第四十二話 ムショ労役
「……怜! 純も! さ、起きな」
未だ聞き慣れない声が、俺と、そして横で寝ている相方の名前を呼ぶ。
若い大人の女性のハスキーボイス。呼び方こそぞんざいだが、いくぶん親しみが混じった声色でもあった。昨日会ったばかりなんだけどな。
朝の五時半、畳の部屋。
空いた窓の隙間から海風が香ってきた。
朝の空気の向こうに、波の音も聞こえてくる。静かだが、確かに、ざあざあと。夏を感じずにはいられないが、変な気分だ。俺にとって夏休みとは、一日中ぶっ通しのゲームとか漫画とか、いつもそんなんばっかりだったから。
今はそれが、訳あって様変わりしていた。
昨日の疲れと暑さが、背中にじんわりと……。
「ほら、二度は言わないよ。仕事、今日もたくさんあるんだからねっ」
「ん……。はい、今すぐ……」
「よし。怜も、叩き起こしてやって?」
「はい」
家を離れて二日目。俺は体を起こした。
今日も働いて、働いて、ぐっすり寝なければならない。
幸い、この海沿いの民宿『ひいらぎ荘』に暇な時間などは一切ないようだ。
晩飯にうまい海産物が出ることを除けばタダ働きも同然だが、それで構わない。今の俺に必要なのは働くことと、そして忘れることだけだから。
朝のお勤めはまず海水浴場のゴミ拾いから始まる。
トングとビニール袋を持って、数年ぶりの海辺をひたすら歩いた。朝一番とあって人影はまばらだ。波と風の音だけが穏やかに響いている。
だが長く待たずして、この辺りも賑やかになり始めるだろう。
なんたって夏で、しかも海だ。リア充ガチパリピ勢が退去して押し寄せてくるのを、昨日少しだけ、人生で初めて目にした。動物園でも行ってる気分だったよ。
奴らの落としたゴミを掃除する俺らは、さしずめ非リア勢ってところだろうか。
ちょっとしたムショ労役気分で新鮮だ。
……はてさて、しっかし、ムショか。
俺が何の罪を犯したっていうんだか?
でもこれが不思議と、勤労意欲が湧いてくる。頑張れば頑張るほど、自分でもよく分かっていない何らかの罪から解放される気がしたのだ。
「一条君……! 待ってよ、早い早い!」
足を止める。
後ろを振り返ると、相方の少年・小松怜が駆け足でやってきた。運動不足なのはお互い様のようだ。
「はぁ……はぁ……。昨日からめっちゃ頑張ってるね、一条君……」
「む、そう見えるか……?」
「姉さんも有難がってた。あいつ、妙に根性あるってさ」
このぼっち同業者たるクラスメートが、またしても俺を救ってくれた。
いっそのこと地球の裏側にでも逃げたいと思っていたところを、『姉さんの民宿、人手が足りないんだ』と言って連絡を寄越してきたのだ。それで二つ返事で来た、というわけだ。
流石にブラジル旅行とはいかなかったが、ここだってバスで二時間程度はかかる。胸にぽっかり空けられた穴をごまかすには必要最低限の距離だろう。
だって、ここなら誰にも見つからない……そうじゃないか?
まあ、海で働くということで叔母の喜ぶ顔も見られたし。ぼっちに戻りそうなことを考えると、小松君に恩を売っておくのも悪くないし。一石二鳥だ。
「来てくれるとは思わなかった。完全にダメ元だったのにさ」
「クラスの他の奴らも誘ったのか?」
「いや? 一条君くらいしか、まともに話したことないもん」
「そっか、そりゃよかった。まだゴミはたくさんある、行こう」
「う、うん……」
俺たちは働き続けた。
仕事が地味であればあるほど、汗だくになればなるほど、胸のもやもやした空虚感をごまかせた。ただ、あくまでごまかすだけだ。どうせ仕事が終わればまた思い出してしまう。
あいつの可愛すぎる、笑った顔も……。
切なさとして、まだ胸の奥にのっそりと残っていて……。
「純、ぼうっとすんなっ! 洗い物、まだまだあるんだから!」
暑い厨房の中、小松君の姉・凛々花さんが声を張り上げる。
デニムのホットパンツから日焼けした長い脚を晒しているが、調理中なのでその上にエプロンを付けて、長い赤髪はポニーテールにまとめている。
まだ二十代半ばくらいに見えるが、親からこの民宿を継いだらしい。
強気そうな吊り目で他の従業員にも激を飛ばしている。小松君の姉と言われてどんな人かと思ったが、えらく間逆だ。
「ピークはこれからなんだからさ。シャキッとしなよ」
「は、はい……!」
「ご褒美、たんまり用意してっからさ。ね?」
ここは軽食堂もあって海も近いから、日中は海の家に様変わりだ。
宿泊客以外にも開けているので忙しい。というか、近くに小奇麗なホテルがあって宿泊客はそこに取られている。稼ぎのほとんどは飲み食いから来るらしい。
昼はこんな調子なので、実は海に出ることは少ない。
パリピ勢のキャピキャピした空気に晒されることは多くなく、仕事が一段落する頃には夕方になっている。
とはいえ、仕事はこれでは終わらない。
何せ凛々花さんの言う“ご褒美”ですら、俺に言わせれば重労働そのものだったからだ。たんまりという宣言に偽りなく、食卓には刺し身なり何なりが並んでいるが……。
「はぁ……。つくづく、あんたらも物好きだよねえ? 今、夏休みだよ? こんなトコで、なーに油売ってんのさ?」
小松君の姉はにへら~と笑って、焼酎をまた一杯飲み干した。
食い始めて三十分くらいなのだが、既にもう酒臭い。凛々しい顔も真っ赤だ。ちなみにこの時間、昨日もあった。このボランティアの恒例行事じゃなかろうな……。
「もうっ、姉さんが呼んだんじゃないか!」
「ははっ、違いない。でさあ……一条は好きな子とか、いないの?」
「……っ。別に……」
「お、いる顔……♪ はぁ……。あんたら高二だよ? ここは海に近いんだし、女も男もそこら辺に落ちてんだから。いないならいないで、拾ってきなよ?」
「んな、貝拾ってくるみたいな言い方……」
「どーせ、部屋なんて腐るほど空いてんだし……ねえ? ほら、あんたらも一杯」
「姉さん、止めてよ……っ」
「いーじゃんいーじゃん。怜も純も、もう十七なんでしょ? ほらほらっ」
「俺は飲みませんよ、絶対」
「ちぇっ、真面目君だなあ……。もっとノリの良い子が来れば楽しいのに。あーあ。あたし、可愛い女の子と話したいー」
「姉さん、一条君がいるんだから勘弁して……」
こんなんだが、気楽ではあった。
こいつら二人共、俺の置かれている状況を知らない。
叔母や妹にすら、フラれたということを勘付かれているんだ。そのことを思えば、こき使われることがどれだけ幸せか。
まだ二日目に過ぎないというのに、この状況を気に入り始めていた。
働いて、働いて、与太話に付き合わされた後は、ただ寝るだけだ。
「あはは……。姉さんのこと、ごめんね……?」
「やたらおおらかな人だな」
夜の十一時半。規則正しい生活。
俺は疲れた身体を奮い立たせ、ぱっぱと布団を敷き終える。
早く寝たい。悩んでいようが、こんだけ疲れてればすんなり眠れる。後は小松君が準備するのを待つだけだが……。
「ねえ……? なんかさ、夏休みっぽいね?」
「は、はあ? どこが?」
そばかすがぽつぽつ見える童顔の少年は、はにかんだように笑った。
「友達と一緒にお泊りとかさ。なんか、ちょっと楽しい……かも」
「……基本、働いてただけだ」
「それでもさ。一条君は、ぼっちが嫌じゃなかったの?」
ぼっちが嫌……? 考えたこともなかったが。
「嫌……だったのか?」
「分かんない……けど。ぼっちじゃなくなるとさ、もう戻りたくないって思えてきたっていうか。もっとみんなと仲良くなれればって。無理……かな?」
頭を動かそうとして、尻がすとんと布団に堕ちた。
小松君はそれを見て、「はははっ、ごめんごめん」と笑みをこぼす。
「ふわぁ…………。何にせよ、みんなと仲良くなりたいならここに居るべきじゃないな。夏休みなんだし、休もうぜ」
「うん……。あ、そうだ!」
「ん……?」
小松君は何やら後ろでがさごそとやって、スマホを取り出してくる。
そうして見せてきたのは、クラスメートとのメッセ記録だ。
「何……?」
「氷堂さんがね、一条が一緒じゃないかって聞いてきてさ。スマホに連絡、来てないの?」
「うるさいから切った」
「もう……。スマホは鳴るのが仕事じゃん。何かあったの?」
「さてなあ……。どうしてだろうな……」
何かあったかって? 氷堂とはなにもないはず。なぜ氷堂なんだ?
考えるほど、冷たいものが背筋をぞっと走った。俺がここにいることを知っているのは、クラスメートでは小松君だけのはずだ。
「ともかく、一条は一緒じゃない。そういうことにしといてくれると助かる」
夜の空気の向こうでも、海はほのかに鳴き続けていた。
今日も寝苦しくなりそうだ。
書籍版の発売まで一週間を切りましたね…!
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