第三十七話 一日XX④
「ほらー、やっぱり向こうにいるの……かれんじゃね?」
店の入口の方に、クラスメートと思しき連中が見える。
近くの柱が影になってくれているのが幸いだが、全部知っている顔だ。氷堂に天授院、他にも何人か……こっちにやって来ている!
そういえば先日、クラスで水着を買いに行くだの何だのとスマホを通して言っていたっけ。すっかり忘れていたけど、覚えてさえいればこうなることは予想できたはず……。
そして、俺の近くには水着姿の一日彼女。
二人っきりでへなへなになった所を誰かにでも見られれば大スキャンダルだ。こんな場所で水着選びなんぞをしている時点で、一目で有る事無い事が全部お察しである。こいつの彼氏というだけで一気に噂が広がるのに、まして相手が俺などでは……。
とっさに橘の方を向いた。
彼女は小悪魔的にニヤリと、こっちがうろたえそうなのを見てご機嫌らしい。腰が引けた俺の手首を引っ掴んで、目だけで何かを訴えてきたのだ。
“任せて? みんなにはバレたくないんでしょ……?”
ええい、ままよ……。どうせこのままじっとしていればバレるんだし。
とっさの判断で、俺は逆らう力を緩める。そしてそのまま橘に引っ張られた先は……試着室の中だった。彼女は俺を中にぶちこむや、サッと後ろのカーテンを閉める。
ふむ……良いアイディアじゃないか。俺は胸を撫で下ろした。
しかしそう思ったのも束の間。とんでもない、こいつの企みは小悪魔じゃ済まないレベルだった。
カーテンから鏡までのスペースは二人で入るにも十分な広さだったのに、なぜか橘はじりじりとゆっくりこっちに近づいてくる。
「な、何だよ…………?」
一歩下がれば、また一歩向かってきて。
気づけば暗い小部屋の端っこまで追い込まれ……ドン、と。水着女は、俺の腰辺りで後ろの壁に右手をくっつけた。
ふぇぇ……。新しい方の壁ドンだよぉ……。
そうでなくても慌てふためいた後なのに、今日のこの女は無慈悲過ぎる。
もうあれだ。クラスの仲間達よ、やっぱりこっち来て邪魔しろ! じゃじゃーん! まさかの時のスペイン宗教裁判!! って感じで。いっそこの絵面を混じりっ気のないギャグにしてくれ……!
しかし、何事も都合よく行かないのが今日だ。
彼女は恥じらい混じりの赤白い顔に、怪しげな笑みを浮かべてきた。
「えへへ、これで二人っきり……。誰も見てないね……」
呼吸のリズムがお互いに知れるような距離。
しかも今は……金髪女は、水着女。素肌のほとんどを晒している状態だ。
生まれながらの童貞にしてその地位を自分の墓まで持ち帰る覚悟だった俺は、彼女に触れてはならないという緊急指令を脳から全身に伝達したのだが……しかし、これ以上は後ろに下がれないのでどうにもならん。
「今日のキミ、優しかった……。あたし、あんなにされたら勘違いしちゃうよ?」
「あれはだなあ。俺の方が調子に乗ってたっつーか、何ならもう既に黒歴史になりかけているというか……」
「ううん、いいの……。さっきみたいなの、大好き……」
白く艶めかしい肌がすぐ眼の前にあり、彼女の熱気が直に伝わってくる。
先程よりも生々しい近さを感じながら、俺はどうにか平常心を保とうとした。けどちっともうまくいかない。息を飲み込んで喉を詰まらせそうだ。
「おい、離れろ……。ここ十分広いだろ……って」
こっちのあたふたした反応は完全に予想通りらしい。満足気にニヤリとして、抑えたひそひそ声で、
「しー……。二人でラブラブしてるとこ、みんなにバレちゃうっ」
更に抗議の声を上げようとすると、手のひらで俺の口を覆ってくる。
綺麗な顔をこっちに近づけてきて……優しい吐息が、横顔に当たった。
「あれー? かれんっぽい金髪が見えたんだけどなー」
と、カーテンの向こうから氷堂らしき声がする。
俺たちは声を抑えながら――姿は隠れているし、そんなことをする必要はないのに――二人で寄り合って身体を小さくしていた。しばらくずっとそうしていた。外の気配が消えるまで、橘の柔らかい手で口元が覆われながら外の喧騒を聞く。
やっとのことで周りの音が消えて、しーんと。
彼女の囁き声が耳元をそっと撫でてくる。
「あーあ、いっけないんだぁ……。男の子がこんなとこに入ってきたら」
「お、お前が引っ張ってきたんだろーがっ」
「そだよ……。あたしが彼氏をここに入れちゃった♪ 二人でいけないこと、しちゃってるの……」
俺があくまで抵抗しようとしたのを感じ取ったのだろう。彼女の左手で、こっちの右手がにゅっと握られた。
それで、またしても耳元に乱れた息を感じる。
「や……暴れちゃだめ。悪い人にはお仕置き♪ ん……」
左耳のあたりが……カプリと、甘噛み。
とろけるように麻痺する感覚が全身に伝う。
しかし追撃はこれでは終わらない。
もう既に至近距離だというのに、橘はまだ一歩前に出てくる。すると限界まで密着し、壁と彼女の身体に挟まれた。足が絡まってきて、素肌の温もりが俺の服越しに……。
緊張で動かなくなった俺の身体が、少女の柔らかさに押し潰されそうだ。
もう頭がのぼせて、脳がトマトのように爆発しそうになると。
またしても頬が狙い撃ちされた。
「んー、ちゅっ……。これ、好き…………ちゅっ……」
「や、やめっ……」
「純、ガマンしないでっ……。ハズくなっても、ちゃんと彼女を好きでいて?」
は、はあああああ。マジで……これは、どうにもならん…………。
「ん……ちゅ」
橘の唇が、俺の肌の上でとどまった。
今度はすぐに離れるのではなく、何秒もそこで息を漏らしていた。心地よさげに。
部屋の静けさを感じるほどに恥ずかしさが募り、俺の背中がするすると壁を擦って、尻が床に落ちる。
もう明日からこいつの目も見れないかも知れない。
多分、一目合うだけで今日のことを思い出して、胸のムズムズで死んでしまうだろう。
俺は情けなくも、降参の声を上げた。
「ばか。やり過ぎだ……」
……だが勿論、一日彼女はそんなのお構いなしだ。
橘も目の前にしゃがみ込んできて、こっちに「にしし……」と悪戯っぽい目線を合わせてきた。自分のしたことの恥ずかしさは自覚しているようで、苦笑い気味にうなじに手をやってはいるが……白々しい。
「可愛いって言われて、嬉しかった……。えへへ……お礼♪」
「ほら、もう行っただろ。出よう……」
「や……。人目がないの、今ぐらいだし。外だと加減しなきゃじゃん」
「……お前、あれで加減なんかしてたのか?」
「できてなかった……?」
橘は隣にちょこんと座ると、手を握って身体を寄せてきた。
空気に晒された肩が腕に当たってくる。俺は素肌が触れるととっさに離れようとしたのだが、金髪女はぐいぐいと突っ込んできて譲ろうとはしない。
「でもさ、いずれバレちゃうよ? 仲良しなのは仲良しなんだしさ。もうあたし、ガマンとかしたくない。ほんと、辛いの。だから今のうちに、ラブラブしたい。胸の中にね、ラブラブを溜め込んどきたいの。家だと寂しいもん……」
ベンチの時のように腕も絡まって……頭を肩に乗せてきたので、細やかな髪の毛が首筋に当たってくる。
彼女……。俺の、彼女…………?
橘かれんは、まるで本物の恋人みたいに……いや多分、並の三倍くらいには振る舞っていた。俺の息の乱れも、暴れる心臓の音も、きっと気づかれているだろう。
「今、人生で一番楽しいかも……。優しい彼氏クンのおかげで、すっかりリア充にしてもらっちゃったね……えへへ」
「ふん、元からリア充だろーが」
「や、そんなことない……」
絡みつく力が強くなって、黙っている時間が増える。
少しずつ変な雰囲気になっていた。
暗い小部屋の中で、二人で……。
「純もリア充にしちゃうから。だって夏休みだよ? 分かってるっしょ?」
「分からんっ! 夏休みってのは、もっと家でごろごろして一人でだなあ……」
「ばーか。キミが一人なら、あたしも一人になるし? リア充になるなら純と一緒じゃなきゃ、やなの……。二人でリア充になりたい……」
確かなことは、もう明日からただの友達ではいられそうにないということだ。
こんなにバカバカしいやり取りの後でも、俺はまだこいつのことを大事に思っている。
橘の方も、さっきのは多分……俺が喜ぶと思ったんだろう。耳の噛まれ方が、すごく甘くふわふわしていたから。
可愛い。可愛すぎる。
認める。嬉しすぎるってことを。今は橘と仲良くなるのが、嬉しくて仕方がない。
そんな自分の思いに、ふと気づいたからだろうか?
まだまだ優しくしたかった。加えて橘の気持ちもうっすらと伝わってくる気がして、さっきから苦しかった胸の奥が、急に温かい感情でいっぱいになったのだ。
やばい……。緊張がまた……溶けてなくなる。
「キミの一日彼女やってんの、好き。ねえ、今よりもっと二人っきりになりたい……」
「って、今も二人だろ。これ以上、どうやって二人になれって」
「違うのっ。何って言えば良いのかな……あたしら、もっともっと二人になれる気がすんの。さっきみたいにバレそうなのも、めっちゃ楽しいけどさ。あたし、今日はもう邪魔されたくないかも……」
水着女は恥じらい気味に、ちらちらと目を合わせてくる。
もっと喜ばせたい。笑って欲しい。
橘にとっての、最高の夏休みになって欲しい。
俺がどう思うかなんて、もうどうでもよくなってきた。ちょっと恥ずかしいくらい、それが何だ。こいつの手を強くにぎり返すと、この胸のムズムズと友達になれる気がした。
「ふん、そんなに俺で遊ぶのが楽しいのかって……」
本当は遊ばれているだけなんじゃないかって、うっすら思ってた。
童貞臭い反応が面白いから、とか。そういう男が珍しいから、とか。
違う。そうじゃないんだって、本当は分かってた。
……俺自身が、こんな素敵な女の子に、そっくりそのまま受け入れられている。
……それがこんなに嬉しかったなんて、初めて知った。
……なら、俺もこいつを受け入れてあげなきゃ。
「まあそんなに楽しいなら、好きに俺で遊べばいいっつーか……分かるだろ?」
「ふふっ、何さいきなりデレちゃって……どうしたの?」
「一日彼氏は……彼氏だ。言う通り、まだ時間あんだろ。これから、どうする?」
耳をすませば、試着室の外から休日の喧騒が聞こえてくる。
この哀れな元ぼっちのガリ勉は、金髪の少女を目の前にして、まさかのイチャイチャゾーンに入っていた。絶好調過ぎる。今は橘が喜んでいる様を想像するだけでいいんだ。それだけで、一時間後も経たない内に現実になっているだろう。
俺は一条純。橘かれんの一日彼氏だ。
もう明日のことなんて、考えることはするまい。