第四十四話 リボン取りゲーム
……。
…………。
あああああああ。ブラジルにしとくべきだったああああああ。
これがレイプ目から見据える世界ってやつなのだろうか。
頭の中が茹で上がり、視界も焦点が定まってくれない。
ともかく状況がカオスになって直後、俺は厨房の奥で必死に盛り付けをしていた。
カレーが一杯、カレーが二杯、カレーが三杯……。このカレーを盛り終わる頃には、きっと俺も死んでしまうのだろう。短いながら恵まれた人生だった。最期を前に妹と叔母に会っておきたかったが、今ではそれも叶うまい。
なんたってあのドアを1つ隔てた先の食堂には、見知った顔の奴らがうじゃうじゃいやがるのだから。このカレーを盛り終わってはならないのだ。この部屋から出たら頭がおかしくなって死ぬ。
何せ敵のリア充勢は25人の大軍。
今日からこの民宿の部屋という部屋を独占するらしい。
そして我らがぼっち勢は、小松君を頭数に含めるなら2名の寡兵でしかない。
まるでペルシアを迎え撃つスパルタ軍。なんというスリーハンドレッド。いやいや、これじゃただのトゥーだ。トゥーだよ、トゥー。俺にどうしろってんだよ。夜逃げは桶狭間に入りますか? いや、むしろこのケースは本能寺か……。
すぐそこに橘がいる。橘が、あいつが……。
かれんが……。俺は……。
「よっ、少年!」
「ひぃっ……!」
背中をぽんと叩かれて、俺はオーバーリアクション気味に身体ビクつかせた。
眼の前には長いポニーテールの赤毛。俺の雇い主。
「なーにやってんの、純? 盛り付けなんてウチのがやっとくから、あんたもそこに混じってきなよ」
「あくまで客じゃなくて、お手伝いとしてここに来てますからっ」
「はあ? 弟も向こうなんけど。みんな、一条はどこだーってさ」
「別に、俺は……」
俺が目を逸らしたのに気づいたのだろう。
凛々花さんは訝しげに目を細めて、俺の腕をひっつかんだ。
「何があったのか知らんけどさ、会わなきゃどうしようもないんだし」
「う、うわぁ! 何を……っ」
想像つくだろうか?
見ず知らずの奴らばかりだったこの民宿は、今やみんながみんな見知った奴という有様だった。
俺を知る奴が居ない場所へ行かなきゃって思っていたのに。それが一瞬にしてパーだ。
引っ張られて食堂に入るやいなや、長テーブルが並んだ室内は静かにざわつき始めた。
「あ、一条だ……」
「橘さんに告ったんだって」
「えー! あいつがー? 意外……」
「え、じゃあ橘ってフリーなの? 狙わなきゃじゃん」
……この噂はどういう経路で流れた?
そもそもフラれたのは事実だったか? 俺の記憶があやふやだから確かなことは言えないが、少なくとも橘から何かを言われたわけじゃない。今になって自信がなくなってきたぞ。橘が言いふらしたのか? そんなことをするような奴だったか?
なら他に、誰が、どういう意図で……?
俺は目立たないように身を屈めながら行くと小松君の隣に座った。
まるでいつもの昼休みのような、がやがやした空気感。しかし場所はバスで二時間ほど離れた田舎町だ。それが未だに信じられない。
「一条君。な、なんか大変なことになってるね?」
「大変なのはお互い様だっての。突然こんなにこられりゃあな……俺も小松君に同情する」
「そうでもないよ。友達……いっぱいできそうじゃん?」
俺は“そんなこと言ってる場合じゃねーよ”というつぶやきを飲み込んだ。他人に言っても仕方ない。小松君に言ってどうなる? ただでさえ特大サイズな恥が二倍になるだけだ。
この部屋に橘がいる。
もうずっと会ってない。いや、本当にずっとか? よく考えれば、会ってないと言ってもただの二週間ぼっちでしかない。過剰反応過ぎるぞ、俺も。
あ…………あいつだ。二列だけ向こうにいる。う、今、目が合った!
“あ、純……! ねえ、純……?”
“……っ”
とっさに目を逸らしたが、これが明らかによくなかった。
直後に俺は、橘のしょんぼりとした顔を見ることになったからだ。赤くなった頬に、神経質そうに髪をいじりながら。
そんな顔、見たくなかった。
いっつもニヤニヤしていて、挨拶代わりにいじってくるくせに……。
俺は……何ができる? 本当に、もう元に戻れないのか?
戻れるなら何でもする。やっと分かったんだ。やっぱあいつ、大事な人だ。多分絶対、学校で一番大事な人なんだ。
「よう、一条?」
「ん? ……ああ、中村、お前も来てたのか」
「色々聞いたぜ。その……橘とのこと。ホントなの? 信じられなくてさ」
中村蓮斗。
このオタク少年とも色々あったが、もう俺には普通に話してくるらしい。彼はまるで俺に気遣っているかのように、声のトーンを落として言ったのだ。
「遠足の前、二人で居たよな。橘さんと。まだ覚えててさ」
「あれだろ、買い出しで一緒だっただけだっ」
「そうかな? 純って呼ばれてた。仲良かったんじゃないのか?」
「あん時は、お前がウザ絡みしてきてたろ。それを見た橘が、あいつなりに気を使って、そう思わせたかっただけだ」
「まさか……本当なの? フラれたって……」
「少なくとも、告ってなんかいないけど……。ふんっ……」
「一条、なんか隠してるし……。友達だろ、教えてくれてもいーじゃん……」
そこで小松君が横から口を挟んだ。
「他の男子たち。橘さんの方とか、ちらちら見てるよ……。盛り上がってるみたい」
そして彼が嗅ぎ取った“盛り上がり”とやらは、まさにその通りだった。
氷堂が立ち上がり食器をカンカンと鳴らすと次第に静まり返った。彼女がテンション低めな声をどうにか絞り出し、辺りに響き渡る。
「はいはい、ちゅーもーく! みんな聞いてるー?」
チャラい歓声を上げるクラスメートたち。
食堂どころか、この建物自体が俺らで独占している。どれだけうるさくしようが、向こうで腕を組みながら見ている凛々花さんは微笑ましげな顔を崩さない。
「今日はさ、臨時のクラス会なんかに集まってくれてあんがとね。こんなに集まるとは思わなかったってゆーか、ウチとしても意外なんだケドさ……。まずは言ってた通り、ルールの説明しなきゃね。ウチらなりに考えてきましたー! はい、拍手ちょーだい」
拍手の跡で、室内のざわつきが明るく大きくなった。
ルール? 言ってた通りって、何のルールだ? 氷堂は赤いリボンを取り出すと、その一点にクラス中の注目が集まった。
「ルールは簡単でーす! えっと、ほら、あれよ……このリボンを女子全員に配るから、最終日の夜までに男子を一人選んで渡してあげてくださーい。最終日の肝試しに参加できるのはマッチングできた仲良しペアだけだから、男子はアピールしてねー。以上なんですケド、質問ある人いるー?」
こ、こいつは何を言っているんだ……?
しかし大体クラスも了承済みらしく、ただボルテージが上がっていくだけだ。カレーはすっかり冷め始めた。
「はい、はーい!」
飯塚がバカっぽく声を張り上げる。
「女子は絶対、リボン渡さなきゃいけないんですかー?」
「いんや? だからもし最後まで選ばれなかったら、肝試しから帰ってくるカップルを眺めて、嫉妬するだけですねー。ついでに言うと、男子もリボンを受け取りたくないなら断ってもだいじょーぶでーす」
荻野が脚を組んで、ふわりと手を挙げると、
「アピールって、俺ら最終日までに何すんの……?」
「それは秘密……♪ みんなでゲームをするとだけ」
しかし、なるほど……。橘がフリー、か。
どうりでみんな、にわかに盛り上がるわけだ。
橘が他の奴にリボンを渡して、暗い森で二人っきりで……。
バカかよ! 考えただけで胸の中がムカムカしやがる。女々しいな、こんちくしょう……!
「ま、そーゆーわけなので。みんな頑張ってよね……?」
まだ起こってもいないことで嫉妬している。
そんな自分に嫌気がさしつつ、口の中にカレーを押し込んだのだ。