88.その小さな石碑は、背中をススキに押されつつ
その小さな石碑は、背中をススキに押されつつ、
道路の脇に、ひっそり佇んでいた。
外観は、
いかにも長い年月を経てきたような、そんな感じで、
かつては鋭く尖っていたであろう、それぞれの角や辺は、
今や、
ひとつ残らず、すっかり丸みを帯び、
その上、
あちこちが細かく欠け落ちていて、デコボコだった。
台座に近い、下の部分は、
緑色のコケが薄っすら満遍なくこびり付き、まるで青髭のようになっている。
私は、
石碑の正面に回り、視線を下へ向けた。
しかし、すぐに顔を上げた。
左右へ目を走らせ、
それから、
また下を向いて、後ろへ2歩下がる。
《ヨモノ古道》
視線を起こす。
前方に広がるススキの原を分け入るように、
剥き出しの地面と小石、疎らな草からなる、寂しげな小道が、
まっすぐ向こうへ延びていて、
その先にそびえるスギの森の、奥深くに続いている。
私は、自分のすぐ隣へ目を向ける。
少年が、私を見上げていた。
「行こっか」
声をかけると、
少年は、すぐさま顔を森の方へ向けて、
しばしの間、そちらをじっと眺めて、
また、私を見上げて、
そうして、静かに頷いた。
私は、
その少年の顔から目を上げた。
ヨモノ古道と、その先にある鬱蒼としたスギの森を見据えて、
そのまま、歩き始めた。
ススキの原を抜け、森の中へ足を踏み入れると、
辺りは途端に薄暗くなった。
空気も、
それに合わせて、更にひんやりとしたものへと変わる。
道の両側には、まっすぐなスギの幹が、
ずうっと奥の方まで、何本も何本も高く立ち並んでおり、
下の地面は、
シダが、その特徴的な葉で、
全てを深々と覆い尽くしていた。
小道を、ふたりで進んでいく。
騒がしかったバッタたちの声は、段々と後ろへ遠ざかっていき、
小さくなっていった。
代わりに、
今は、
ツクツクボウシの大きな声が、たくさん森に響き渡っていた。
ヒグラシの声も、僅かだが聞こえる。
遠くの方で、こっそり鳴いている。
私は足を動かしつつ、上を仰ぎ見た。
視界の左右を挟み込んでいるスギの枝葉の、真っ黒なシルエットの間に、
紺色の空と、そこに散りばめられた小さな星々が、
小川のように、
うねうね細く、長く延びている。
随分と高さを感じる。
森の中に延びるヨモノ古道は、
幅2mくらいの、比較的平坦な道で、
下には、
スギの、針のような硬い枯れ葉とその枝が、
絨毯のように薄く積もっていた。
左右の足を踏み出すたび、
その感触とともに、ザクザクと音が鳴った。
古道をしばらく進むと、
前方から、ライトの明かりが近付いてきた。
地面を照らしつつ、
誰かが、こっちへ歩いてきている。
ある程度、互いの距離が近くなったところで、
ライトの明かりが、
不意に、こちらへ向けられた。
私は、思わず目を細める。
ライトは、すぐさま下へ向けられた。
しかし、
私の視界に、その強烈な光が焼き付いてしまい、
前が見えづらくなってしまった。
私は足を止めると、そのまま脇へ寄った。
そこに伸びていたスギの、ゴツゴツとした硬い樹皮に手を添え、
前方から来る誰かの方へ、目を向ける。
視界が回復するのを待つついでに、
前から来た人を、ここでやり過ごすことにした。
程なくして、
前方からザクザクとした音が近付き、
やがて、
私の目の前に、ニット帽をかぶった小柄の老人が現れた。
暖かそうな、黒色のダウンジャケットを羽織っていて、
背中には、何も背負っていない。
荷物は、手に持っているライトだけのようだ。
老人は、
こちらをジロジロと見ながら、横を通り過ぎていく。
挨拶をしようか迷ったが、
結局、頭をちょこんと小さく下げるだけにした。
老人も、
こちらを見たまま、ゆっくり頭を下げ、
次に、
私のすぐ後ろに立つ、少年に目を向けた。
足を動かしつつ、
徐々に上半身の向きを変えていきながら、
少年の方を長く、じぃっと見ていたが、
やがて老人は、
その顔を向こうに向けた。
私は、
添えていた手をスギから離すと、道に戻った。
少年の方を振り向く。
「行こ――」
「おーい、ちょっとそこの兄さん」
離れたところから、大きな声が聞こえてきた。
目の前の少年の、そのずっと背後。
先程の老人だろう。
私は、声の方に顔を向ける。
思ったとおり、
黒のダウンジャケットを着た老人が、
ライトで足元を照らしつつ、こちらへ引き返してきていた。
「兄さん、
こんな遅い時間にそんな小さい子を連れて、どこ行くの?。
この先、なーんもねぇぞ?」
「え?。
えと、ヨモノ神社ってところに行くつもりなんですけど、
それって、この先に無いんですか?」
私がそう訊くと、
近くまで来た老人は、
「え?、ウチの神社に?。これから?」
と言って、
それから少年の方に目を向け、
「こんな小さい子を連れて?」
と、付け足した。
「あ、はい」
「何で、わざわざウチに?」
老人は、
そう言いながら、改めて私の方へ向き直す。
「あぁ、
えっと、ふたりきりで誰にも邪魔されずゆっくり話したいと思いまして。
あっちの、ファイヤードラゴンって名前のコンビニで、
どこか静かなところがないか訊いてみたら、こっちにヨモノ神社があるって・・・」
「静かって言うか、逆にここはセミとかがうるせぇじゃねぇか。
タヌキやヘビだって出るし、ゆっくりなんか出来ねぇよ。
どこか、もっと別に良いとこあったろ。
そもそも、車ン中で話せば良いじゃねぇか」
「え?。
あ、いや、歩きです」
「歩きぃ?」
「はい。
電車に乗ってきまして、さっきヨモエ駅で降りました」
「・・・何でまた急に、こんなド田舎の駅で降りることにしたんだ」
「ふたりきりで、ゆっくり静かに話したいと思いまして・・・」
老人は、それを聞くと、
左右の肩を上げつつ、息を深く深く吸い込んでいき、
ほんの少しだけ間を置いて、
それから、
大きく鼻息を漏らすと同時に、その上げた肩をガックリと一気に落とした。
「・・・で、どれくらいかかるわけ?」
「?、どれくらい・・・ですか?」
「話だよ、話。
どれくらい時間かかりそうなの、って訊いてるの」
「あぁ、えっと・・・、」
私は、少年を見た。
少年は、下を向いていた。
黙っている。
私は再び、老人の方へ顔を向けた。
「30分くらいです、多分」
「30分?。
うーん、30分ねぇ・・・、」
老人は、そう口にしながら、
片手をまっすぐ前方へ伸ばし、
そこから肘を曲げ、手の甲を自分の胸の近くに持っていった。
反対の手で持ったライトの明かりを、そこに当てて、
腕時計を覗き込む。
「兄さん、
30分後って言ったら、もう完全に夜じゃねぇか。
ここら辺、明かりなんか1個もねぇから真っ暗だぞ?。
何も見えねぇぞ?」
小柄な老人は、
両方の手を下ろすと、私を見上げた。
「え?。あの、その、
明かりなら、一応ヘッドライトを持ってますけど・・・」
トミヤマでの作業のときに使ったものだった。
「んな小っせぇ明かりひとつじゃ、大して変わらんだろ」
「いや、まぁ、確かにそうですけど・・・」
私が口ごもると、
老人は、
鼻息をひとつ、大きく漏らした。
ほんの少し間を置いてから、おもむろに口を開く。
「まったく、仕方ねぇなぁ・・・。
じゃあ、これから一緒についていってやるよ」
「え?、一緒に?。
えと、どういう・・・」
「あぁ、もう・・・、」
老人は、いかにも面倒そうに声を上げると、
顔を右斜めに俯け、
その後頭部を手で何度か掻いた。
すぐに、
また、私を見上げて、
言葉を続ける。
「これから社に兄さんたちと一緒に行って、
それで、ウチの明かりをひとつ貸してやろう・・・って言ってるの」
「え?、でも・・・。良いんですか?」
「良いも悪いも、そうする他ねぇじゃねぇか。
ヘッドライトの明かりひとつじゃ、どうにもならねぇだろ。
山ン中の真っ暗闇で、小っちゃい明かりがひとつでふたりっきり・・・って、
もう、ほとんど怪談じゃねぇか。
勝手に他人んところで、妙なモンおっぱじめるんじゃねぇよ」
「あ、はい。
ありがとうございます・・・」
お礼の言葉を口にすると、
老人は、
また、鼻息を漏らした。
手に持ったライトの明かりを、
道の先へと、サッと向ける。
「ほれ、さっさと行くぞ。
俺だってそんなにヒマじゃねぇんだ」
「あ、はい」
そう返事をした私は、少年をチラリと見て、
それから、
もう歩き始めていた老人の背中を、慌てて追った。
「まったく、
何でまた急にこんなところで・・・」
「・・・あの、もしかしてヨモノ神社の神主さんですか?」
「あ?、・・・そうだよ。正確には宮司だけどな。
俺は、そこの・・・、
えーと、いくつだったかな。
35代・・・いや、38代だったかな・・・。
まぁ、とにかく、
だいたいそれぐらいの、由緒ある神社の宮司よ」




