90.「え?。どうする・・・って?」
「え?。どうする・・・って?」
私は老人の方を振り向き、訊き返した。
老人は、
神社の方を見据えたまま、手に持ったライトをそちらに差し向け、
すぐに下ろし、
また、口を開いた。
「あんなとこで本当に良いのか・・・って、
俺は、そう訊いてるの」
老人は顔をこちらに向け、私を見る。
「あ、そういう・・・。
えーと・・・、」
私は、
鳥居の向こうにある、境内の奥へと目を向ける。
あんなとこ・・・と言われたヨモノ神社は、
確かに、やや寂れた外観をしていた。
神社の正面の、軒下には、
その軒を支える太い木の柱が2本、左と右で立っていた。
木の柱は、
年月を経たためか、
茶色というよりも、ぼやけた灰色が近く、
柱を受けている、それぞれの土台石からは、
湿ったような質感の黒色のシミが、少しずつ登ってきている。
その2本の柱の、軒に近い高さを水平に結ぶようにして、
太くて立派な、木の梁が渡らせてあった。
梁には、何も飾られていない。
雷のような形の、ギザギザの白紙を垂らした注連縄も無ければ、
大きな鈴や、それを鳴らすための鈴緒も無い。
賽銭箱も置いてない。
神社の縁側に上がるための、
数段ほどの、木造りの階段の上はガランとしている。
階段を上がった先の、
縁側の、その向こうには、
大きな格子戸があり、閉ざされていた。
縦と横に何本も走っている、碁盤の目のような木の格子を、
夕日の光が、明るく照らし出している。
屋根に目を向けると、
そこには、
すっかり艶を失った、くすんだ朱色の瓦が乗っていた。
軒先の方にある瓦は何枚か剥がれていて、
下地の板が、顔を覗かせている。
私は、屋根に向けていた視線を下ろすと、
境内のあちこちを、
ざっと、遠目に見回した。
神社を指差しつつ、老人の方に顔を向ける。
口を開いた。
「あの、すみません、
あそこの階段に腰掛けても大丈夫ですか?」
「階段?。
・・・あぁ、社に上がるキザハシのことか」
老人は、
そう言って、顔をこちらに向けた。
私は、指していた手を下ろす。
「はい、
座れそうなところが他に見当たらないので・・・」
「あぁ、まぁ、
どうせ誰も来ねぇし、いいけどよ・・・」
老人は、
そこまで言ってから、ひとつ大きく鼻息を漏らした。
そして、
「じゃ、行くか・・・」
と呟き、
ひとり、神社に向かって歩き始めた。
「え?。あ、ちょっ・・・。
・・・ほら、行こう?」
少年とともに、慌てて後を追う。
「ふたりで、ゆっくり話していくんだろ?。
さっさと行こうや。
俺だって、そんなにヒマじゃないんだ・・・」
「あ、はい。すみません・・・」
こちら側に、ときどき大きくはみ出しているササの枝葉を蹴飛ばしつつ、
ササ原の中央に延びる、枯れ葉の小道を進んでいく。
太陽と月の、石の置き物の間を通り抜け、
更に少し行くと、そこからは道幅が広がった。
両脇のササ原も、それに合わせて途切れ、
地面に近いところで葉を広げている、たくさんのシダたちと、
そのすぐ背後でそびえ立つ、鬱蒼としたスギの森へと変化した。
正面には、
剥き出しになった硬そうな地面が、まっすぐ向こうへ延びており、
ところどころに、
点々と、スギの枯れた枝葉が落ちている。
一帯を、ずうっと広く覆っていた影から抜け出て、
日の当たる、明るい場所を進むようになると、
老人は端に寄った。
「参道の真ん中は神様の通り道なんで、譲るのが作法なんだ。
・・・一応な」
「そうなんですか。知りませんでした」
老人に続き、私も端に寄る。
道に沿って、
畑の畝のような、枯れ葉の山が延びている。
その近くを歩いていく。
顔を僅かに上げる。
視線の先に、
石造りの、大きな鳥居。
高いところに、
ほんの少し反り返った、太い梁が横たえてあり、
その上を、
緑色のコケが、モコモコと厚く覆っていた。
コケは、
鳥居のテッペンから、こちら側へと、
多少、零れ落ちてきており、
夕日が黄色く照らす梁の、
その、こちら側の表面を伝うようにして、
緑色のモコモコを、下に伸ばしている。
次いで、
足を動かしつつ、鳥居の柱に目を向ける。
細い蔦が1本、長く。
同じ大きさの、かわいらしい小さな葉を、
交互に左右に、ひとつずつ広げながら、
まっすぐ高く上っていた。
石でできた、その柱の表面は、
ザラザラとしてはいたが、凹凸はそれだけだった。
蔦は、空を目指し、
その僅かな凹凸の表面を伝って、まっすぐ上っている。
鳥居の真下辺りまで来ると、
老人は歩きながら、小さくお辞儀をした。
これも、作法なのだろう。
私は老人に倣い、お辞儀をした。
3人、順番に鳥居の下をくぐっていく。
「参道の話で思い出したけどよ・・・」
老人の声が聞こえた。
「え?。あ、はい」
すぐさま視線を起こし、返事をする。
「ガキンチョの頃、親父に訊いたことがあったんだ。
たくさんいる神様たちの中には、謙虚なのもいるんだろ?。
その神様が参道の端っこを歩いてたらどうするんだ。
ぶつかっちまうじゃねぇか、ってな」
「あぁ、確かに」
「だろ?。
したら親父のヤツ、俺の頭をポカッと殴りやがって、
そんで、こう言ったんだ。
そんなんだからお前はダメなんだ。
いいか、こういうのは気持ちが大事なんだ。
実際の行動じゃなくて、
神様に道を譲ろう、という心がけが大事なんだ。
謙虚さを忘れないためにやっているんだ・・・って」
「なるほど」
「だから俺、親父に言い返したんだ。
だったら、心の中でだけ端っこを歩いていれば良いじゃねぇか。
謙虚な気持ちで堂々と真ん中を行けば良いじゃねぇか。
わざわざバカ正直に、端に寄る必要ねぇじゃねぇか・・・ってな。
したら親父のヤツ、
話の途中で、また俺の頭を殴りやがってよ・・・。
いいから、お前は黙って端に寄ってれば良いんだ!、
つべこべ文句言うな!、そういう決まりなんだから仕方ないだろ!、
だいたいお前はいつもいつも・・・って、顔真っ赤にして怒り始めやがってよ。
謙虚な気持ちとやらは、どこに飛んでったんだよ?。
決まりなら決まりって、始めからそう言・・・あ、兄さん」
「え?。あ、はい、何でしょう」
笑いを堪えつつ、話を聞いていた私は、
顔を上げる。
老人は立ち止まり、こちらを振り返った。
「着いたぞ」
そう口にした小柄な老人の、その顔の向こうに、
私は目を向ける。
私たち3人の影が、
木造のキザハシを上り、縁側の床を伸び、
西日が照らし出す神社の格子戸に映り込んでいた。
少年と私は、老人を待っていた。
老人は、
ちょっと、ここで待っててな・・・と言い残し、
すぐそこにある神社の角を曲がって、裏手の方へと歩いていった。
「ほら、座ろう?」
私は、そう言いながら、
後ろを振り返る。
「・・・」
そんな予感は、
何となく、していた。
さっき、
標識のところで声をかけたとき、元気が無かったし、
それに、参道を歩いている途中、
足元に映り込んだ、少年の影の頭が、
ちょっとだけ短かかった。
私は、
目の前で立ち尽くす少年を、黙って見つめた。
ツクツクボウシたちが、
辺りの森で、その大きな声を絶え間なく響かせている。
もう一度、声をかけようか迷った。
しかし、
少ししてから、息をひとつ吐くと、
何も言わずに、神社の方に向き直した。
そのまま歩いていき、
縁側の手前にある、キザハシの1段目の、
右の端っこにカバンを下ろす。
顔を上げたついでに、
閉ざされた格子戸の向こう側を覗き込む。
一番奥にあるはずの祭壇の姿は、ほとんど確認できなかった。
下の方だけが、
闇の中に、薄っすらと見えている。
祭壇の前には、
人が立ち入れぬよう、
柵のような、木でできた低い衝立が置かれており、
衝立の足元には、
この格子戸にはめられている、薄汚れたガラスを透過した太陽光が当たっていた。
敷き詰められた、お座敷の畳の上に、
まるで都会の夜景に浮かび上がるビルのような、たくさんの四角い明かりと、
その中に、
表情の無い、私の影の頭が映り込んでいる。
ふと、視界の片隅で、
何かが動いた気がした。
そちらに目をやると、
マス目状に並んだ夕日の窓の、下の方に、
影の頭が、小さくちょっとだけ映っていた。
そのまま黙って見ていると、
影は、もそもそと動いて、
やがて手前に、ゆっくりと引っ込んだ。
座ることにしたのだろう。
「おーい、兄さん、持ってきたぞー」
声が聞こえた。
振り向くと、
神社の角から出てきた老人が、こちらに歩いてきていた。
手には、もともと持っていたライトと、
反対の手には、アイスホッケーのパックをひと回り大きくしたような、
厚みのある白い円盤が握られていた。
私は老人の元に駆け寄り、それを受け取る。
「すみません、助かります」
円盤の上半分は、
見ると、半透明の白いプラスチックで覆われていた。
この部分が光るのだろう。
ひっくり返し、裏側を確認する。
円形の、大きな凹みがあり、
その中央には、
黒色の、小さな四角い突起物があった。
指先を当て、
パチンと、スライドさせる。
ひっくり返した円盤の下半分が、パッと明るくなる。
オレンジ色の、淡い光。
「燈籠に使うLEDだよ。
意外と虫も寄ってこねぇし、便利なんだぜ、それ。
・・・ほら、兄さん、こいつも」
差し出された老人の手には、
いつの間にか、燈籠用のLEDがもう1コ握られていた。
ダウンジャケットのポケットにでも、入れていたのだろう。
「え?。
あ、いや、1コだけで充分ですよ。
2コなんて、そんな・・・」
手を広げたまま、
体の前で、左右に細かく振り、
断ろうとすると、
老人は、
「途中で電池が切れたらマズイだろ?」
と言って、
ほらよ、と、
持っていたLEDを、私の広げた手の前へ突き出した。
「すみません。
ありが・・・あ、ちょっと待って下さい」
「何だよ、早くしろよ・・・」
私は、掴みかけた手を引っ込めると、
自分の手元にある、
光ったままのLEDのスイッチをOFFに戻した。
改めて、老人の持つLEDへ手を伸ばす。
「ありがとうございます」
お礼を言いつつ、受け取ると、
老人は、大きく鼻息を漏らした。
「・・・じゃあな」
そう言い残し、
私の横を通り過ぎていく。
「あ、ちょっと・・・」
私は、慌てて呼び止めた。
老人は足を止め、こちらを振り返る。
「何だよ。まだ何か用か?」
「あ、いや、そうじゃなくて・・・、」
私は、
両手のLEDを僅かに持ち上げ、更に続けた。
「これ、返すとき、
どうすれば良いのかなって思いまして・・・」
「あぁ、そういやそうか。
・・・まぁ、そこら辺のどこかに適当に置いときゃいいよ。
またいつか、ここに来たとき、
戻しておくからよ」
「え?。
でも、それだと盗られませんか?」
「こんなの誰も盗らねぇし、そもそも人なんか立ち寄らねぇよ。
タヌキとかネズミとか、あとはフクロウとか、
それくらいしか、ここには来ねぇよ」
「でも、一応・・・」
私が食い下がると、
老人は顔を右斜めに俯け、その後頭部の辺りを左手で乱暴に掻いた。
「あぁ、もう、
だったら社の裏のどこかに置いといてくれ。
それで満足か?」
そう言った老人は、私の顔を見上げた。
「あ、はい。すみません・・・」
私は、小さく頭を下げる。
「・・・じゃあな」
「あ、ちょっ・・・。あの、すみません」
参道の方へ向き直ろうとしていた老人は、すぐに動きを止めた。
顔だけをこちらに向ける。
「何だよ、兄さん」
「あの、ここで飲み食いしても大丈夫でしょうか」
「あ?。あっちの息子と・・・じゃなかったな、
従弟の小坊主と、ドンチャン騒ぎでもしようってのか?」
老人は、
そう言いながら、首から下もこちらに向けた。
「いえ、そうじゃなくて・・・。
その、お茶なんかを飲みながら話したいな・・・って」
「別に良いけどよ。
ただし、ゴミはちゃんと持ち帰ってくれよ?」
「分かりました」
「・・・」
「?。
えっと、何でしょう・・・」
「他は?」
「え?、他って?」
「まだ俺に用があるか、訊いてるの」
「あ、はい。えーと・・・」
「・・・無いなら、このまま帰るからな。
俺だって、そうヒマじゃないんだ」
「あ、ひとつだけ」
「なんだ、あるのかよ・・・」
「はい・・・」
「・・・本当に、ひとつだけだろうな?」
「はい」
「泣こうが喚こうが、
これっきり、俺はもう振り返らねぇぞ?」
「はい、大丈夫です」
「・・・何だよ?」
「色々と親切にして頂き、ありがとうございました」
頭を下げると、
老人は大きく鼻息を漏らし、私に背を向けた。
「じゃあな。
遅くならないうちに、とっとと帰れよ」
ライトを持っていない方の手を、その肩越しで左右に揺らしつつ、
ひとり、夕日の射す参道の端っこを、
小柄な老人は、長い影を引き連れて戻っていった。
作中に出てくる『鳥居の太い梁』は、
調べたところ、ちゃんとした名称があるようです。
下にある真っ直ぐのものは貫と呼び、
上にある少し反ったもの(真っ直ぐなものもありますが)は、
こっちは実は2本を上下に重ねたものになっており(写真で見ると、よく分かります)、
土台の方を島木、
その上に乗っている屋根の部分を笠木と呼ぶようです。




