第一話 一条家のヤバい青春学
俺、一条純と妹の絶対的保護者たるアリカ叔母さんの説によると、高二の一学期っていうのはとにかく青春闘争がヤバイらしい。
いや……何を言ってんだこの人? もちろん俺は意味を聞き返した。
すると叔母さんは大きい丸メガネを光らせ、朝飯時からのスーパーハイテンションっぷりでこう答えたもんだ。
「もう、何ねぼけたこと言ってんの純くんっ。高二の男の子っていうのはね、盛るものなの! 盛らなきゃいけないものなの! 女の子と自然にフラグが立つ時期なんてもうやってこないんだから! ふんふん!」
「はあ……」
「純くんは好きな女の子とかいないの……? ほら、夏休みはすぐそこなのよ。あれね。今から周到に準備しておかないとね。『高二の夏休みで童貞卒業』っていうのは、高校生活というゲームの勝利条件の一つなんだから」
アリカ叔母さんは朝から軽くヒステリーを起こしていた。
ラブコメ少女漫画家という職業上からか、締切が近いといつも気が張っている。もちろんそれを分かっているからこそ配慮は必要だろうし、いつものように適当に話を合わせておこうと思った。
そう、いつものように。
俺はというと、実は叔母さんに小さな嘘をたくさんついていた。
例えばこの家で、俺は放課後に遊ぶいつもの友人が三人いるということで通っている。
多分これも職業柄だろうが、叔母さんは青春だの今を楽しめだのって常々うるさい。『青春の神様は学祭サボった男には罰を与える』とか、『青春世界ではぼっちは大罪人』とか……そういう意味不明なのは全部、叔母さんの教えだ。
なぜかうちのアリカ教祖様は、そういうのにやたら厳しい。
別にそれを嫌と思うわけではないが――実はぼっちですだなんて言って、心配させたくはない。
「分かりました。じゃあ今日から頑張って、夏には叔母さんをびっくりさせますよ」
「もうね、いっそ家に連れ込んでもいいのよ! 多少部屋でやんちゃしてても見ないふりするから。見ないふりして、私の作品でしっかりネタにするから!」
「いや、それもう見ないふりしてほぼほぼガン見してるじゃないっすか」
「うふふ……バレちゃった?」
つーかあんた、最初からそれが本音だろ……
朝はとにかく食え、肉食らった分だけ野菜も食え。それがアリカ叔母さんの方針で、わが家の朝食は夜に比して大分豪華だ。食卓の真ん中には酢豚の皿がどんと置かれているかと思えば、野菜に手を付けないでいると有無を言わさずよそってくるので油断ならない。
――それを見越してのことか、レタスをもしゃもしゃさせながら横から口をだす奴が一人。
「無いよアリカ叔母さん。兄貴に限ってそれは無いよ」
叔母さんとお揃いの、大きな丸メガネの少女が「んひひ」と笑みを見せる。
彼女は一条欅。
俺の妹で、人に猫の習性をねじ込んだような自由気ままな引きこもりだ。もう八時になるってのに、まだ寝間着のシャツとショートパンツから着替えていない。本来なら中学三年生のはずだが、どうやら今日も学校に行く気はないようだ。
「この人が休日に女の子を連れてきたこと、ある?」
「あら、そう言われてみれば……」
「真面目に勉強か、私とゲームばっかりしてる」
「もうじきそうじゃなくなるんだよ。今に見てろっての」
「男友達すら連れてこないのに?…………認めなよ、色々さ」
欅は細やかな黒髪を指でいじりながら、いたずらっぽくニヤつく。
こいつは確かに引きこもりだが……憎たらしいほど勘の効く奴だ。俺がぼっちであることなど、言わずともお見通しだろう。
「今週も私と居ればいーの。兄貴にぼっち卒業されたら、誰が私を構うのってのよー」
「もう、欅ちゃん。お兄ちゃんを甘やかしたらダメ。本当にぼっちになっちゃうわよ」
うっせーやい、なめんなよ。もうなってらあ。
しかし実を言うと、別にぼっちでも構わないのだ。
もちろん叔母さんの意見も尊重して余りあるが――聞き入れるには、俺は根暗生活に慣れ過ぎている。だが俺はこういう時、この人に口答えはしたことはなかった。議論してもどうせ論理がパワーで捻り潰されるのがオチだ。
結局のところ、いい子にしとくのが一番なのである。
それに……アレだ。
こういう時に無駄に他人と対立するから、学園ラブコメの主人公たちはしばしば美少女だらけの奇っ怪な部活にブチ込まれたりするんだぞ。俺は詳しいんだ。だがもし、本物のぼっちが美少女の群れに放り込まれてもみろ……想像するだけで悲惨じゃないか?
まず、まともに話せもしないだろう。
むしろ目を合わせるだけで言葉が喉に詰まるので、バジリスクに囲まれているのとあまり変わらない。逃げ出したくなる恐怖感で言えば、もはやゾンビ映画と匹敵する絵面だ。
美少女・ハザード、とか。うーん普通だな。
ウォーキング・美少女、とか。それただ美少女が歩いてるだけじゃん!
美少女ランド、とか。絶対いかがわしい施設か何かだろそれ。検挙だ検挙。
――などと下らないことを考えてる間に七時五十五分。行く時間だ。
「ごちそうさまでした」
俺はしれっと椅子を立ち、皿を下げる。玄関に行ったところで、妹が開いたドアからそろりと顔を覗かせてきた。
「どした……?」
「……今日、アレの発売日っていうか、そのさ…………」
ずっとこいつが楽しみにしてきた格ゲー、『円天堂クラッシュ・ブラザーズ』のことだろう。
当然というか、妹は外には出たがらない。だから買いたい物は俺が買ってくるのが普通だ。
なのに、何故かもじもじとする欅。何か言いにくそうに万札を押し付けてきた。
「何だよ、頼まれてやるっての。俺も遊びたいしな」
「いや、そうじゃなくってさ……」
と、欅はドアの端っこに顔をすりすりしながらぼそぼそと、
「その……土日、誰かと遊びに行くとかマジでやめてよね。せっかく新作買うんだし。別に彼女作りとかそういう柄にもないこと、頑張んなくていーから」
「いっつも家にいるだろうがよ。何を今更って感じだ」
「あと、誰か連れてくるのもナシ! それだけ! じゃあな!」
彼女はそれだけ言ってバタン、とドアを閉じる。
「ははっ……」と、つい乾いた笑いが俺の口からこぼれ出た。
連れてくる奴とか誰もいねーよ。嫌味か。
欅はこれがまあ、ぶっきらぼうな奴だった。
ひもすがらネトゲと先物相場に張り付きっぱなしなので、いつも目に隈ができている。肌も不健康っぽく青白い。
そんな妹と土日を潰し、勉強漬けで平日を潰す――でもそれって、そんなに悪くない。
アリカ叔母さんが望むような学園生活ではないかも知れない。
しかしそれでも俺は満足だった。現状で十分なのに、どうして気張ってまで何かを変えようと思うだろうか?
欅だってそうだ。あいつはあれで本当に不思議な妹で、投機の才能に恵まているのでゲーム代くらいは朝飯前にひねり出す。今は叔母さんの金でやらせて貰っていることだが、いずれはそれで食っていけるだろう。そんな奴に、そもそも学校なんてものが必要だろうか?
だから多分、俺たちは――ぼっちのインドア野郎であることに満足しすぎていたんだと思う。
単に幸せだったのだ。青春なんてものを、全く必要としないくらいには。