第三十九話 溶ける
時々、ひょっとして何もかもが嘘なんじゃないかって思うことがある。
見慣れた家族の顔も、面白くてたまらないはずの漫画やゲームも、顔も名前も覚え切れない学校の連中も、本当は全部が夢の欠片で……目が覚めれば嘘の自分じゃない、本当の誰かに戻っている。そんな風に思うことがある。
多分、夢と区別がつかぬほど、生きるってこと自体がどうしようもなくぼんやりしているからだろう。
でも、誰だってそうじゃないのか?
大体の奴が毎日毎日、どうせ同じ道を行って来たりするだけだ。
勉強だろうが仕事だろうが、そんなに代わり映えするってわけじゃない。
だから同じような日を繰り返すほど、目に見える景色の境界が曖昧になっていく。何となく時間を潰していると、どこか実感がふわふわしてしまって、ぼー……っと。
流行りのゲームで遊ぶのは、俺じゃなくていい。
変に勉強を頑張ってしまうのも、俺じゃなくていい。
みんなと同じ制服で同じ道をとぼとぼ歩くのだって、俺でなきゃいけないわけじゃない。
俺は俺じゃなくても、別にいい。
俺は他の誰かでも、替えがきく。
でもきっと、みんながみんな、そうなんだ。
理由もなく生かされているから生きているってだけで、つまらなくて当然。
それは良いことでもなければ、悪いことでもない。
誰だって何者でもない。俺だって何者でもなかった。
そうやって、頑張って納得して生きていたはずなのに……。
『……っ。ちゅ……っ』
あの一瞬だけ。いや、もっと長い間だっただろうか?
それは確かに、キスだった。
三日経っても、俺はまだ嘘なんじゃないかって疑っているけれど。
しかしその感触は、今なお身体に深く刺さって抜けない。こうして唇に手をやれば思い出してしまう。柔らかくて気持ちいい、あいつの唇……。
でも、そんなの嘘だ。そうに決まってる。
あの日はほら、こっちも調子に乗り過ぎていただろ。
俺は俺じゃなくて、完全に別人だった。絶対にそうだ。
手をつなぐだけでもどうかしてるってのに、腕を絡めたり、水着のあいつとベタベタしたりして……ああ、やばいぞ。ちょっと思い出しただけでものたうち回りそうだ。
あいつが可愛すぎて、仲良くしてくれるのが嬉しくて、彼氏なんだからって調子に乗って、だから俺もあんなに積極的になって……やっぱり。別人に決まっている。
……しかし、あの日のことは言い逃れできない理由があった。
『ちゅ……。純……っ』
橘が……いや、かれんが。
一日中、あんなに近くで、純って名前を何度も呼んでくれたのだ。
俺は確かに、あの瞬間、あいつの隣にいた。他の誰でもなかった。
そして他の誰でもなく、俺は俺でなくてはならなかった。そんなに何度もご指名を受ければ、他人と取って代わることはできない。
「でも、そんなはずないだろ……!」
一条純が、キスをした。
一条純が、橘かれんとキスをした。
一条純が…………求められた。
いずれにしたってありえない話だ。
明らかに、俺はあいつに値しない。
ずっと友達のいないガリ勉野郎だった。誰に見向きもされない日陰者の男子生徒だった。すっかり冷め切っていて、楽しいことも嬉しいことも、何なら自分が自分であり続けるってことすら……何もかも諦めていたのに。
キスって、何だ? どう解釈すればいい?
キスって、そういう相手とするものじゃないのか……?
終わった後、あいつ、申し訳無さそうな顔してた。小さく謝ってきた。その後、走って帰っていった。俺は何も言えず、立ち尽くすほかなかった。
こんなに悩むのは初めてだ。
俺はすっかり女々しくなった。こんな自分、大嫌いだ。
いっそ一条純なんて今すぐ辞めて、他の誰かにすり替わって欲しい。
……。…………。
「兄貴……。もしかして、フラれちゃったのかな……?」
「欅ちゃん、しぃーっ! うぅ……でも、残念ね。純君ったら、あんなに携帯ばっかり見てたのにねえ」
「……うん、そっとしとく…………。何か、流石にかわいそうかも……」
「しばらくは、それがいいわね……」
閉じたドアの辺りから、家族の声がしていた。
……フラれた? 俺が?
いや、ひょっとすると本当にそうかもしれない。実際のところ、毎日欠かさず来ていたあいつからの連絡は、あの日に別れてからはさっぱりだ。
…………嫌われてしまっただろうか?
あんなに近くで、名前を囁き合ったのに? キスまでされたのに?
いや……あのキス、そもそも始めたのはどっちだっただろう?
胸の中の混沌が細かい記憶をぐちゃぐちゃにして、何も思い出せそうにないのだった。
こうなると三日前の思い出も信用ならない。自分自身をストレスから救うために、都合よく塗り替えられてしまっているのだろう。
……ひょっとして、俺のほうが我慢できなくてキスしてしまったのか?
ふん、あり得るな。あんなに可愛い子が受け入れてくれて、俺も調子に乗ってたし……きっとそうだ。いくら橘でも、キスなんてしてくるはずがない。俺がバカをやらかしただけなんだ。
でももしそうなら、あいつはあの時、どう思っていたのだろう?
やっぱり、嫌だったのだろうか?
まあそんなの、嫌われて当然だよな……。全部俺のせいだ……。
時間と共に混乱が深まり、頭のネジが高温で溶けていく。
俺……もうダメかもしれない。あの日はあんなに楽しかったのに……今はもう、何もする気が起きないんだ。自分の記憶すら確かじゃない。
きっと連絡すべきなのだろう。
でも、今かれんの声を聞けば正気でいられない。顔だって合わせられる気がしない。もう既に嫌われていたらと思うと、短いメッセージにすら殺されかねない。あんなにうるさかったスマホも、今ではすっかり静かになった。
ともかく一日彼氏を辞めてから一週間、ぽっかり穴が空いたような日々が続いた。
「ほら兄貴、まーたミスった」
「ふん……。最近、めっきりコントローラーを触ってなかったからなっ」
「はいはい、言い訳言い訳。夏休みで時間あり余ってんだからさー、ちったあ修行に付き合ってあげるよ?」
「……次は負けねーし」
「はん、言ってろ言ってろ♪ んじゃ、もっかいね!」
普段の日常に引き戻そうとしてくれる家族に、すんなり乗せられる。
こういう“いつも通り”が、憂鬱に沈んだ俺を甘やかしてくれた。
「ほらほら、純君もあれね! お祭りの設営とか、海外ボランティアとか? 夏休み限定の出会えるイベント、意外とたくさんあるんだから!」
「はははっ、俺はタダ働きなんて絶対しませんからね。まあ、叔母さんのアシスタントなら別ですけど」
「もう、消極的なんだからぁ。もちろん、休みなんだからのんびりするのも良いけど。時間、ぼーっとしてたらあっという間なんだから考えとくだけでも……ね? お金なら、私がどうにかするわっ」
「はいはい、考えとくだけなら……」
俺にとって夏休みって、何だっただろう?
それはいつだって、中古で全巻揃えた漫画や小説の山であり、ゲーム機の起動音であり、ブルーライトによる目の疲れだった。それは朝寝坊であり、同時に昼寝であり、巡り巡っては夜更かしでもあった。昔からそんなだった。夏休みなんて家の中がデフォ。
橘とみんなで、海で遊ぶ夏休み。
橘と二人っきりで、花火を見る夏休み。
そんな素敵な未来もあり得たのだろうか? そう考えると胸が苦しくなる。
やっと分かった。橘と一緒にいるの、すげー楽しかったんだ。
毎日毎日イジってくるのを、こんなに愛しく感じる時が来るなんて。
また頬を指でツンツン突かれたい。
むすっとした顔の童貞ガリ勉野郎で、気が済むまで遊ばせてやりたい。
もう謝らせたくない。
あいつの求めるもの、全部あげたい。
声が聞きたい。また触れたい。笑ってるところ、近くで見たい。
また、名前で呼ばれたい。
毎日一緒に居たい。
だからスマホに手を伸ばすけれど……いつも寸前で指が止まる。
俺は夏休みの半分近く、そうやって檻の中、たった独りでもがいていたのだ。




