97.「その人は、決まった名前を持っていなかった」
「その人は、決まった名前を持っていなかった」
「事あるごとに、しょっちゅう変えていた」
「名前の前後に何かの文字や記号を付け加えたりとか、
読みをローマ字に直したりとか、
そういった、分かりやすい変更ではなかった」
「毎回、全く別の名前になっていた」
「跡形もなく変わっていた」
「そして、
その変更を知らせることも無かった」
「何の前触れもなく、
ある日、忽然と変わっていて、
以前の名を誰にも明かさずに、そのまま活動していた」
「それを、何回も繰り返していた」
「理由は、よく分からない」
「でも、いくら名前を変えたとしても、
それがその人なのは、書いた文章を見ればすぐに分かった」
「多分、誰にでも分かる」
「その人の書く文章は、やたらと漢字が多かった」
「びっくり、バネ、サイコロ、ガス、どこ、よそ、つもり・・・」
「全て、漢字で書かれていた」
「他にも、
台詞や馬鹿、慌てる・・・などは、
普段、目にしない方の漢字が宛てられていたし、
楽しい、来る、尽きる・・・などは、
見たことのない古い字の方が、わざわざ使われていた」
「とにかく読みにくかった」
「分からない単語が出てくるたびに、いちいち調べる必要があった」
「読むのに、
普通の人の文章の、何倍もの時間と手間がかかった」
「そして、そこまで苦労して読んだとしても、
書いてる内容はごく平凡なもので、他と特に大差なかった」
「ありきたりな文章」
「単に読みにくいだけ」
「何だ、こいつは・・・と思った」
「はっきり言って面倒だったし、
それに、
自らの漢字の知識を鼻にかけているようで、私は気に食わなかった」
「その人とは、直接やり取りをしていたわけではなかった」
「私が仲良くしていた人の投稿の、返信の中に、
その人の書いた文章が、私のものと一緒によく並んでいた」
「ただ、それだけだった」
「私の投稿に、その人が返信をすることもなく、
また、その逆も無かった」
「交流は無かった」
「なので、
最初のうちは、私はこの人の文章を飛ばしていた」
「読まなかった」
「でも、そうやって読み飛ばしていくうちに、
段々と、その人にバカにされてる気がしてきて、
それが悔しくて、
いつしか飛ばすのやめていた」
「漢字だらけの、そのサイトの誰よりも読みにくい文章を、
毎回、ひとつひとつネットで調べつつ、
自分の中に少しずつ知識を蓄えながら、読むようになった」
「そして、たまたま目についた返信だけでなく、
その人自身の投稿も、チェックするようになっていた」
「理由は分からない」
「ただ何となく、
いつの間にか、気になるようになっていた」
「その人は、どうやら女性のようだった」
「自分でそう言っていたわけではない」
「でも、彼女が書いた内容と、
その彼女に対する、周囲の接し方で、
何となく分かった」
「年は、
多分、私と同じくらい」
「若そうだった」
「談話室で自分の誕生パーティーを開き、
みんなに、無邪気に祝ってもらっていた」
「そして、そうした雑談の冒頭には、
大抵の場合は、彼女の書いた詩が載せられていた」
「丘の上の、動いていない風車や、
夜間の、波のない海にポツンと浮かぶヤシの実など、
遠い、どこかの風景をモチーフにしたものが多かった」
「当時の私は、詩には興味が無かった」
「良さが全く分からなかった」
「談話室には、詩を投稿している人が彼女の他にもたくさんいたが、
私は、そのほとんどを読み飛ばしていたし、
ときどき、気まぐれに読むことがあったとしても、
途中で退屈になってしまい、
すぐに、次の投稿へと移ってしまっていた」
「けれども、彼女の書いた詩は飛ばさなかった」
「最後まで、キチンと読んでいた」
「何故かは分からない」
「明るい詩は、ひとつも無かった」
「静かで、悲しげなものばかりが、
冒頭には、いつも載せられていた」
「彼女も、私と同じく、
何かトラブルを抱えているようだった」
「家族がみんなで楽しそうにテレビを見ている中、
私だけ、
台所でひとり、冷蔵庫に入った残りものをコソコソと食べている・・・とか、
自分の過去を他の誰かに話すと、みんなが泣き出してしまって、
それを見ている時間が堪らなく嫌だ・・・とか、
そんなことを、たまに呟いていた」
「私は、
ときどき、彼女の投稿に返信をするようになった」
「漢字ばかりの、特徴的な文章が返ってきた」
「彼女も、
ときどき、私の投稿に返信をするようになった」
「私も、それに言葉を返した」
「他の人たちと変わらない感じの、
素っ気ない、普通の返事を書いた」
「そんなやり取りを、
互いに、
しばらくの間、続けていた」
「私は、その頃になると、
彼女の文章に、すっかり慣れてしまっていた」
「彼女が好んで使う漢字を、ほぼ全て覚えてしまっていた」
「ネットで調べることなく、
他の人の書いた文章と同じくらいに、スラスラと読むことが出来た」
「もう、読みにくいとは思わなくなっていた」
「別に、何かキッカケがあったわけではない」
「気付いたら、いつの間にか、
談話室の彼女の投稿や、誰かに宛てた返信を探すようになっていた」
「見付けると嬉しかったし、それを片っ端から読んでいた」
「時間を空け、
繰り返し繰り返し、何回も読んでいた」
「彼女のことをもっと知りたい・・・と思うようになっていた」
「色々なことを話したいし、仲良くなりたい・・・と思うようになっていた」
「いつの間にか、好きになっていた」




