91.「一応、お参りしておこうか」
「一応、お参りしておこうか」
キザハシの前に立った私は、
そう口にしながら、手に乗せたLEDのスイッチをONにした。
外周から滲み出た光が、私の手元を明るくし、
手首の、ワイシャツの袖先を淡いオレンジ色に染め上げる。
私は、すぐにスイッチをOFFに戻した。
腰を曲げ、
キザハシの2段目の、もう1コの隣に並べて置き、
ゆっくりと頭を起こす。
格子戸の奥に広がる、闇の向こうを少し眺め、
やがて、
ふぅ・・・と、息をひとつ。
顔を、
キザハシに座る、少年の方に向ける。
「お参り、しよ?」
もう一度、声をかける。
少年は、
1段目の、向かって左寄りに腰を下ろしていた。
立てた両膝に、自分の両手を乗せたまま、
顔を俯けている。
私は何も言わずに、黙って待つ。
少し遅れて、少年は膝から手を下ろすと、
その手を、キザハシの1段目につき、
下を向いたまま、
無言で立ち上がった。
「・・・先に、お参りする?」
迷った末、尋ねると、
少年は、首を横に振った。
じゃあ・・・と言いかけた私は、すぐに口を噤む。
そのまま、
何て言おうか、考えていると、
少年は前に歩き出し、
3歩ほど進んだところで立ち止まり、
再び、こちらに振り返った。
「あ、うん。
じゃ、先にお参りさせて貰うね」
私は、そう声をかけて、
少年が譲ってくれた場所に入った。
神社の方を向き、格子戸の奥を見つめ、
手を2回叩く。
両目を閉じ、
左右の手を合わせたまま、頭を下げていく。
顔を上げると、
横に1歩ズレてから、少年の方を振り返った。
確か、正しいやり方があったはずだが、
忘れてしまった。
訊いておけば良かった。
少年は、
下を向いたまま、神社の方にトボトボと進み出た。
手を2回、小さく叩き、
両手を、そのまま胸の前で合わせ、
ゆっくりと頭を下げる。
風。
私の髪が、僅かに揺れる。
少年は、頭を起こした。
その場で、体の向きを反転させる。
「あ、ちょっと待って」
座ろうとしていた少年を慌てて止めると、
私は、
キザハシに置いた、自分のカバンの方を振り返った。
中腰の体勢のまま、ファスナーを開け、
虫除けスプレーを取り出し、立ち上がる。
《お肌にやさしい子ども用》
裏面にある、細かい字の注意書きにも目を向けつつ、
少年の方に向き直す。
「手、出して。
・・・あ、両手の方が良いかな」
キャップを外し、
少年の、差し出された手の上にノズルを向ける。
・・・プシュッ。
・・・。
・・・プシューーーッ。
「顔とか首筋には、それで自分で塗って。
他は、スプレーで吹き付けるから」
両手を顔面に押し当て、静かに擦り始めた少年の頭に、
私はノズルを向けた。
プシューーーッ。
「・・・ちょっと後ろ向いて。
首も自分で塗ってよ?。
あ、まだ早いって。
・・・あぁ、手に塗ってほしいのか。
・・・。
これで良い?。
・・・うん。
あ、後ろ向かなくていいから。
このまま先に、前を終わらせちゃおう」
「・・・うん、もう良いよ」
私は、
そう口にしてから、立ち上がった。
ノズルを自分の手のひらに向け、スプレーを噴射する。
顔に塗りたくり、目を開けると、
少年は、
まだ、そこに立っていた。
こっちを向いている。
「どうした?、もう座っても良いよ」
声をかけると、
少年は、
開いた手を、私の前に差し出した。
「もしかして手伝ってくれるの?」
少年は、下を向いたまま、
黙って頷く。
「ありがとう。じゃあ、手伝って貰おうかな。
ちょっと待ってね。もう一回、手にかけるから。
・・・はい、
じゃあ、これ」
私は、スプレーを少年に手渡した。
後ろを向き、
首に塗りながら、
その場に、しゃがみ込む。
・・・。
・・・。
・・・。
「結構それ固いから、上から思いっきり押さえないとダメだよ」
・・・。
・・・プシュッ。
・・・。
・・・プシューーーッ。
「・・・うん、頭はそれくらいで。
背中はいいや、スーツだし。
その代わり、こっちにかけてよ。
・・・こっちの手も」
「うん、ありがとう。助かったよ」
立ち上がった私は、
少年からスプレーを受け取りつつ、お礼を言った。
左右に軽く振り、
液体の、サラサラとした微かな音を確認してから、
キャップを閉める。
少年は、キザハシの方を振り向いた。
ほんの少し歩いて、元の場所に戻ると、
腰を下ろす。
体の前の、立たせた両膝の、
その膝頭を、それぞれの手で軽く握って、
足先の境内の地面に、黙って目を向けている。
私も、少年の横に腰を下ろした。
すぐに、カバンの方へと上体を捻ると、
持っていたスプレーを中に戻し、
代わりに、
レモネードの入った、黄色いペットボトルを抜き出す。
「はい、これ・・・あ、ちょっと待って」
少年の方を向き、渡しかけた私は、
オレンジ色をしたキャップ付近の、首の部分を摘み持ったまま、
もう片方の手で、ペットボトルの胴体をギュッと握った。
熱くない。
だいぶ微温くなっている。
すぐさま、摘み持っていた方の手を一旦離すと、
また、キャップごと深く握り直し、
そのまま両手に、力を込めた。
・・・ガリッ。
「はい、これ」
「・・・」
「あ、フタ開いてるから気を付けて」
「・・・」
「ん?、どうした?」
「・・・ありがと」
「うん」




