92.キザハシの、一番低い段に腰を下ろし
キザハシの、一番低い段に腰を下ろし、
体育座りをして、
膝先で組んだ手と、その向こうに覗く地面の土を眺めていた。
地面は平らで、
小石も、枯れ枝も落ちていない。
草も生えていないし、アリの姿も無い。
何も無い。
何も動いていない。
止まっている。
夕日に照らされているだけの、何の変哲もない地面の土を、
ただ、黙って眺めていた。
ツクツクボウシは、今も私たちの周りで鳴いていた。
声が、少しだけ弱まった気がする。
逆に、
それまで小さく押しやられていたヒグラシたちの声は、徐々に大きくなってきていた。
数は、まだ少ないが、
その鳴き声は、
今は、確かに聞こえてきている。
私は、
目線を伏せたまま、顔を左へ向けた。
自分の、すぐ左脇に置いてあるレモネードを見つつ、
膝先で組んでいた手の力を緩めようとした矢先、
逆の右隣で、衣服のスレる音がした。
私は、離しかけた手を慌てて掴み直すと、
動きを止め、耳を澄ませる。
すぐに、
ペットボトルをキザハシから拾い上げたような、微かな音が聞こえた。
次いで、
キャップを回す、カラ、カラ、カラ・・・という軽い音がして、
チャプン・・・という、容器の内側に水が当たった音。
また、
カラ、カラ、カラ・・・という音が聞こえて、
それから、
衣服のスレる音と、ペットボトルを置いた音。
体の向きを戻す音がして、
ちょっとしてから、
ゴクン・・・という、喉の鳴る音がした。
私は、
自分のレモネードの方に向けたままの顔を、
ゆっくりと正面に戻した。
自分の組んだ手と、その向こうにある地面の土に、
再び目を向ける。
息を、
鼻から、深く吸い込んでいき、
ほんの少し間を置いてから、
そのまま、静かに吐き出していく。
少年は、
なかなか話し出そうとしなかった。
ずっと押し黙っていた。
ときどき、
隣から、レモネードを飲む音が聞こえてくるだけで、
それが、もう10回は続いていた。
途中、
声をかけよう・・・とも思った。
でも、そちらに顔を向けて、
少年の、
その、
地面の一点を見つめて一生懸命に何かを考えているような横顔を目にしてしまうと、
どうしても、声がかけられなかった。
もうちょっとだけ待ってみよう・・・と、前に向き直し、
また、しばらくしてから隣へ顔を向け、
少年の横顔をじっと見て、
少ししてから、
また、何も言わずに前に向き直し・・・。
そういったことを何度か繰り返し、
そして、
そうこうしている内に、
今ここで話しかけてしまうと、私が痺れを切らしたように思われるのでは・・・と、
そんなことを考えてしまうようになり、
それで、余計に声がかけづらくなってしまっていた。
私は、息をひとつ吐いた。
顔を俯け気味のまま、目だけを上に向ける。
視界の上端、ちょっと先の参道に、
チラリと、鳥居の影。
コケを乗せた、その重たそうな頭の影が、
地面に大きく映り込んでいる。
さっき確認したときよりも、更にこちらへ接近していて、
今も、私の見ている先で、
ほんの少しずつ、にじり寄ってきている。
ただ、この鳥居の影は、
多分、私たちのところには到達できないだろう。
私は、顔を僅かに起こす。
鳥居の、その大きな頭の影の、
左右の端の辺りからは、
柱の、細い影が、
それぞれ、長く向こうへ延びていた。
左の1本は、
参道を左に外れた場所で茂っているシダの中から斜め右へ、
つまり、参道に近付きつつ向こうへ延びている影で、
右の、もう1本は、
参道の右の際の辺りを、まっすぐ延びていく影。
それら2本の柱の影は、
しかし、
宿主の元に行き着く前に消えている。
鳥居の後方にあるササ原の、更に向こうで高々とそびえ立つスギたちの、
たくさんの真っ黒い影が、
こちらへ、グングンと迫ってきていて、
あっという間に、鳥居のところまで辿り着き、
今は、
その先に延びる、2本の細い影を、
下の方から、ジワジワと無感情に取り込んでいる。
そろそろ良いかな・・・。
私は、
僅かに起こしていた顔を、また俯け、
視線を左へ向けた。
レモネードに手を伸ばし、体の前に持ってくると、
反対の手でキャップを開け、口元へ。
そのまま、手に持ったペットボトルを上に傾けていくが、
水面には、ギリギリのところで届かない。
仕方ないので、
目をつぶってから、顔を上に向ける。
私の頬や目元を、西日が照らす。
瞼を透過してきた光が、
視界を明るく朱色に、ぼんやり染める。
仄かなレモンの香り。
鼻を抜けていく。
舌に絡みつくような、濃厚な甘い味は、
もう、温かくない。
すっかり冷たくなっている。
私は、
顔を下に向け、口からペットボトルを離すと、
それを左右に細かく振りつつ、上から覗き込む。
あと半分くらいか。
キャップを閉めていると、
隣から、衣服のスレる音が聞こえてきた。
・・・。
カラ、カラ、カラ・・・。
・・・ズズーッ。
・・・。
・・・ズッ。
・・・ゴクン。
・・・。
カラ、カラ、カラ・・・。
どうやら、
少年の方は、既に飲みきってしまったようだ。
その、空になったペットボトルを置く音は、
しかし、聞こえてこなかった。
手に持ったままか、
あるいは、足の間に挟むかしているのだろう。
私は、
少し待ってから、
自分のペットボトルを、脇にそっと置いた。
そして、
体育座りの、立てた膝先の向こうで両手を組むと、
その向こう側の、
日が射しているだけの、何の変哲もない地面の土を、
再び、ぼんやりと眺めた。
辺りが、
急に、ふっ・・・と暗くなった。
ついに、影に覆われたのだ。
私は、顔を上げる。
無人の参道が、
正面に、まっすぐ延びていて、
少し離れたところに、
石の鳥居が、ポツンとひとつ。
鳥居の頭の、太い2本の梁のずっと向こうには、
高々とそびえ立つスギたちの、真っ黒な梢がズラッと横に並んでおり、
それらの梢の上は、
レモネードと同色の、まだ明るい空。
太陽の姿は、
でも、そこには無い。
参道の右側に並び立つ、スギの木立のテッペンの、
その裏側へと隠れてしまっている。
境内の、ここ一帯を今しがた覆った影は、
そちらから伸びてきたものだ。
私は顔を俯け、
それから、自分のペットボトルの方を見た。
手を伸ばし、掴んで、
体の正面へ。
キャップを回して外し、
現れた飲み口を、自分の口元へと持っていく。
顔をそのまま上へ傾け、
止まって、
下を向くと同時に、口を閉じる。
ペットボトルを上から覗き込みつつ、その底を素早く小さく振り回して、
レモネードの薄い水面を、遠心力で外へと押し付ける。
口の中に残っていたものを、ゴクンと飲み込み、
ひと息つき、口を開けると、
そのまま、
後ろに反り返って、顔を真上に向ける。
視界中央の、
ぼやけた、大きなペットボトル越しに、
雲ひとつない、広い紺色の空。
小さな星々。
点々と。
都内の夜空よりも、既に多いような気がする。
口を開けたままで滴を待ち、
しばらくしてから、逆さに持ったペットボトルを上下に何度か振ると、
口を閉じ、
空を仰ぎ見るのをやめて、顔を下に向ける。
キャップを少々キツめに閉め、カバンの方を振り向き、
開けて、
その奥へと押し込む。
次いで、
ファスナーを閉め始めたところで、
私は、その手を止めた。
カバンの中の、空になった自分のペットボトルをじっと見つめる。
少ししてから、
手を再び動かし、ファスナーを閉めると、
前を向く。
お尻を片方ずつ浮かせて座り直し、
また、膝先で両手を組み、
そうして、
参道の向こうの方の、石の鳥居へ目を向ける。
段々と暗くなってきた。
ツクツクボウシは、まだ鳴いている。
しかし、聞こえてくるのは、
もう、ほんの僅かだった。
代わりに、たくさんのヒグラシたちが、
周囲の森の、そこかしこで、
その甲高い声を、遠くの方まで響かせている。
私は、顔を少年の方へ向ける。
少年は、同じ体勢のままだった。
体育座りのような格好で、
体の前の左右の膝頭に、それぞれ手を乗せて、
軽く握り込んで、
顔を俯け、
自分の足元の地面を、
まばたきもせず、じぃっと見つめていた。
少年の頭が、
呼吸に合わせ、
ときどき、前後に小さく揺れ動く。
私は、
少年を見るのをやめ、前を向いた。
参道の途中に、
鳥居の形の、暗いシルエット。
その背後には、
更に真っ暗い色でそびえ立つ、深いスギの森。
空は淡いクリーム色で、
明るさを、
もう、だいぶ失っている。
遥か上から、
宇宙が、少しずつ降りてきている。
しばらくして、
私は、顔を俯けた。
そのまま、
膝先で組んだ自分の手を、じっと見つめる。
目を閉じ、息を深く吸い込んでいき、
止め、
ゆっくりと吐き出していく。
少ししてから、
それを、もう一度繰り返す。
更に、もう一度。
私は、目を開けた。
頭を起こす。
前を見据え、口を小さく開いて、
間を置いて、
そっと、空気だけを吐き出す。
息を、
また、大きく吸い込んでいき、
呼吸を止め、
やがて、
私は、声に出した。
「・・・学校に、行ってなかった時期があるんだ」




