第五十三話 二人だけの世界
昔々、俺は数時間だけ橘かれんの彼氏だった。
その時は顔を真っ赤にして色々考えたものだ。
……信じられるか?
……俺に務まるだろうか?
……あるいはそんなこと、シケたガリ勉のぼっち野郎に許されることだろうか?
まあ色々考えた割には、その時はどうでもよかったのではあるが。
どうせ冗談だろって、たかをくくっていたからだ。だから真面目に取り合うこともなかったが、それゆえにこの大事な人を傷つけかけた。
で、今は……?
事情はちょっとだけ違う。冗談半分なことに大した変わりはないが、これは遊びであって遊びではない。
お互いの気持ちを探り合う、危険なゲームだ。
自分の本当の気持ちすら見失いながらだというのに。
「純……。ねえ、純……?」
「な、何だ……?」
「何でもいいから、彼氏っぽいこと……言って?」
橘は早速仕掛けてきた。
彼女は俺の肩に置いていた手をそのまま這わせ、首筋に指をかけてくる。
「ね、嘘でもいいから? 何か、彼氏っぽいこと。んふふ……」
彼氏っぽいこと。
俺は緊張の淵に落っこちないように、理性の崖にしがみつく。そうして何とか言葉を紡ぐのだ。だがこれはあくまで探り。こいつの出方を伺って、どうなるか見てやろう。
「…………そろそろ親に紹介しろよ」
「ふふっ、ばか……。そーゆーことじゃなくてさ……」
聞き慣れた小さな笑い声が耳元を撫でてきた。
ちょっと冗談っぽ過ぎただろうか。だが、誘われて乗ってこない橘ではない。
「付き合って何ヶ月くらいの設定よー?」
「半年くらい……?」
「へえ? そんな早く決めてくれるの……?」
「……っ。それは、その、冗談っつーか。何だよ、急に真面目な顔すんなよ…………」
あっちを向こうとするが、許されない。
身体を密着させたまま手で顎が抑えられた。外では雨音がザーザーし始め、もう何十分もこのままな気がする。
俺がうろたえて機嫌を良くしたのか、橘はいつもの自信満々な顔に口を緩ませた。
探りを入れるどころか乗せてしまったらしい。
……ふん、好きなだけ乗せればいいだろ。その方が楽しくなる。
心の片隅でそんな声がするのは、まだ内緒だ。
「パパとママに気に入られた後は、どうなんの?」
「気に入られること前提かよ……」
「そうなったらパパにも何にも言われないで、いっつもあたしの部屋に入り浸んの。放課後は二人で毎日毎日、幸せに……。あとは彼氏に、きっちり決めてもらうだけ……」
橘の唇が弓なりに曲がると、隙間から白い歯がちらりと見える。
本当の本当に、勝ち誇ったようなドヤ顔が似合う女だ。分かってきたことがある。俺はイジられていると知りながら、こういう顔がいつでも恋しいんだ。
「き、決めるって。何を……」
もし、こいつにイジられるのが嫌なら?
優位に立ちたいなら?
簡単だ。そっぽを向いて、俺には興味が無いんだぞって態度で示してやればいい。もう行くからなって、今からでも小屋の外に飛び出せばいい。
そうしないのは、別に優位になんて立ちたくないからだろう。
「えー。何をって、決まってんじゃん……」
その先を言わせたい。
言わせて、もっと調子に乗せてみたい。
……と。
言いかけた所で、机に置かれた橘のスマホが振動した。クラスの誰かから連絡が来たのだろう。
俺たちは突然の音にハッとして、ベッタリしていた身体を離した。
「で、出ろよ。そろそろ、あいつらに心配されてるだろうし……」
橘はむき出しになった肌を何となく手で隠しながら、不満そうに表情を陰らせる。
「邪魔、されたくない……。まだ彼女でいたい……」
結論を出せずにいると、振動が鳴り止んで雨音が戻ってくる。
「純が頑張ってくれたもん……。あたしも彼女っぽく、しなきゃいけないっしょ?」
「あ、ああ……」
俺が海パンのまま古びた木の椅子に座ったが、橘を汚れた椅子に座らせる訳にはいかない。
示し合わせるまでもなく……金髪女は俺の膝の上に収まってきた。
そうして彼女らしいことを耳に直撃させてくるのだ。
……どうやら、俺と違って直球で来るらしいよ。
「これから純のどこが好きか、教えてあげる……」
あまりのド直球な奇襲に俺は身体をビクつかせたが、あいにく橘の体重が乗り切った体勢のためここからは動けない。逃げられもしない。
色々とむき出しのまま、この集中砲火を受けるしかないのだ。
「えへへ、全部なの。全部好き……♪」
「た、橘……! やめろ、そんなの……」
「だってこの方が彼女っぽいっしょ? はぁ…………全部好き」
細い腕が首筋に絡まってくる。
彼女彼氏関係なく、俺たちはラブハグ友だ。首筋に腕が絡められると、俺もぼうっとしている訳にはいかない。それは失礼に値する。
「でも半分ホンキでさ、全部なの……」
「ふん、趣味が悪い女だ……っ」
そうやって悪態をつきつつも、こいつの湿った背中を撫でるのだ。
こんな時間がずっと続けばいいのに。きっとお互いにそう思っていた。ベタベタし過ぎで感覚が麻痺ってきたか? 緊張が雰囲気の中に溶けていきそうだった。
時間に身を任せる。
眼の前の女の子の声しか、聞こえなくなって……。
「冷たそうにむっとした顔も、みんなに同じくらい優しいところも、何か色々できちゃうところも……」
「俺のために怒ってくれた。俺と一緒にいて、いっつも楽しそうにしてくれた」
「え……?」
「その……っ。俺も橘の……。いや、かれんのそういうとこ好きっつーか。もう二度と言わねー……」
「だめ……。一日一回……。ねえ、純っ。純……!」
「かれん……」
とろんとした目が俺を捉えて離さなかった。
俺も今だけは視線を逸らさずしっかり合わせる。
そうしたままで永遠にいられる気さえする。
……『何で緊張するか、知ってる?』
……『好きになるのをさ、ガマンしてるからだよ? もうさ、あたしにメロメロになっちゃえばいーじゃん♪ 彼氏と彼女だもん、二人でバカになっちゃおーよ?』
前に彼氏だった時、こいつはそう言った。
お互いがお互いに身を任せる、二人だけの世界。
このままでは、俺の方はすっかり引きずり込まれてしまうだろう。
でも今ならどっぷりと浸かってもいい。きっと二人で幸せになって、抜け出せなくなって、時間の感覚も抜け落ちて……。
あの柔らかい唇とも、もう迷いなく近づいて……。
ドアがガタッと動いて、そのまま開いた。
不満そうに片頬を膨らませていたのは天樹院桃子。
その後ろにズラッとクラスの面々も控えている。窓から見ている奴らもいる。
本当に時間の感覚が狂っていたらしい。
そして本当に通り雨だったらしい。外、めっちゃ晴れてるし……。
「その……二人が無事で良かったわっ。ここまでなってるとは、流石に思わなかったけどねっ!」
辺り一帯は沈黙していた。
どうやら、この有様ではイジってもくれないらしいよ。
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