第十七話 変化
というわけで次の週、いつになく勉強に力がこもった。
こうなれば何もかもヤケだ。ここ一、二週間のことを振り返るだけで、心がふわふわ空の方まで浮き上がっていきそうな気がしたからだ。
中間試験一ヶ月前。
いつもは受験向けの勉強をしている俺にとっては、切り替えこそが肝要である。今度こそは一位を取る、もう四位なんて中途半端な結果はゴメンだ。ガチ目な受験勉強のおかげで基礎力は誰よりも高めた自信があったし、これ以上やるとオーバースペック気味ですらある。
でもそれくらいでいい。
本当に勝ちたいなら、勝って当然ぐらいの状態まで持っていくべきだ。でないと努力の途中で自分に言い訳を許すことになる。そんな弱っちい自分なんて想像すらしたくない。
俺は自分のことに集中すべきだ。
今までそうしてきたように、これからもそうであるように。
橘のことは――そうだな、あいつと一緒にいる時だけ気にしていればいい話だろ。
あいつが俺なんかを必要としてくれる、その時だけで……。
中休み、昼休み、ホームルームの時間、行き帰りの電車でも。
文字と向かいあっている間は何も余計に考えることはなかった。
机上には常に殴り書きのノートがおっ広げられ、既にボロボロだった教科書や問題集は更に折り目や手垢で荒んだ。集中すればするほど悩みも吹っ飛んだ。ゾーンに入るあまり、中村たちの嘲りすら聞こえなくなったほどだ。
思えば最近、あまりにぼっちならざる生活を送ってきたように思う。
クラスの女王様に勉強を教えたり、デートしたり、そのことで悩んだり。
だがここに来てやっと、元の強い自分を取り戻した気がした。
これなら行ける。一位を勝ち取れる――――だがもし仮に順位表でトップに立てれば、橘はなんて言ってくれるだろうか?…………って。
俺は唇を強く噛みしめた。血の味を覚えるほど、力強く。
今のは自分史上で一番クソな心の声だった。その一瞬だけで外に叩き出した。後にも先にも、他人の顔を伺うために勉強をしたことはない。いつだって自分のためだ。
だから今のはマジで反省しろよ、クソザコ陰キャ童貞野郎……。
――と。
そんなしょーもない悩み方をしていた時。
良いタイミングで、良い邪魔が入った。二限が終わった直後だった。
「一条君」
見上げると、もはや見慣れた幼いそばかす顔。小松君だ。
外の雨音がザーザーと教室の中にも響いていた。心なしか、クラスの雰囲気も休み時間なのにどんよりと重いのが感じとれる。
「あのね、ここ、教えてほしいんだけど……いいかな?」
そう言ってノートを見せてくる小松君。
ふむ……。
ぼっちなら勉強するのがおすすめだと教えたのは俺だ。別に良いだろう。
「どれ、見せてみ」
日常的に誰かさんに教えているからか、受け答えも淀みない。
結局、彼は感謝して席に戻っていった。
はっはーん。しっかし彼もガリ勉の道を歩み始めおったな。
結果を出す喜びを覚えれば、あのぼっち少年もこの道から抜け出せなくなるに違いない。これからの成長が楽しみだ。俺のライバルになるくらい伸びてくれれば張り合いがある。
でもこのクラス、最近になってガリ勉が増え過ぎじゃないですかねえ。
二、三週間の内に橘さんと小松君だって……?
このペースならもう一人か二人増えても驚くに値しないな、うん。いずれ教室が勤勉な学生で埋め尽くされるんじゃなかろうか。
というわけで――この教室を、ガリ勉のキャンプ地とする!
名付けてジミーズ・ブートキャンプ。もう名前からして絶対ハードだろ……。それどころか『こんなクラスは嫌だ大賞』なんてあったら銀賞ぐらいは取れそうだな。
だが…………でも教室がガリ勉でだらけになって中村氏の顔が真っ赤になるとか、ちょっと見てみたい気もするゾ。怖いもの見たさだ。
しかし起こったことがこれだけなら、それまでの事だったんだが……。
どういうわけか知らないが、その日だけはいつもと違って変だったのだ。
いや――この日から、何かが変わり始めた。
ともかく、それは昼休みのことだった。
集中力を保っていた時に背中をちょんと突かれたのだ。
誰だよ……というか、ははん、突然こんな事するのはあいつくらいだな?
てっきりそう思って振り返ったのだが――意外な奴がそこに立っていた。
「よ。お疲れ」
「あ、うっす……」
あのサッカー部の少年、荻野傑がそこに居た。
キマった髪型のイケメンが、口だけをかすかに緩ませている。突然のジャンル違い野郎の登場に、俺は一瞬ビクりとしてしまった。
「ここ、いい?」
と彼は隣の席を指したので、俺は肩をすくめる。
「別に俺の席じゃねーし……知らんよ」
「そ。なら座る」
でも、割とマジで何しに来た?
ちなみに、他のリア充連中は窓側の方で相変わらずガヤガヤやっている。「きゃはは」という橘の笑い声もこっちに聞こえてきた。この荻野という奴だって、いつもなら確かあそこに居たはずだが。
俺たちの間で微妙な沈黙が二秒くらい流れる。
これ、俺は勉強に戻っていいやつなのか?――思ったところで、ぼそりと。
「一条って、いっつも勉強してんな」
めっちゃ突然だな……。
というかバスの中で小松君が話しかけてきた時も同じ切り出し方だった。やはりと言うか、俺ってばそんなイメージしか無いのな。
「まあ……試験が近いし」
「この前、四位だったじゃん」
「そう、四位だ。つまり一位じゃない。しかも俺より上の三人は毎日部活をやっているかも知れない。なら帰宅部は負けちゃ……いかんだろ?」
「へえ……」
と、荻野は感心したように声を漏らすと、
「で、彼女でもいんの……?」
「どうしてこの流れでそうなるんだよ!?」
この前の氷堂といい荻野といい、間合いのとり方がちょっと独自である。どうも一口にリア充とは言っても実は色んな奴がいるみたいだ。
「いや、かれんに絡まれてた癖に勉強ばっかりだからさ。他に彼女でもいんのかなーって」
う……さては本音は最初からそっちだな。最初からそう言え。
でもどう説明すればいいだろう……いやそもそも、放課後にあいつの勉強を面倒見ていることは口外していいのだろうか。俺も俺で当事者の一人である癖にあの女の事情を何も知らんもんだから、一体何と言っていいやら。
ただ俺個人としても、放課後のあれを他人に知られたいとは思わなかった。自分でも理由が分からないのだが、隠しておきたい気がしたのだ。
だから何となくはぐらかすことにしたのだが……。
「俺は最初から勉強最優先だ。なんで恋愛第一が前提なんだよお前は……」
「へえ?」
「何だよ、ニヤけやがって……」
「じゃあ彼女いないんだ。じゃあそれって、あいつとくっつくかもってことでいいの?」
「色々飛躍しすぎだろ。その『はい』か『いいえ』かみたいなのやめろ。世の中にはその中間みたいなのが沢山あんだよ」
「えぇ……じゃあ、一条はあっちなの?」
「ちげーよ! それは一体、何と何の中間を取った!? つーか、お前らリア充の頭には色恋しか無いんかよ。まったく……」
などという軽いウザ絡みをされたのである。
必死に勉強していたのにもうめちゃくちゃだよ。
だがそれはあんまり突然の事だった。
話の内容なぞいっそのことどうでも良くて、休み時間に誰かに話しかけられるというのが大事件だった。しかも今日はそれが二人と来たものだ。
こんな有様では、もうじきぼっち閉店である。一体どうしてくれるんだ。
とはいえ真面目な話、今日のは何なんだろう?
――と思ったところで。
「きっと傑はキミに興味があるんだよっ。小松君も」
それが橘による一説だった。
いつもの放課後の図書室で。話の成り行きから、あろうことか隣に座っていたこいつに聞いてしまったのだ。
そしてこの話をしてからというもの、雨音と勉強でブルーだった感じのこいつの顔がめっきりと明るくなり始めた。そんな綺麗な笑顔を間近にしてドキリと心臓が波打ったが……勿論この女はそんな事情を気にせず、人差し指を立ててクルクルさせながら話し続ける。
「何かに頑張ってる人って、やっぱりかっこよく見えるもんだよ? ガリ勉はさあ……いっつもガリ勉じゃん♪」
私語モードとなって集中力が切れたらしく、橘は「はふぅ~」と机に突っ伏して顔だけこっちに向けてきた。ニヤニヤと。
「ふむ、頑張ってる人ねえ」
「昼休みとかさ、仲良くしてやればいいじゃん。今なら漏れなくあたしもついてくるから~」
「それはマジでやめろ。後生だから」
「はあ、何でよー!?」
彼女はぷくーっと頬を膨らませた。軽くおこである。
ちょっとあざといので反応に困る。こいつの友達連中みたいに『それかわいいな』とか口が裂けても言えないのが却って俺を苦しめている気がするよ。
というかなあ、お前はいい加減ぼっちの扱い方を覚えろな。
こちとらラブコメ精神科医(笑)にステージ1診断されたばっかりなんだ。まあ俺は絶対に認めないけどな。花粉症患者かよ。
「あれだ。勉強時間が溶けんだよ、お前が来ると」
「ふ~ん?」
「何だよふーんって! 言っとくがマジだかんな! テスト近いんだし控えとけ」
「えー、じゃあテスト終わったら行っていいのー?」
「揚げ足だ揚げ足。いつ来ようが、お前が俺の所に来たら色々不自然だっての」
「ぶー!」
ま、テストが終われば夏休みなので逃げ切りだけどさ……。
だが……どうもこいつは、教室でも今みたいなノリで絡みたいらしい。
この間の遠足の事だけで荻野に突っ込まれる事態になっているのに、それをクラス全体に晒すのは流石に頭痛が痛いどころじゃない。いやもう既に色んな奴に見られているかも分からんのだ。このままでは俺のぼっち生活の危険が危ない。
そりゃ、気にかけてくれてるってのは知ってるつもりだけどさ……。
それでも昼休みだけは誰にも話しかけられないっていうのは、最後の砦のような気がした。これを破られればもう後戻りができないって感じの。
もしや俺は、何かを恐れ始めていたのかも知れない。
他人からどう思われても気にしないなんて、適当にうそぶいておきながら。
ともかく――その後も勉強を教え続けた。
雨音は強くなり、空っぽの図書室はほんのりと暗くなり始めた。
こんなに近くに橘がいる。白い横顔がすぐそこにある。
良い匂いがありありと感じられる距離で。
吐息や明るい色の髪の毛も、時々肌に当たってくる。
気付かない内に、静かな部屋で二人っきり。
そんなのは今日が初めてじゃなかったけど、いつも以上にそれに勘付いてしまう。
だから普段と違う、そういう自分の内面に気づく度に……俺は唇を噛み締めた。
橘が必要としているのは教えることだけだ。それでついて回ってくる、こいつの義理堅さや優しさに甘えるべきじゃない。
まるで教えるプロにでもなったつもりで、俺は感情を殺した。
ほとんど責任感だけで動いていた。多分、それが一番楽なやり方だった。