が近づいていた。あそこに戻れば、再び俺はこいつの彼氏になる。陰キャ野郎にして明らかに不釣り合いな、クラス一明るい女の子の彼氏に……。
実際、俺たちを待ち構えていたクラスメートの表情は様々だった。
「ひゅーひゅー!」
歩いていると、そんな明るい声が上がったりする。
しかし向けられているのは好奇や祝福の視線だけではない。苦笑いする者、困惑した顔でだんまりな者、色々だ。
「あいつらとうとうキスしてた、よな……? 俺、未だに目を疑ってんだけど……」
「一条があんなこと……」
「…………」
彼らが呆然としながらも俺ら二人のために道を空け、ニコニコ顔のかれんと並んで歩いていく。
そしてこの花道めいたものの先で、氷堂弥生が手を腰にやって突っ立っていた。
「ふふっ……あそこまでやるとは思わなかった」
「……俺もだ」
「えへへ、どうだった? あたしらラブラブだったしょ……?」
「なはは、挙式はいつだってね? てか真面目に……付き合ってどんくらい?」
俺はその質問には目を逸らした。
繰り返しだが、正確には付き合ってない。俺はまだ肝心の一言を言えていないのだ。だがそれでもクラスの前では確かに彼氏彼女になってしまっているわけで、何を答えれば正解になるのやら。
だがともかく黙っていることには誰も満足しないらしい。
氷堂は不満そうに目を細めて、続けるのだ。
「みんな、色々気になり始めてる。みんなのかれんがどんな人に取られちゃったのかってさ。まだ隠したいならそれでもいーけど……一条?」
「もう何も隠れてねーだろっ。俺も俺で、分かってるんだ。色々ハッキリさせなきゃって」
変な気分だ。数ヶ月前、クラスなんてどうでもいいと思ってたのに。
「まあ、何って言えばいいかな……」
ともかく後ろに向き直ると、みんなしんとしていた。
かれんが心配そうに隣に寄ってくるが、あくまで手で制す。こいつに説明させてしまっては意味がない。クラス一のギャル兼アイドル・橘かれんのお相手は一体何者なのか。学校中の男子をフッた末に落ち着いた男が、どんな奴なのか。
みんな固唾を呑んで俺の言葉を待っている。
その雰囲気が、注目の強さを教えてくれた。
「俺が、一条が、その…………橘かれんの彼氏だ」
総勢二十ほどの群衆がざわついた。
「何で一条なんかがって思ってる奴、たくさんいるかも知れない。つーかさっき微妙に陰口言われてんの、全部聞こえてた。毎度毎度のことで、聞こえないふりしてた。つーか別に、文句はねーよ。基本隅っこで勉強してるだけの奴がどうしてって思うのは当然だ。俺もみんなのこと、どうでもいいって思ってたし。まあお互い様だよな……」
けど、それも、もう終わりだ。
どのみちもう孤独ではいられない。俺は大事な人を守る義務を背負う。今すぐには橘かれんに相応しくなれないかも知れない。それは仕方のないことだ。これから相応しくなっていく以外にない。
しかし、だからこそ、今このタイミングで言えることは一つだけだった。
「なので今日、初めてハッキリお前らに俺の言葉をぶつけてやる。橘の彼氏はどうしようもないガリ勉で、家じゃゲームばかりのオタク野郎だ。加えて元ぼっちで、帰宅部の青春敗者だったような奴だ。残念ながら、それが現実だ」
これは、ある意味では初めての自己紹介だった。
閉じこもっていた自分が解放されていく。初めてクラスと向き合えた気がした。そしてその向き合い方とは、紛れもなく宣戦布告だった。
「これに文句がある奴は……俺に直接言って来い。受けて立ってやる。けどな、もう陰口なんてつまらん真似は二度とするな」
思えば小松君の言っていた通りだ。
『一人でも、橘さんは仲良くしてくれた……だよね?』
だからこそ、今更取り繕いようがないのだ。
彼女が好んで接してくれた自分自身を信じるしかない。
なので連中に認めてくれとは言わない。
だが認めないなら認めないで、俺は何時でも受けて立ってやる。その上でゆくゆくは認めさせてやる。俺は隣に立っていた金髪の少女の手をおもむろに握って、言葉に意思を込めた。
「けど気をつけろ、今まで上辺だけで橘に告ってきた有象無象と一緒にするな。こいつを想う気持ちだけは、俺…………誰にも負ける気がしねえから」
沈黙。
しかし……パチパチと。また引かれただろうか? そう思っていると、手を叩く音が一つ、二つ、次第に重なっていった。
「よ、ガリ勉! 色男ー!」
「どこが敗者だよ、啖呵なんて切りやがって……ふふっ」
「かっこつけんな。さっさと爆発しろー!w」
手をつないだままのかれんが、隣からニコッとしてくる。
夜の空気の中で、シャツが肌にベタついていた。肝試しと言うが、色んな意味ですっかり肝がもみくちゃにされていた。
……これでも始まったばかりなんだ。
誤解を解くためとここまで踏み込んだが、俺はまだ大事な一言を言えていない。そしてこの彼氏彼女協定は、クラスの視線がなければいつでも失効してしまう。肝心の部分はまだ宙ぶらりんだ。
夏休みが終わりにかかり、俺は胸をほっとなで下ろした。
やっと長い道のりが始まったな、と。