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第四十六話 ラブラブハグ友達

 建物の裏は暗かったが、たとえ月明かりしかないような夜でも橘かれんの姿は目立つ。

 今はぺったり身体に張り付いてしまうほどにピチピチな、白のTシャツ姿。見ているだけで、風呂上がりの熱気がそのまま伝わってきそうだ。


 そして哀れな根暗野郎は手首を引っ張られたかと思えば、銭湯を囲う塀に追いやられていた。出会った頃ならカツアゲ案件だ何だとビクついていたものだが、もうそういう対象としては見ていない。


 学校で一番、仲の良かった女子。

 今もちょっと気になる女の子。どれくらい気になってる?

 十日くらい連絡が途絶えた後に会えてドキドキが止まらないのは、一体、どれくらい気になっていると言えばいいんだ?


「ねえ、純……? なーに、あたしとまた会えて緊張しちゃってるの?」


 金髪女は普段通りにニヤついて、ささやくように言った。

 あっけないほどに普段通りの橘かれんが目の前にいる。夕方なんかは俺が目を合わせただけでナーバスそうに目を逸らしたってのに……まるで吹っ切れたみたいに。

 今はぐいぐいと距離を詰めてきやがるので、背中が壁に埋まりそうだ。


 そう、これだ。この、挑発的に笑った目元。

 忘れかけていたムズムズが蘇ってきた。


 でも、この状況は……。


「どうした、橘? 突然なあ……」

「キミこそどーしたの……? ずっとキョドって、だんまりになっちゃってさ……」

「だって、そりゃあ……。この前のアレが……」


 俺の声は緊張で途切れる。

 会えて嬉し過ぎて心臓が跳び上がっていたり。みんなの前で名指しで呼び出されて血が凍っていたり。

 この間のキスの感覚が蘇ってきて、じたばたしそうになったり。


 全てがごちゃまぜになった俺の内側が、読み取られたのだろう。

 橘はいつもの笑顔を崩して、申し訳なさそうに表情を曇らせた。どうやらやはり無理をしていたらしい。


「ごめん、ウソ……。ホントはね、ちゃんと謝りたくてさ……」


 少女はうつむいて、俺の袖を小さく引っ張った。そしてうつむいたままの頭が俺の胸にこつんと当たる。

 ちょっと前ならためらわず手を握ってきたのに。

 こんな風に、控え目に触ってくるのはいつ以来だろうか。距離が遠くなってしまった気がして俺の気持ちは沈んだ。


「謝るって、何を……」

「あたしのファーストキス……。純に押し付けちゃったの……っ。」

「橘……」


 …………本当は最初から知っていたんだ。もうずっと、俺は逃げてばっかりなんだってこと。


 俺がフラれたんだ。フラれたのは俺なんだ。

 そう思えば全てが都合が良かった。でも……違う。


『ちゅ……。純……っ』


 あの日の帰り道の、夜の公園。

 本当はあいつが強く押し付けてきたんだってこと、全部覚えてる。でも、その裏で淡くうごめいた想いを受け止めきれなくて。一緒にいればいるほど、情けない奴なんだってことが知れてしまいそうで。裏切られるんじゃないかって。


 俺は、怖かった。


「ぐす……っ」


 橘が胸の上で頭を震わせた。必死に涙をこらえている。


「純……っ。ごめんなさいっ。あたしのこと、嫌いにならないで……。うっ……」


 あたしのこと、嫌いにならないで。

 そんな直球すぎる想いがどれだけ胸を打つだろうか。俺の足は小刻みにわななき、手は居場所を見つけられずに宙を浮いていた。


 もう良いおもちゃでは、いられない。

 もうおちょくらせて、ただ遊ばせてあげるわけじゃない。

 けど同時に、こいつから感じるこの痺れるような感情、俺が大事にしてあげなきゃ。ただ……向き合ってあげなきゃ。どれだけ時間がかかっても。


 仲の良い女子。

 気になりすぎて、夢にすら出てきてしまう女の子。

 多分きっと……この俺の小さな世界では、一番大切な異性だ。


「ふふっ……」


 決意が俺の胸を穏やかにした。

 声は震えているけれど、俺はそのまま橘の肩に手を置いた。彼女が顔を重そうにあげてくると、とろんと濡れた瞳が不思議そうにこちらを見据えてくる。


「純……?」

「聞いたか? 俺、橘にフラれちまったんだってさ。ひでー話だよな……ははっ」

「そんなのウソ……。ウソだよ……!」

「心配しなくていい」

「へ……?」


 明日はきっと、賑やかになる。

 俺がこいつとどうなっているのか、とうとうみんなに知られてしまうかも。でも、どうしてだろう? そうなれば世界の終わりだろってくらいに、前は思っていたのに。


「その……。ファーストキスのこと、許してやるからさっ。今度の肝試しを一緒にだな……」

「ウソ、ほんとに……? ほらこれ、あたしのリボン……」

「ダメだ。渡す瞬間をクラスのみんなに見せなきゃ……」

「でも純、バレてもいーの……? あたしらの、ラブラブな感じ……」

「うぐ……っ。ラブラブっつーか、改めて言われると恥ずかしーっつーか、どうにも割り切れないっつーか、けどまあ、そんな感じ……」

「仲直り、してくれるの……?」

「……元々、別に怒っちゃいない。気まずかったけどさ…………嫌いになんてなってない」

「えへへ、純と仲直り……♪」


 少女にいつもの笑顔が戻ってきた。

 そして細い腕が絡みついてくると、未だに慣れない温もりがまたしてもやってきた。震えっぱなしの手で、俺も同じように華奢な背中に手を這わせる。


「仲直りハグ……♪」

「う……。その……仲直りハグ」

「ねえ……? あたしらって、なんなんだろーね……?」

「知らん……。ハグ友達……?」

「それ、いいね……。ラブラブハグ友達……」

「おい、なんでラブラブ付けたし……」


 薄着の……Tシャツとジャージ姿の橘。

 柔らかい身体から湿った熱が直に伝わってくる。背中を塀に押し付けられたままで、身体の緊張感だけが増幅していくが、もう仲直りしたのだから容赦はない。


「やっぱ、いい……。よすぎるよ、純…………」


 身体同士が擦れると、腹の底から舞い上がりそうな明るい感情がせり上がってくる。


 きっとこれは……嬉しさだ。

 橘に触れる度に感じていた、胸のムズムズの名前だ。あんまり嬉しすぎて耐えられそうにない。しかも俺なんかがこの感情を味わっても良いのだろうかと、後ろめたくも思ったりして。


「も、もうそろそろ……」

「だーめ。純もガマンしないでさ、もっとがっついてくればいーじゃん♪」

「息が切れそうなんだがっ。死んじまう……」

「じゃあ一緒にお墓まで付いてってあげる……」

「何だよっ、それ……」

「一人じゃ寂しいっしょ……?」


 俺のラブラブハグ友達が、いたずらっぽく歯を見せる。

 クラスのヒロインにフラれた哀れなガリ勉で遊ぶのが楽しいらしい。胸板の上で豊かな金髪を乱したかと思えば、挑むようなニヤけ顔で見上げてくる。


 しばらくすると左胸に耳を当て、頭の重みをかけてきた。

 まるで安心したかのように、ふーっと。寝息のような囁きが漏れてくる。気づけば俺の手は、大事そうに彼女の金髪に手ぐしをしていた。


「純のこと、クラスの王子様にしたげる……。キス奪っちゃったから、お詫びにね?」

 

 別に詫びなんてほしくない。

 許してやるなんて言ったのも方便だ。気にすることもないのに……。


「橘を狙ってる男子、多いらしいぞ。きっと明日、みんな良い所を見せようとしてくる」

「しらないしー。このリボン、みんなの前で純に結んであげる……」

「やおちょーだな、ふん……。とんだ茶番だ……」

「ねえ? ハグ、気持ちいい……」

「その、俺も…………いや」


 橘とハグするの、好きだ。

 それを言うのはまだ早い。もう少しだろうが、まだ。

 こいつに対する、俺の想い。もっと整理しなきゃ。もったいぶらず、みんなの前で、しっかり言葉にできるように。


 風呂上がりの夜だっていうのに、背中が汗でびっしょり濡らされていた。


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