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第五十二話 通り雨

 もう長いこと抱いていた曖昧な感情が言葉になってこぼれそうになった所で、雨が降ってきた。髪や素肌に小さな雫が舞い落ちてきて、それまでベタベタひっついていた俺たちは我に返ったように離れる。


ぽつり、ぽつりと。

むわっとした湿気が、熱に浮かされていた俺の自意識を現実に引き戻す。


「その、ごめん……。ずっと撫でちまって……」

「や、あたしがそんなの気にするわけないじゃん……」


 優しさと気まずさが混じり合い、交互に入れ替わる。

 ちらちらと揺れ動く視線を二人で静かに交差させていた。だが数日前との違うのは、もう気まずいってだけじゃない。

 俺は……いや、俺たちは。きっとこの気まずさすら、どこか楽しんですらいる。


「雨、振ってきたね……?」

「そ、そだな……」


 思うんだが、俺ら、ナチュラルに身体をくっつけ過ぎだっての。

 いつからそうだった? 何がそうさせる?


 この町に逃げてきてから数日間、俺は胸にデカい穴を抱え込んでいた。

 昨日の夜、仲直りして一体どれほど嬉しかったことか。この穴の埋まる感覚。単に二人で居て満たされていた時よりも、ずっと強い充実感だ。


 それで、でも、今は?

 くっついていた身体が少し離れただけで、胸がしょんぼりとしてしまう。


 バカだろ。重病だ。離れる度にこんなぽっかりした気分にならなきゃいかんのか?

 ふん、いっそ雨が降ってきてよかったよ。いい薬だ……。


「ちょっと待って、やばい。雨、強くなってきちゃった……」

「ん、ほんとだ。ずぶ濡れになる前に……」


 さっさとずらかろう。

 そう思って釣り竿に手を伸ばす……が、ピチャリと。大粒の雫が腕に当たった。数秒かかって、雨音が空気をザーザー鳴らし始める。

 これはまずい。突っ立っているだけでずぶ濡れになる。


「戻ってられんかもな。まずは雨宿りだ、いかにも通り雨っぽいし」

「う、うん……。えへへ……純、やっぱ頼りになるし!」

「言ってる場合かっ、行くぞ」


 その場を立ち上がり、どちらからともなく手を取り合って辺りを見回す。

 分厚い雲が真上を覆ってはいるが、それでも空は青いままだ。大きな切れ間から、まだ強い日差しが差し込んでいる。


 幸いなことに、良さそうな場所はすぐ近くにあった。

 駆け寄って行った先は海辺の小屋。

 砂浜にぽつりと立っている、戸の空いた古い木の小屋だ。外にドラム缶が置いてある。昔は漁の道具でも置いてあったのだろうか? 使われなくなって随分と経っていそうだ。

 釣り道具をその辺に置くと、ほっと一息ついた。


「しゃーない。とりあえずは、ここを使わせてもらおう……」


 天気予報では快晴だった。

 ボートに乗っていた時は、波もあんなに穏やかだったのに。


「サイアク~。めっちゃ濡れちゃったし……」

「同じく。向こうはどうしてるだろうな……」

「音、すごくなってきたね……?」

「どうすっか、真面目な話……」


 窓を見ているほど、外は暗くなり、ただ雨音だけが強まっていく。

 おいおい、これ、通り雨……だよな? 本当にどうしたものか。このままでは、みんなのもとに戻れない。

 最悪、濡れながらでも帰るか?

 でも俺一人じゃなくて、橘もいるわけだし。風邪を引いてしまえば大変だ。こうなれば最低連絡だけでも……。


「なあ橘、俺スマホ持って来てないから連絡を……っ」


 後ろを振り返ると、橘は先程まで羽織っていたパーカーを脱いでいた。そりゃそうだろう。あんだけ濡れたんだから、いつまでも着ていたらまずい。

 分かっている。分かってるんだ。

 どれでも暗くて狭い小屋で、やはり二人っきりなわけで……。


 ――『えへへ、これで二人っきり……。誰も見てないね……』


 試着室の、あの日と重なる。

 たった数週間前の話だ。それでもあの時はまだ、今より大分距離があった。今は違う。自分でも認めがたいほどベッタリな距離感になってしまった。そして自分でも恥ずかしくなってしまうくらい、そのことを受け入れてしまっている。


 そのことが、あの人は別種の緊張感を胸の中に掻き立ててきた。

 これは……まずい。


「その、連絡……頼んでいいか? 俺、持ってきてなくてさ……」


 俺たちの間を、静けさが通り抜けた。

 その中で橘の携帯が通知を鳴らす。彼女はそれを手にとった後に、何かに気づいてしまったのだろう。

 俺を見据えたその目が悪戯っぽく微笑んでいた。


「…………やだ」

「な、なにいってんだよ。あいつらを心配させたらどーすんだ。俺らがここにいるってだけでも伝えないと、変に大事になっちまう……」

「もうちょっとこのままがいーの。純も実はそう思ってるっしょ? 二人で、水着で、こんな場所で、ガチで二人っきりで……。はぁ……夢みたい」


 髪も肌も濡れた金髪女に、いつもの顔が戻ってきた。

 こいつはスマホをそのまま小汚い机に置いてしまった。やがて着信は鳴り止み、一歩一歩と窓辺に近づいてくる。

 彼女は目の前に立つと、丸めたパーカーで濡れた俺の肌を軽く拭ってきた。

 丁寧な手付きだ。やめろよ、と目で言うのだが聞いてはくれない。


「ふふっ……。ねえ、こうしないと寒くなってきちゃうよ? 二人で、ずぶ濡れになっちゃったもんね?」

「そ、そだな……」

「純、すごい緊張してる……。初めて会った時みたい…………童貞♪」


 こ、こいつ……。

 真面目にどうにしなきゃならんこの状況を、ここぞとばかりに楽しんでやがる。ここにいつものからかいモードが発動した。もうこいつを止められるものはなにもない。


「う、うっさい……。処女のくせに……」


 俺は言葉だけでどうにか抵抗するが、効果は今ひとつのようだ。

 赤まった橘の顔がどんどん愉快そうになっていく。白く柔らかい手が俺の肩にかかり、体重がかかってくる。

 唇が俺の横顔に近づいてくると、声で頬の表面を撫でてくるのだ。


「温めあわないと、風邪ひいちゃうし……」

「う……。ここまでせんでも……」

「純、さっきまで緊張してなかったのに。えへへ、これはまだダメなの?」

「ギ、ギブ。俺の負けでいいから……」

「やーだ。すでにちょっと寒いもん?」


 濡れた身体が重なり合い、素肌と素肌で体温を伝えあう。

 んふふ……と、吐息が耳元に当たってくる。橘が細い腕を背中まで回してきて、こすこすと優しく擦ってきた。


 おのれ孔明、もとい雨め……!

 東南の風を吹かせてきおってからに……!


 今までは服越しだから許せた接触も、直接とあれば俺の中では完全にアウトらしいよ。

 感覚器官の処理能力を超える事態に、身体の芯から熱がこもってきた。

 心中穏やかでないどころかもう完全に収集がつかず炎上してしまっているのだが、橘の追撃は止まらない。


「ねえ、純……?」

「……っ。そろそろ離れろ……」

「キミの一日彼女……ガチで楽しかったの」


 唇が……柔らかく。

 頬に当たって、そのまま押し付けられ、ちゅっ……と。離れてくれるまでに二秒もの時間を要した。もうね、ハゲそう。当たってから離れるまでの二秒だけで歳をとってしまいそうだ。


「えへへ……。ごめん、うっかり当たっちゃった……」

「ば、ばかぁ……。お前なあ……」

「ねえ、だから……さあ。小屋を出るまで……ね?」


 また、彼氏でいて……?


 甘さ、すっぱさ、ドキドキ、バクバク。

 何と何の感情の混ぜ合わせなのか分からなくなるほどに、胸の中が混沌として……止まらない。

 しかしこの混沌は心地よくもある。まるで身体の中を駆け巡る嵐のように、血の流れを騒がせてくれる。


 俺は橘の肩に手を置いた。

 彼女の耳がすぐそこにある。言葉を紡げば、すぐに届いてしまう距離にある。


「いいぞ……。この小屋をでるまで……な」


 この小屋は当分出られない。

 きっと俺たちは、その点では同じ気持ちだっただろう。

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