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第三十六話 一日XX③

 結局この女は、いつだって上手にいるということだろう。


 食後に連れてこられたのは駅ビルの五階だった。

 まあ普段の休日は家から出ないのでショッピングモールどころか大体の場所が未開なのだが、そんな中でも更に魔境……周囲の色彩がやたら()()()()、リアル不思議のダンジョンがそこにはあったのだ。


「あ、ああ……」


 眼前のソレを見て、かすれた声を漏らしてしまった。

 色とりどりのヒラヒラ布。水着売り場だ。女物の。


 相変わらず俺の左腕にギュッと絡みついている一日彼女さんは、どうしたものか、今の俺の情けない反応をいたく気に入ったらしい。


「あたしの水着選び。だって、海、行くでしょ……? こういうの、彼氏クンが選ばなきゃだよね……?」

「せ、せやろか……。つーか、海行くのか……」

「ふふっ。その恥ずかしそうな顔……可愛い」


 と言って、すっかり熱くなった頬を突っついてくる。


 って、ほら、そこの通行人! 微笑ましいって感じでニヤつくのマジでやめろっ。

 こっちはもう頭がふやけそうでギリギリの精神状態なんだからな。何なら、ここまで歩いてこれただけで奇跡だろう。


 当然のことながら、さっきから顔が熱いだけでなく胸もむず痒い。

 かと言って、しばらく一日彼女から目を逸そうものなら。

 ほら、こうして手酷い側面攻撃が待っている。


「んー……ちゅっ。こっち向かなきゃだーめ」


 くっ……殺せ! もうやってられるか!


 俺は早くも、さっき調子に乗りすぎたことを後悔していた。

 攻守交代。その言葉に偽りはない。

 こうしてフィジカル的な悪戯を仕掛けてくるだけじゃない。

 そもそもこんな場所に連れてきたあたり、本当にガリ勉を殺す気としか思えない。


 だって、そうだろ。レディース水着が並んだ大部屋?

 見ればその瞬間『モンスターハウスだ!』と叫びだしたくなるような絵面である。スマホなんぞを持っていてもリレミトの巻物機能すらないのだから困ったものだ。現代技術など、いざとなればとんだ役立たずである。


 俺は戦慄するあまり片足が後ろに引けてしまったのだが、既にがっちり掴まれているので逃げようもない。

 ……というか、乗り気でないというのが橘に伝わってか更に強くホールドされた。

 満面の笑みから、“逃さないから”っていうのが伝わってくる。もう腕から背中にかけて汗でぐっしょりなのだが、金髪女にはそんなことどうでもいいらしい。


 だが同時に、俺がガチガチなことに対して気を使ってもいるようだった。

 へらへら笑っているかと思えば、こっちがあんまり閉口しているのが不安だったのか、しゅんとした上目遣いで……本当に、こいつはころころと表情を変える。


「彼女のお願い……ダメ?」


 断れるわけがないだろ、そんな顔されて……。

 もうここまでくると、普段通りの出来レースだ。


 その……。こいつが笑ってるところ、今日はたくさん見たいしな……。


 頭をそっと撫でて、そんな顔をしなくていいって言ってやればいいだろうか? けどそんなことは到底出来ないから、代わりに俺は表情をムッとさせてこう返すのだ。


「別に。元々ノープランだったし、仕方ないっていうか……」

「や、ありがと……。ちょー優しい……」

「む、そんなじゃねえよっ。言っとくけどそんな風に頼まれて断れない奴、俺だけじゃないからな! いいがけん、鏡見ろってんだよ」

「ふふっ、何よそれ。もしかしてさ、遠まわしに褒めてくれてんの?」

「…………違う。ほら、行くぞっ……」

「えへへ、照れ屋さん……」


 それで橘がやっとのことで左腕を解放して、店を物色していた時。

 心臓のあたりが飛び跳ねそうに軽やかで、同時に苦しかった。水着選びに集中しているかと思いきや、時々こっちに振り返ってニコリと笑いかけてくれるのだ。


 俺、こんな子と一緒にいる。

 しかもそれで、向こうはちょっと大げさなくらい楽しそうにしている。


 こうして改めて見ると、橘かれんは底なしに可愛い。

 油断をすれば見惚れてしまいそうだ。

 無論そんな風に思っているとは気づかれたくはないので、こっちは常に変な力が入りっぱなしである。この女といると一秒一秒が常に受難だ。


 けど単に見た目がってだけじゃない。

 橘の笑った顔には、種類がいくつもあるのだ。


 悪戯っぽく遊ぶような笑み、優しく労るような笑み、嬉しそうな笑み、他にも…………俺にはもう、ほとんど見分けがつく。そしてその表情全てに飾りっ気がなくて、ひたすら純粋だった。


 俺は今、その笑顔を独り占めしている。

 例え束の間だとしても、自分一人に向けられている。

 一日彼氏……。彼氏…………。

 今……俺が…………?


 胸がキュッと締め付けられるんだ。全身に、あいつの温もりがまだ残っていた。


「ねえ……?」


 俺はビクリとする。橘の顔が思ったよりも近いところにあったからだ。

 ずっと横に歩いていたので意識しなかったが、今は普段よりずっと距離が近い。


 この唇……。

 さっきから俺の頬に何度も触れてくる柔らかい唇が、今はきれいな弓なりに曲がっている。こんな可愛い笑顔が、いっつも近くにいたなんて。


「これとこれ、どっちがいいと思う?」


 と、ハンガーに引っかかったビキニを二組見せてくる。

 黒い方とピンクい方……って、いやいや!

 俺は呆気にとられた。そりゃあ水着を選ぶってのはそういうわけなのだが、こっちはまるで準備もしていない。


 てか、水着を選ぶ準備ってなんだよ。

 今日の俺、考えていることがまるで意味をなしていないぞ……。


「む、どっちがいいかって言われてもな……」


 この調子なので、そんな気の抜けた返事をしてしまった。

 だが、かれんは…………こほん。橘は、今のが思った通りの返事だとばかりにニヤりとして、


「ふぅ~ん?」

「な、何だよ……?」

「じゃあさ、試着するしかないよね。キミが気に入った方、教えて?」

「し、試着!? ここでか……?」

「もう、ばか……。なに驚いてんのさ……ここ、そういう店だよ?」


 それであいつがカーテンの向こうから出てきた時には、もう脳が溶けて耳から出てきそうだった。

 金髪女の顔は赤く(ほう)けていた。

 同時に俺の緊張を読み取ってか、はにかんだように笑みを浮かべる。


「いざ見せてみると、ちょっとハズいかも……。どう、かな……?」


 どうか、だと……? そりゃあ勿論……。


 すらっと健康的な肢体に、フリルのあしらわれた黒いビキニ。

 均整の取れたスタイルだ。バストとヒップが美しく盛り上がって、ほっそりとしたウエストのラインと自然につながっていた。黒というチョイスも絶妙だった。白い肌や鮮やかな金髪とはコントラストになっていて、これが何というか、非常に大人っぽく見える。


 その時になって、俺はとうとう目の前の少女に見惚れてしまった。

 何秒かその場に立ち尽くしてしまい、そんな自分に気づくやいなや前を見ていられなくなる。

 でもなぜか、俺と向かい合った橘は自信なさげに目を泳がせていた。こちらをちらちら見ては、不安げにそらしてしまうのだ。


「どう……? 合ってない、かな…………?」


 どうしてそんな顔を?

 結局お前は橘かれん、いつもならもっと自信満々だろうが。

 だが俺がそうやってあやふやな態度をとっていると、彼女の不安の色は少しずつ濃くなってくる。どうやらこいつは、俺の返答をそこまで心待ちにしているらしい。


 俺は俺で、思った通りのことが舌の先っぽでつっかえていたのだ。

 けど、今までもそんなんばっかりだ。橘はいつだって思った通りのことを屈託なく喋ってくれるのに、俺はまたクソみたいな照れ隠しで……。


 む……。言えよ、俺……このくらい。

 一日彼氏なら、今は彼氏なんだろうが。言葉にすれば、さっきみたいに喜んでくれるから。

 心配は要らない。今日、俺は調子に乗っているんだ……。


 乱れた息を吸って、辛うじて言葉を発した。


「……綺麗、だよ…………」

「え……?」

「そりゃあ、可愛いに決まってんだろ……。似合ってる。素人目だけどさ……」


 少女の顔に笑みが広がって、やがて愛おしげに口を緩めた。


「よかった……」

「べ、別に、そんな深い意味でなくてだな……。可愛いっつーか、その、可愛いよ」

「だってっ……。あたし、ほんとは純の好みじゃないのかなって、ずっと心配だったからさ。もうっ、早く褒めろし……」


 橘は大げさに、むしろ泣きそうなくらい安堵の色を広げて、でもお互い言えることなんて特に何もなくて、そうやって言葉が途切れると……。

 よりによってこんな場所で、あの見つめ合いモードに入ってしまった。


 お互いの息の乱れが聞こえるような距離感で、こいつのとろんとした視線が俺の目を捉えて離さない。


“う、とにかく何か言えよ……。場所考えろよな……”

“えへへ……綺麗だって。可愛いって。えへへへへ~”

“ほら、黒でいいって分かったろ。早く選んじまえよ”

“やっ……もう少しこうしてたい。もう少しだけ、そうやって見つめてて……”

“……っ。か、かれん…………”

“純……”


 こんなやり取りをする場所じゃない。

 明らかに、こっちを見る視線がちらほらと感じられたくらいだ。

 だがここ最近、俺たちは何かのきっかけがあると突発的にこうなっていた。言葉が途切れて不安定な雰囲気の中で、ただ数秒見つめ合うだけのふわふわした時間。


 しかし突然、雑踏の中から知っている声がする。

 俺はそれを耳にして肝を冷やした。


「ほらー、やっぱり向こうにいるの……かれんじゃね?」


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