第二十六話 スクールカースト②
まあ、意識を失ったといっても何分も経たずに起きたのだけど。
必死に磨き上げてきた学年四位の頭脳(失笑)を守るため、クッソ硬い頭蓋骨が大いに仕事をしてくれたようだ。良かった良かった、叔母の豪華な朝食が効いたに違いない。
だが、すぐ起きたのでなければ救急車を呼ばれていただろう。ともかく様子を見ようということで、四限の残り時間からずっと保健室のベッドで眠っていた。少し新鮮な感じだ。学校で寝ることを許されるなんて。もうそんなに痛くないが、ここはサボらせてもらおう。
――昼休みの空気の中で、意識が薄くたゆたっていた。
保健室のカーテンが揺れていた。柔らかな風が、腕に当たってきた。
半開きの窓から、がやがやとボール遊びの声が遠く聞こえてくる。
不思議だ、と俺は思った。この時間はいつも自分の席で勉強しているはずなのに。こんなに肩の力を抜いたのは初めてじゃなかろうか。
力が抜けて、身体ごとベッドに吸い込まれそうだった。静かだ。
そして起きているのか眠っているのかも分からないような感覚の中で――ふと、一人の少女の顔が浮かび上がってきた。
少女は潤んだような目で、深刻そうにこちらを見つめていた。
健康そうな白い肌に、長いまつげ。薄い唇に、なだらかな鼻の線。
そしてその長い髪は、鮮やかなほどの金色で――
オウフ……こりゃこりゃなんと美しき娘かな。
我ここに桃源郷見つけたりってか。
惜しむらくは俺の方がうっとりし過ぎて多少気まずいということくらいだよ。もう何も言えないので現実逃避に今日の晩飯のことでも考えそうな勢いである。
あ、ちなみに陶淵明の『桃源郷詩』には『相ひ命じて農耕を肆め、日入らば憩ふ所に從ふ』とあり、実はそんなに美少女ランドじゃないんだ桃源郷って。むしろ税金フリーの牧歌的スローライフランドとでも言った方が近く、ぼっち的にはその方が合っているんじゃないかと思えるから皮肉なものだ――と。
「大……丈夫…………?」
何だよ……お前か、橘。
彼女はベッドの側に立ち、上からこちらの顔を覗き込んでいた。俺はそれに気づくや目をぱちぱちとさせる。
黙って真面目そうな顔してると別人に見えるな、こいつ……。
「普通に、大丈夫だけど……。つーか、ずっと起きてたしな」
「心配させんなし……ばか…………」
橘は「ぐすん」と勢い良く鼻をすすると、袖で目の辺りを拭った。
「……マジ、ないわ」
「悪かったよ……」
変な沈黙が流れる。
おいおいやめろよ、しょんぼりした顔してないで何か言えよ。『ドジ!』でも『童貞!』でもいいから。いつもヘラヘラしているだけにこうも突然振る舞い方を変えられると、こっちも対処に困ることこの上ない。
そして何を思ってか、こいつは指でガーゼの貼った患部を指でナデナデしてきた。
「や、やめっ」
「やっ……。こうすれば元気になると思って…………痛、かった?」
「痛いし、何ならもう既に元気だっ」
「ごめんなさい……」
「む……そんなに、痛くなかったけど…………」
そしてまた酸っぱい沈黙が流れる。
もうどうしろってんだよ。お前、最近おかしいって。
だが確かに、ここにきて俺たちの空気感が少し変わりつつあった。
橘も気遣いのつもりか、最初の頃のようにケラケラ笑いながら罵ってくることはほとんどなくなった気がする。
でもそんなの、お前に似合わねーよ。
悪気がないのは知ってるんだし、気にすることないのに。
――じゃあ、こっちが『ビッチ』って言ってやればいいのだろうか。
う、これはちと言いにくいな……。
相手がどう思うんだろうって、不安になる。嫌われてしまうかも、って。今までこんなの、気にしたことないのに。
変だよ……俺も、俺たちも。
「ごめん、あたしから来たのにだんまりでさ……ははっ。でも頭打った聞いて、ちょっとショックで……」
俺の気まずい感じが伝わったのか、彼女は作ったような笑顔を見せてくる。
それを見ると胸の中が辛くて――しかも俺はどういうわけか、こいつをニッタニタの笑顔にさせる方法を良く心得ていた。
まあ、ちょっと恥ずかしいけどさ……。
「別に……。そんなに心配してくれて嬉しいっつーか、なんっつーか…………ありがと、な」
金髪女は目を大きくしてパチパチすると、やがて表情を明るくする。
安心したように頬を緩ませたので――それを見ると俺はホッとした。
喜ぶポイント、分かりやす過ぎだろお前……。
「ガリ勉がデレた……」
「やめろっ、そんなんじゃねーって」
「ふふっ、何かあたしが元気貰っちゃった」
と、ここで俺は自分の選択を後悔した。
なぜなら橘は「やーっ!」と叫んで、俺の横たわるベッドへ派手にダイブしてきたからだ。俺はとっさに端の方に転がって難を逃れたのだが、
「えへへへへ~♪ ガリ勉が隣で寝てる」
橘がすぐ隣で、髪の毛が顔に触れてくるような距離で横たわっている。
いつもの香水も心地よく香ってきた。
勿論、いつものご機嫌モードのニンマリ顔だ。流石にここまでするとは思わなかった。俺はいつもながら顔を反らしたいのだが、この体勢ではそもそも向ける場所が前か上しかない。
安心したやら、恥ずかしいやら……。
でもこいつが嬉しそうなの、こっちまで嬉しくなるっていうか……。
顔が熱っぽくなる。そして橘の顔も、少し赤くなっているように見える。
俺たちは――言葉をかわす間も、何かを囁き合っている気がした。
「む……お前、いっつもヘラヘラし過ぎだっての」
「幸せだもん……しゃーないっしょ? ガリ勉がデレると、あたしマジで幸せになんの。キミはさ……あたしがどうすると、幸せになるの?」
「別に……」
「やー、もうちょっとデレててよ。ツンに移んの早い……」
ほんと表情のレパートリー増え過ぎだ。ここぞで甘えんの、マジで反則。
このタイミングでシャツとか引っ張ってくるのもレッドカード一発退場モノだよ、ほんとに。むしろ俺が退場したいのだが、そういう気を見せると服を握る手を強くしてくるので抜け目ない奴だ。
あんまり目を合わせていられなくなって、俺は寝返りを打った。
ふん、こうすれば貴様も表情で俺を殺すことはできまいよ。
「やー! マジでこっち向けし! このっ、このっ」
と、背中が膝で甘くポンポンとされる。
これはこれで胸の中がムズムズするので、大人しく前を向くと、
「おかえり……♪」
「た、ただいま……」
もう何だよこのやり取り、頭がパーになりそうだよ。
だがこの日の金髪女は実に無慈悲だった。弾道ミサイル並みのバカ火力を惜しげもなく繰り出してくるので胸は苦しくなる一方だ。
「ねぇ……そろそろさ、お前はやめてよ。それ、ちょっと嫌い」
「む……そうか。分かった。じゃあこれからはちゃんと橘と呼ぶ」
「はー? そんな言葉、求めてないんですけどー? かれんでいいよ……純」
「下の名前、マジで止めろ。それ、誰が相手でもムリだ」
「やだ……絶対呼ぶ。絶対絶対呼ぶから」
「分かったよ……橘さん」
「あ、それずるいー!」
よすよす、これなら二つの選択を強いることができる。
こやつは俺を下の名前で呼ぶか、自分が下の名前で呼ばれるかの二つに一つしか選べないのだ。多分後者を選ぶだろうが、前者よりは百倍マシである。
「~~っ!」
ほうほう、効いてる効いてる。
金髪女は唇を噛んで何やら訴えてきている。“純のケチー!”って。だがこればかりは可愛く頼んでも無駄だ。真面目な話、童貞と呼ばれ続けたほうがマシだからな。
だがそうやって調子に乗っていると――俺たちは手酷い奇襲を受けた。
「お前ら。何をしている……?」
ドスの利いた声にビクッとして顔だけで振り返ると――保健室の入り口に立っていたのは、なんと我らが担任の白石教諭だった。