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第三話 ムカつく

 結局その日の放課後も橘は来た。

 いや正確には来ていた、と言うべきだろうか。ホームルームが終わるや教室を出た俺よりも、どういうわけだか一足早くそこにいたのは彼女の方だった。


 図書室を入って少し進んだ先の、いつもの窓際の席。

 クラスではあれだけ快活な女子がそこで静かに本を読んでいた。


 それも椅子ではなく、机の上に行儀悪く座って。

 くすんだ白色の日差しに当たりながら。

 時々つまらなさそうに、窓の方を向いたりして。

 真面目なんだかダルいんだか分からないような顔で教科書を眺めている。


 しっかしこれがまあ、埃っぽくて真面目なこの部屋には似合わなさ過ぎる女子生徒なんだが――それが却ってアンニュイで――変に幻想的な光景だった。


 近づいた俺に気づいたのだろうか、彼女はジトッとした目をこっちに向ける。


 ――そして、開口一番がこれだった。


「……ムカつく」

 

 ……おっと? 俺なんかしたっけ?

 いやいや、何もしてないぞ。何なら常日頃から何もしていない自信がある。


 心当たりがなさ過ぎて身の潔白を確信しきっていた俺は、ともかく気にせず隣の席に行って鞄から勉強道具を適当にばら撒いた。


 何にせよここに来ているということは今日も勉強しに来たんだろうし、手早く終わらせるに限るだろう。それにしても、俺も俺で断れない性格が災いしたように思う。我ながら情けないったらない。数日前に初めて宿題を見てくれと言われてから今日まで、なし崩しじゃんか。


 ……まあ、そこまで嫌じゃないんだけどさ…………。

 どうせ一人でもここに来てるしな……。


 ――って。


「ねぇってば!」


 と、俺の制服の袖をくいっと引っ張ってくる橘。

 金髪女の大きな瞳が何かを訴えてきている。

 一瞬その色白な顔がぐっと近くなり、花のような甘い香りが鼻孔をくすぐった。


 俺は……ごくりと息を飲む。喉の中で空気が詰まりそうだった。


「な、何だよ……?」

「ムカつくの。マジで」

「それって、『どうしてムカつくのか早く聞けよこの童貞野郎』って意味か……?」

「別にそこまで言わないし……バカ童貞うんち野郎くらいにしといてやるし…………」

「それは大いに罵倒してんじゃねーか! つーか小学生かよ!」


 冗談じゃない、ガリ勉ぼっちのクソ野郎にその手の世間話は管轄外だ。

 毎日勉強を見てやってるだけでも調子狂いっ放しだってのに。


「あのなあ。愚痴るにしても、もっとマシな相手がいんだろ。お前、友達多いんだし」

「は? そんなんじゃないし。あたしじゃなくてガリ勉……キミのこと」

「何? 俺のこと?」

「今日の言われよう! 昼休みのさ」

「ああ、そういえば……」


 あの、教室の後ろで携帯ゲームに興じていた一団のことか。

 確かに陰湿なやつだったなあ、あれは。大きい声だったし確かに俺には聞こえていたが、それ以上に賑やかだった橘のグループにも聞こえているというのは相当だ。

 ということは教室にいた全員に聞こえる状況だったわけで……。


「何あれ、ほとんどイジメじゃん。ほんっとムカついた。教室でヘラヘラ笑ってんの、マジで苦痛だったんだから! 何か言ってやろうと思った……」

「思いとどまってくれて助かった。ややこしくなるし、止めとけ」


 橘はムキになったように袖を握る手を強くした。


 軽く振り払おうとすると睨まれたぞ。

 これがメンチってやつか? 俺、今ギャルにメンチ切られてんのか……?

 顔が整っている分だけ眼力が半端ない。というかお前、結局誰に怒ってんだよ……。


「……っ。実害ないしどうでもいいだろ、あんなの」

「ガリ勉は良くてもあたしはダメなのっ! マジで意味分かんない……」


 そもそも、何で俺じゃなくてお前がムカついてんだよ。

 マジで意味分かんないのはそこだっての。


「ずっと独りでいて、嫌じゃないの? しかも、ちょっとウザがられてさ」


 ……嫌、か? そりゃ嫌だけど、そこまで単純な話でもないような。

 俺はこうなって相当長いが、橘は完全に真逆のタイプだろう。

 そうだなあ……どう説明すれば分かってもらえるだろうか。


 ぼっちであることは自分の家を持つようなものだ。

 独りでいることに慣れすぎると、むしろ心地よくなったりするもので。

 そして嫌われている限りは独りでいるしかないわけで、それは見ようによっては安心だ。これから先も孤独だと保証されているようなものだからだ。

 なので、単純に嫌だという話にはならなかったりする。


 酷くなると、時にそれ自体が逃げ道にすらなったりするから恐ろしい。

 どうせ仲良くしてくれる奴が現れたとして……そういうのに慣れない奴は、心底戸惑ってキョドるのがオチだ。

 そいつにも嫌われたらと思うと、いっそ最初からぼっちでもいいじゃないか――って。


 いや……そうじゃないだろ、一条純。

 お前はこいつにそれを説明して、自分のことを分かって欲しいとでも思ってるのか?

 はぁ……止めだ止めだ。こんなのドン引きものだ。


 なんだか、自分で考えてて頭がぐるぐるしちゃったよ。

 ぼっちというのは自分からは喋らないくせに心の中だけはうるさいから困りものだ。自意識が軽く三つくらいあって、常に脳内議会を開いているからマジで手に負えないことが多々ある。


 これから勉強教えようってのに散々だ、まったく……


「別に……嫌ってほどじゃないよ。中には他人にどう思われても気にしないって奴もいるもんだ。でもなきゃ、昼休みに勉強なんかしないっての」

「悲しいし、そんなの…………クラスは全部どうでもいいの?」

「別に、そうじゃないけど……」

「とにかくあたしは嫌だかんね、ガリ勉が嫌われんの! いい人なのに。優しいし」

「つーか止めろよこの話、痒くなんだよ! お前なあ、勉強しに来たんだろーが。さっさと問題集出せ。今日も分からないところがあって来たんじゃないのか」


 橘は明らかに納得していない風にため息をついたが、やっと袖から手を離してくれた。


 とはいえこんなやり取りの後でも、今日の勉強はつつがなく進んだ。

 教えるのに慣れてきたというのもあるが、橘の真剣度がそれなりに高かったのが大きい。


 最初は簡単な宿題を頼まれただけだったのだが今は、


「ええっと……過去の話だし、こっちは過去形?」

「違う、そこは原型。前の動詞をよく見て――adviseとかrecommendとか、人に薦める動詞に続くthat節の中は、原型になることがあるんだ」

「え~、知らないってそんなん! ズルじゃんよー」

「俺に言うな、管轄外だ。言葉作った連中に文句言いにイギリス旅行でもするか、諦めてしっかり覚えるか、二つに一つだ」

「童貞のくせに鬼教官……」

「うっせー、ビッチの根性見せてみろっての」

「はははっ、何よそれ……」


 今は、教えを請われる問題のレベルが上がりつつあった。

 範囲で言えば明らかに次の中間試験を意識したような内容だけど……まだ一ヶ月も先のことだぞ。ははん、さてはお前もガリ勉だな。


 けど、クラスでぶいぶい言わせてるギャルが放課後だけは真面目に勉強?

 どんなサイコ女だ。ほら、昔から良い子は学校が終わったら外で遊べって言うだろ。カラオケでも行っとけ。


 もちろん、そうは言えない。

 ただここまで来ると橘にも何らかの事情があるのは明らかで……だが俺はというと、何も聞き出せないでいた。別に友達ってわけでもないしな。


 そうする代わりに、何となく勝手に下らない想像をしていた。

 ほら……実は医者を目指していて、遊んでいる陰で猛勉強してます的な。

 将来は金髪の美人外科医、人呼んでドクター・ビッチ。カルテをふわふわしたJK語で書くのは止めて頂きたい。


 とまあ……謎は深まるばかりだった。

 最近こいつとは結構話している気がするが結局何も知らないままだ。


 俺たちが言葉を一つでも交わすのは、一日の中でもこの時間だけだった。


 教室で話すことはまずない。

 体育館でもグラウンドでも、家庭科実習でもそうだ。

 通学路だって丸っきり別。


 しかし俺は、それくらいが心地良い気がしたのだ。


 ――橘のリクエストは結構多く、全て捌き切る頃には日も沈みかけだった。

 なので全て終わる時には部屋に差し込む光の色もオレンジに変わり、やはりその頃には受付のおばさんはドロンしたのか少しの跡形もない。なんであんたはいつもそうなんだ。


 そろそろ帰ろうと支度していた時、橘は(やわ)い手で俺の尻をぽんと小突いてきた。

 不覚だった……警戒を怠った俺は、にゅっとした感触にギクッとして振り返る。


“何すんだよ、ビッチ?”――俺は目だけでそう言うと、


「ねぇ……さっき、他人にどう思われても気にしないって言ったじゃん?」

「まあ言った、かな」

「それってさ。逆にみんなに好かれても気にしないってことで、いいんだよね……?」


 はぁ……? そんな顔を返してしてしまった。

 一層それがおかしかったのか、少女の笑みは悪巧みっぽくニヤリと広がる。


「何がそんなに可笑しいんだよ」

「にししっ……別に何でもないし。ガリ勉が実は素直になれないツンデレ童貞さんだって知れたら、きっとみんなが好きになるかなー、なんて思って」

「俺がいつデレたよ……」

「ははっ、そう照れんなって。どうせこれからデレデレになるの、あたし知ってんだぞー」


 と、ヘラヘラしながら何度も肩をぽんぽん叩いてくる橘。くそうぜぇ……


「知るか。言っとけ。じゃあな……」

「あ、待ってよ~!」


 まるで冗談みたいな時間だった。

 いや、本当に嘘か何かなのかもしれない。実際いつ途切れてもおかしくなかった。明日は金曜だし、もしやそれっきり来週は来ないかもしれない。


 ただ男ならこんなのは無条件で胸がムズムズするもので――――そういうのを頑張って忘れるまで、家に帰った後も結構な時間と落ち着きを要したものだ。

 まあ深く考えるなよ、そう自分自身に言い聞かせながら。

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