95.境内には、ヒグラシたちの声がたくさん響いていた
境内には、ヒグラシたちの声がたくさん響いていた。
泣き叫ぶような、悲しげな声。
バッタたちの声も、
そこに小さく、ほんの少しだけ混じっていた。
変わらぬ細い声で、懸命に鳴いている。
「・・・つらい?」
私は少年の方に顔を向け、尋ねた。
少年は、顔を俯けたまま、
黙って頷く。
私は、その横顔に目を向けたまま、
しばらくしてから、口を開いた。
「どうする?、ちょっと休んでからにする?。
もし嫌なら、ここで止めても――」
話の途中で、
少年は、首を横に振った。
「いい。僕、頑張って聞く」
「・・・休む?」
少年は、
もう一度、首を振った。
「いい。このまま聞く」
私は、そのまま少年をじぃっと見つめ、
少ししてから、顔を前に戻した。
「・・・分かった。
じゃあ、私も頑張って続ける」
「うん。
僕、ちゃんと聞いてるから・・・」
「分かった」
私は一度、目を伏せ、
ひとつ息を吐くと、
それから、ゆっくりと顔を上げた。
参道の向こうに立つ、もう見なくなった鳥居の方を見据えて、
息を吸い込み、
再び、自分の過去を話し始める。
「引きこもりの生活は、
始まってすぐに、昼夜が逆転した」
「朝早くに寝て、昼過ぎに起きる」
「そんな毎日」
「理由は単純。
夜の方が静かで気が休まるのと、
あとは、何て言うか、その・・・、
朝の、活気づく街の雰囲気みたいなものが嫌いだった」
「普通ならば学校に行く時間」
「みんな、ちゃんと学校に行ってる」
「真面目に行ってる」
「でも、私は行かない」
「こうして、
ひとり、部屋に閉じこもってる」
「負け犬」
「ゴミ」
「社会のクズ」
「生きている価値の無い、最低な人間」
「取り返しのつかないことをしてしまった」
「もうダメだ」
「もう普通には生きられない」
「終わった」
「私の人生は終わった」
「もう、どうしようもない」
「・・・そんな中、
家の前を通る、登校中の小学生たちの無邪気な声が耳に入ってくると、
私は、耐えられなくなってしまってさ・・・。
布団の中に、急いで潜り込み、
目をつぶって、耳を塞ぎ、
何も考えたくない、何も考えたくない・・・って、
心の中で、
念仏のように、ただひたすらに唱え続けて、
そうやって、
朝の、嫌な時間が過ぎるのをじぃっと待っていたんだ」
「部屋の中では、主にゲームをしていた」
「最初は罪悪感もあり、控えるようにしていたのだが、
その内、すっかり慣れてしまった」
「あとは、嫌なことを考えなくて済むのもあった」
「要するに、現実逃避だった」
「そうやって、
一日中、ゲームに没頭していた」
「部屋を出るのは、
基本的には、1日に2回だけだった」
「深夜の3時ぐらいと、
あとは、
起きてすぐの、お昼の2時くらい」
「私の母親は、
平日の、その時間はパートに出かけていて、
家にはいなかった」
「念のため、
ドアに耳を押し付け、家の様子を探り、
それからドアのカギを、
音をさせないよう、ゆっくりと慎重に解除し、
そうっとノブを回し、ドアを開け、
部屋の外には、そうやってこっそりと出ていた」
「部屋を出て、まず最初に向かうのはトイレだった」
「それから台所へ行き、冷蔵庫を開ける」
「適当に食料を漁り、急いで口に頬張り、
いくつかは部屋に持って帰る」
「ソーセージとか、チーズとか」
「水はほとんど飲まないし、持ち帰らない」
「ペットボトルに水を入れて持ち帰り、部屋で飲んだことがあったんだけど、
そうしたらトイレが近くなってしまい、
部屋のゴミ箱にたまたま捨ててあった、ビニール袋にするハメになってしまった。
それ以降、飲む水は最小限に留めることにした」
「1週間くらいして、冷蔵庫を開けると、
中に、ラップに包まれたお皿が入っていた」
「大きなハンバーグ。
脇にはインゲンとニンジン、コーンの付け合わせ」
「母親が、私のために調理したものだった」
「私は手を付けなかった」
「手を付けたくなかった」
「その日は何も食べずに、すぐに部屋に戻り、
布団に潜り込んだ」
「次の日の深夜、
空腹に耐えきれず、台所に行き、
冷蔵庫を開けると、
また、ラップに包まれたお皿が入っていた」
「サンマの塩焼きだった」
「迷ったが、食べることにした」
「美味しかった」
「でも、そう思いたくなかった」
「噛む度に、胸が痛んだ」
「妹は、そんな私には、
基本的には、不干渉の立場だった」
「いつも通りだった」
「朝早くに、部活の朝練に向かい、
日が暮れて帰ってくると、すぐさま自分の部屋に戻り、
家の電話を持ち込み、
晩ごはんと風呂の時間以外、
ずっと誰かと楽しそうに、何かの話をしていた」
「接し方が、分からなかったのかもしれない」
「父親も、いつも通りだった」
「夜の8時くらいに家に帰り、
風呂に入り、ご飯を食べ、
部屋に戻ってパソコンをし、
就寝し、
そして、朝になると、
また、ご飯を食べ、
家を出ていた」
「私の父親の印象は、
イスに座った後ろ姿とパソコンの画面、
そして、頻繁に聞こえてくる、
カチカチ・・・という、乾いたクリック音だった」
「休日の父親は、
いつもひとり、自分の部屋で、
一日中、パソコンの画面を見つめて、
無言でマウスを操作していた」
「遊びに連れていって貰った記憶は、
幼稚園のときの、どこかの山のアスレチックが最後だった。
それ以降、一度も無い」
「会話も、ほとんどしたことが無かった」
「話しかけられるのは、
主に、母親に用があるときだけ」
「おい。ちょっと母さんのとこ行って、
この前、渡した書類はどうなったか訊いてこい。
明日、会社に持っていくから」
「私の両親は、いわゆる仮面夫婦だった」
「外では、ごく普通の夫婦を装っていたが、
家の中では、互いにほとんど話さなかったし、
顔も合わせない。
食事も別々だった」
「父親は、
帰ってくると、何も言わずに自分の部屋に行き、
カバンを置き、
上着とズボンをそれぞれハンガーにかけ、そのまま風呂に向かう」
「台所にいる母親は、
父親が帰宅するとため息をつき、皿拭きを中断し、
コンロに火を入れ、食事を温め、
テーブルの上に並べ、
自分の部屋へと引き返し、ドアを閉める」
「風呂から出た父親が、
台所でひとり、新聞を読みながら食事をし、
それが終わり、部屋に戻っていき、
パソコンを始めると、
母親は部屋から出てきて、台所に姿を現し、
父親の食器を洗い、
また、黙って皿拭きの続きをする」
「10年以上、
ほぼ毎日、それが繰り返されていた」
「冷え切っていた」
「父親は、お金を稼いでくるだけで、
残りの、家の全てのことを母親に任せていた」
「炊事、洗濯、掃除、ご近所付き合い」
「勿論、
子供の世話についても、そうだった」
「教育から躾けまで、その全てを任せていた」
「こうなったのはお前の責任だから、お前が何とかしろ。
俺は一切干渉しない」
「多分、そういうスタンスだった」
「休日、私の部屋のドアの向こうでは、
普段通り、
マウスのクリック音が、カチカチ・・・と小さく鳴っていた」
「引きこもって1ヶ月ほど経った、11月の中旬。
昼過ぎに起き、部屋を出ると、
廊下の床に、何かが置かれていた」
「1冊の本」
「引きこもりに関するものだった」
「無性に腹が立った」
「そして同時に、
無性に寂しかった」
「こんなもの読むもんか・・・と思ったけれども、
かと言って、そのまま床に置きっぱなしにしておく勇気も無かった」
「拾い上げ、部屋へと持ち帰り、
机の一番下の抽斗の、一番奥に放り込んだ」
「それから、昼過ぎに部屋を出ると、
そういったものが、たびたび廊下に置かれているようになった」
「不登校や鬱病の本。
フリースクールや精神科のパンフレット。
新聞や雑誌の切り抜き」
「そんなの一切、見たくなかった」
「すぐに拾い上げ、抽斗の中に放り込むと、
それから、いつも通りトイレに向かい、
台所へ行き、
冷蔵庫の中の、私のために作られた冷たい料理を、
ひとり黙々と、作業的に食べていた」
「12月の中旬。
部屋を出ると、廊下に、
いつもと違うものが置いてあった」
「四角い、平べったい箱」
「新品のノートパソコンだった」
「パートで得たお金で、わざわざ買ったのだろう」
「廊下に置かれたそれを、
しばらくの間、じっと見つめて、
その、ノートパソコンの入った箱を部屋に持ち帰り、
トイレに行き、
そのまま部屋に戻り、カギをかけた」
「台所へは行かなかった」
「その日はゲームをすることなく、
ずっと布団の中で、
ひとり、じっと丸まっていた」
「その、次の次の日」
「お昼すぎ」
「私は布団から抜け出すと、
箱を開け、
中から、ノートパソコンを取り出した」
「手書きの紙が入っていた」
「母親の字」
「サイト名とそのアドレスが、いくつも並んでいた」
「不登校や引きこもりの相談所、
フリースクール、通信制の高校、
精神科やカウンセリング」
「その紙から目を離し、脇に置くと、
私はパソコンの電源を入れた」
「最初の設定は済ませてあったが、ネットには繋がっていなかった。
恐らく、分からなかったのだろう」
「幸い、
私は、パソコンに関する知識をある程度持っていた。
学校の授業で習っていたし、
お昼休みのときは、
よくパソコン室に行って、ひとりで時間を潰していた」
「私は居間に行き、
無線LAN・・・いや、通信機器の設定をメモすると、
そのまま部屋に戻り、
ノートパソコンをネットに接続した。
その他の設定も軽く済ませ、
それから、
紙に書かれたアドレスを、ひとつずつ打ち込んでいった」
「ひと通り、サイトを回り終えた」
「世間には、
自分と同じような人々が大勢いることが分かった」
「自分だけではないことが分かった」
「過去、そういった人々がどうやって立ち直り、
そして現在も、そういった人々がどうやって立ち直ろうとしているのか、
その活動の一端を知ることができた」
「道筋があることが分かった」
「何とかしたい、何とかしよう・・・という気持ちが、
自然と自分の中に湧いてきた」
「連絡をしてみよう、と思った」
「電話番号をいくつかメモし、再び居間に向かった」
「でも、いざ電話を前にすると緊張してしまい、
なかなか、かけることが出来なかった」
「しばらくの間、
突っ立ったまま、電話をじーっと見つめ、
30分くらいして、ようやく受話器を取り、
メモを何度も確認しつつ、ボタンをゆっくりと慎重に押していき、
最後の番号で動きを止め、
少ししてから、指を伸ばしかけ、
途中で、すぐに引っ込め、
受話器を静かに置く」
「10分ぐらいして、また受話器を取り、
ボタンを押していき、
途中でやめ、
受話器を戻す」
「そんなことを繰り返している内に、
母親が、パートから戻ってくる時間になってしまった」
「世間は、もうすぐクリスマスで、
その後、学校は冬休みに入る。
連絡するのは、年が明けてからにすれば良い」
「自分にそう言い訳し、
結局、電話をすることなく部屋に戻った」
「それから2、3日の間は、
与えられたノートパソコンで、不登校や引きこもりのサイトを検索し、
真面目に情報を集めていたのだが、
やがて、自分の好きなサイトばかりを閲覧するようになってしまった」
「本格的に動き出すのは年が明けてからにすれば良い・・・と、自分に言い訳して」




