第三十五話 一日XX②
だが、橘かれんの一日彼氏だって?
これがとてつもない難題だった。まずはカップルらしく手でも繋いで歩こうという司令を受けたのだが、俺は最初の十メートルで自我がぶっ壊れるレベルのゲームオーバーを喰らった。
こうして歩いているだけで、腕が素肌でベタベタと擦れてしまう。体中に熱がこもってどうにかなりそうだ。
そうやって緊張で手を震わせていると……ほら。
こいつは、そういうのは絶対に気づく。気付いた上で仕掛けてくるのだ。
「あたしら、二人で仲良く緊張してる……休憩しなきゃ」
「……いくらなんでも早えーだろ。まだ駅からちょっと歩いただけだ」
「ほら、あそこのベンチでさ……イチャイチャしたい…………」
「イチャイチャ……」
「今更♪ ねえ、二人でもっと緊張すること……しよ? 彼氏と彼女みたいに……ね?」
橘の柔らかい右手が俺の左手の中でもごもごと動いた。
調子がすっかり戻ったのか、挑発的な笑みで目線をきっちり合わせてくる。逸らしたらどうせ怒られるので頑張って合わせているのだが、今日はいつもより更に近い。匂いどころか、お互いの呼吸すら聞こえてしまうような距離感だ。
ベンチで並んで座る頃には、もう心臓がぽっかり抜けたような感覚だった。
こいつは遠慮なく俺の方にぐったりと身体を寄せ、こっちの左腕に両腕を絡めてすりすり……と。
繊細な髪が肩に触れてくる。
絡まって密着した腕の先で、まだ手を繋いでいた。
「ガリ勉成分、まだ足んない……。何で三日も会えなかったのさ、もうっ……」
……や、やり過ぎじゃないか?
か、彼女ったって普通ここまでせんだろ! 俺ら、ただの高校生だぞ……。
舌先までそんな言葉が出掛かったけれど、至近距離の一日彼女と目が合う。
「一日彼女……。彼女……♪」
ニヤニヤ、ニヤニヤ。本当にいつも、まるでお日様みたいに。
こいつ、何でそんな嬉しそうなんだよ……。
ご機嫌度の最高記録を日々更新し続けているこいつではあるが、今日ばかりはやんちゃ度合いが違う。
向けてくる視線も声も、溶けたチョコレートのようにとろんとしている。
どんな顔をすればいいか、なんてのは今日に限ったことじゃない。それでも今は顔が緊張や恥ずかしさで引きつっていた。
けど同時に、止めてくれなんて言えなかった。
こいつの嬉しそうな姿、本当に胸が温まる。だからそこに水を指すようなことは、考えるだけでも後ろめたさが沸き立ってくる。
「で、彼氏は何をすれば……」
「キミが照れてふにゃふにゃになってるの、楽しいの……。その代りにさ。あたしがくっつきながらデレデレしてるの……キミも楽んでいいよ?」
「た、橘……。緊張がだなあ……さすがにやばいっつーか」
「……何で緊張するか、知ってる?」
「はあ?」
橘はぐったりと体重を預けてきて、
「好きになるのをさ、ガマンしてるからだよ? もうさ、あたしにメロメロになっちゃえばいーじゃん♪ 彼氏と彼女だもん、二人でバカになっちゃおーよ?」
「た、橘……。お前……」
好き。好きに、なる? 俺が……こいつを? いや、まさかな……。
二人で……バカに。もし緊張で自分を守るのを諦めれば……次の瞬間、どうなる?
…………そして次の言葉で、緊張風船が胸の中でブチ破れる。
「むー! 今日は橘もお前もだめ。次そう呼んだら、ガチでハグしちゃうからっ……」
ベンチの上でがっちりと左腕をホールドされる腐れガリ勉。
罰ゲームは開始早々、致死量分のムズムズ因子を脳内にぶつけてきた。
最初に訪れたのは、頭の中を回るグルグルだ。目が回りそうな感覚を超えると……不思議と落ち着いてしまう。そして一つの閃きと共に、ガリ勉リミッターが深淵に飲み込まれた。
……俺がこいつと、何日一緒にいると思っている?
何をすれば橘が喜ぶかなんて、明白だ。
だから言わなきゃいけない。恥ずかしくても、言わなきゃ……。
ほら、こいつ、どうせ喜んでくれるだろうし……。
「その……お前と会えて良かったっつーか…………橘」
「あー! 今、お前って、橘って、どっちも言ったー!?」
「……言ってない…………」
お互い赤くなった顔で、目を合わせる。
俺はいつも通り顔をムスッとさせていたのだが、もうダメだ。おかしくなって、二人同時に吹き出してしまった。橘はケラケラ笑い始め、弱い力で胸のあたりをぽんぽん小突いてくる。
「ははっ、言ってないっ……。だからダメだ。今のはノーカンで……はははっ」
「ふふっ……。もー、ばか……そんなにあたしとハグしたいの?」
「だから、言ってないっ。ああ、やめろ。こっち来んなっ……」
「純のばーか……」
橘は背中に腕を回してきて……ギュッと力がこもる。
彼女の豊かな金髪が俺の胸に擦り付けられる。心臓を吐き出しそうだったが、温もりが伝わってくると、やがて緊張も一緒に溶けていった。
全身が甘く優しい気分に包まれて、耳元で囁き合うのだ。
「ん……ハグ、気持ちいい。このまま安心しちゃいそう……」
「おい、そろそろ離れろ。思いっきし見られてる」
「今日の純、優しくてノリ良い。……純もあたしとラブラブできて、嬉しいんでしょ」
「別に……っ。まあ、ちょっと会いたいって思ってたけど……」
「ねえ……純も抱き返して? あたしだけギュッとするの、やなの……」
「……っ。まあ、俺が始めたことだし……。こ、こうか?」
「あ、優しい……」
腕で少女の背中を軽く擦ると、橘はギュッとした密着感を強めてきた。
このふわふわと堕落した気配を痛く感じ取ってか、明らかに四方八方から突き刺すような視線を投げかけられている。
「キミの一日彼女、楽し過ぎ……」
しかし、かまうものか。
分かるだろ。今の俺は調子に乗っているんだ。感覚も完全に麻痺った。
緊張のダムが決壊して、いっそ血を身体の穴という穴から吹き出しそうだけれど。今度はこの温もりが、恥じらいだけではなく安心も与えてくれるようになった。
しかし実は、この橘さんを喜ばせようミッションはまだ終わっていない。
自分でも信じられないが、俺は最後の追い打ちを用意していた。きっと明日には後悔しているだろうが、俺のふやふやになった胸はそのまま言えと命じている。
「…………かれん」
「あ……」
金髪女は切ない目をした。
言った瞬間は後悔しかけたのだが、彼女は聞き逃してくれなかったらしい。
「もっかい……」
「……やだ」
「や、お願い。ねえ、お願い……」
ひっつかれた身体を通して、彼女の温もりが嫌というほど伝わってくる。お願い。その言葉通りというか、その力は緩くなるどころか強くなるばかりだ。
こんなの、知ってる奴に見られれば終わりだろ……。
「か、かれん……」
「純。純♪ 純? えへへ……おかわり」
「………………かれん」
「合格……。彼氏っぽくなってきたじゃん……よしよし」
なでなで、と。頭が柔らかい手にもしゃもしゃとされる。
「クソ、言うんじゃなかった……」
二年に上がってからというもの、橘を喜ばせてばかりだ。
最初は、何の心当たりもなくこの女子が勝手に楽しそうにしているだけだった。
やがて、こいつのそういう姿を見て安心するようになった。
今は、彼女がどうすれば喜ぶのか何となく分かるようになっている。
このイチャイチャ地雷を自ら踏みに行っているあたり、俺も俺でおかしいっての。
「はぁ……もうダメかも。デート始まったばっかなのに、イチャイチャが止まんないの。ずっとこうしてたい……」
「む、それはちょっと調子に乗りすぎたな。ごめん」
「ほんとそれ……メロメロにさせるって言ったの、あたしだしー! あたしがメロメロになってたら、いつもと変わんないじゃん……」
「い、いつも……?」
「や、ばか、何でもない……!」
そうやってお互いに顔を真っ赤にしながら、ベンチの上で一時間ほど。
時間が過ぎるのはあっという間だ。やっとのことで立ち上がった後も、行くあてもなく二人で駅前の忙しい道をフラフラしていたのだ。
夏休みシーズンの休日ともなれば、という感じの日だった。
突き抜けるような青空の夏日。
無論のこと駅前の往来は激しく、家族連れや社会人お一人様と様々だ。
そして俺たちと似たような、ひっつきながら歩くカップルも幾度となく通り過ぎる。どいつもこいつも仲良さそうだ。橘はそれを見るやムッとした顔をして、左腕に強く絡まってきた。一体何を張り合ってるんだよ、お前。
だが今まで、カップルなんて見ても何とも思わなかった。最初から自分には関係ないことなのだと固く信じていたからだ。
でも今は。今は、隣には女の子が歩いている。
明るい色の長い髪で、ニンマリと可愛く笑う女の子。
みんなから好かれて、いつもならたくさんの友達に囲まれる女の子。
本来なら、同じクラスだろうが隣の席だろうが口すら利かないタイプ。そんな女の子が、こうもゴキゲン上々に一緒にいてくれる。
それにしても、一日彼女。奇っ怪な響きだ。
今日が続く限りは確かにそういう関係なのだろうが、明日になればまた元に戻ってしまう。だとすれば、次の日からはどう接すれば良いのだろう。もう今から気まずさを嗅ぎ取ってしまいそうで困る。
「ねぇ。ご飯食べた後、どこ行こっか……?」
近くで囁くように言ってくる俺の一日彼女。
正直、何もアイディアはなかった。本当なら俺も何かを考えてくるべきだったのだろうが、いつも放課後はノープランで振り回されているためか、そういうのに慣れてしまっていた。
「映画……とか?」
「や……映画はだめ。キミの顔、見えないじゃん……」
「日曜だし、どこも混むぞ。二人でゆっくりなんてそれこそベンチしか……」
――と。
橘は何を思い至ったか徐々に笑みを広げる。
実に怪しげな悪巧みっぽい表情で、左腕をぐいっと引っ張って、
「にしし、いいこと思いついた。キミとしたいこと、一つあるかも」
すると、不意打ちだった。
橘は左腕に絡みつきながら、首を伸ばして。
頬に、ほっぺたに……唇の柔い感触がむにゅっと触れる。
「ちゅ……っ。ばーか。さっきいじめられた分、今から攻守交代……ね?」
気がつけば、彼女の赤く染まった顔が数センチ先に離れてしまっていた。甘く柔らかい感触だけが肌に残っている。
「ねえ? 今の、嫌……?」
「……っ。彼女だからって……やり過ぎだっ!」
「でも、嫌?」
「……っ。嫌…………じゃない……かも」
「や、じゃあもっかいね…………んー、ちゅ……っ。えへへ、行こ?」
ガリ勉ぼっちから“ぼっち”の部分をこいつに盗まれて一ヶ月。俺は橘かれんとの距離感を測りかねていた。
本当はちょっと仲良くし過ぎなんじゃないかって、自分でも分かってる。
ただ遊ばれているだけかもって、本当は怖かったりもする。
何にせよ罰ゲームの一日彼氏役は、まだ始まったばかりだ。