82.列車の後ろ姿が、だいぶ小さくなった
列車の後ろ姿が、だいぶ小さくなった。
少し見ただけでは、
走っているのか、それとも停まっているのかは分からない。
大きさは、
もう、ほとんど変わらなくなっている。
私は、息をひとつ吐くと、
右へ向けていた視界を、正面にいる少年の方へと戻した。
「ど・・・」
うする?、と続けるつもりだったが、
途中で声を弱めた。
少年は、
私が見ていた方向とは逆の方へ、目を向けていた。
じぃっと何かを見ている。
私は、今度は顔を左に向けた。
少年の視線の先を確かめる。
少年が見ているのは、
どうやら、
ホームの中ほどにある、瓦屋根の小屋のようだった。
壁は木の板で出来ていて、
窓は、こちらの面には付いていない。
先ほど、列車がホームに入っていったときにも、
この小屋は、窓の外にチラリと見えた。
恐らく、待合室だろう。
その、小屋のような待合室は、
見るからに古そうだった。
壁の板は、
長い年月を経たためか、全体的に白んでグレーに近い色となっており、
その表面には、
木の節と木目からなる、黒い模様が付いていた。
左右の軒の下からは、
ネズミ色の雨樋がそれぞれ壁の端っこを伝い、まっすぐホームまで下りていたが、
それにも、
ところどころ褐色のシミが、こびり付いている。
「どうする?」
私は、そう尋ねつつ、
小屋の壁の左と右に据え付けられている、2枚の白い案内板を見ていた。
朱色の、すっかり掠れた線で、
《←2番線》《1番線→》と、それぞれ薄く書かれている。
ついさっきまで列車が停まっていた方が1番線だ。
「どうする・・・って?」
少し間を置いて、少年が訊き返した。
私は、
古びた待合室に目を向けたまま、答えた。
「あぁ、えっと・・・。
今からあの中でお話しても良いけどさ、
次の列車まで、あと1時間くらいあることだし、
どうせだから、
ちょっとその辺を、ふたりでブラブラしてみようかな・・・って」
「・・・」
「どこかで温かいお茶でも買ってさ、
それを飲みながら、ゆっくり話しても良いかなぁ・・・って」
「・・・ここ、お店あるの?」
少年の声が、途中でこちらに向く。
「自販機くらいあるでしょ・・・、」
私はそこで言葉を切り、
少年の方を向き、更に付け足した。
「きっと」
「・・・」
「ちょっと探して見つからなかったらさ、
そしたら、
また、ここに戻ってくれば良いだけだし」
少年は、
何も言わずに、顔を待合室の方へ向けた。
じぃっと眺め、
しばらくしてから、
また、顔をこちらに向け、
口を開く。
「うん、分かった。
お茶買ってからにする」
「・・・」
「・・・なに?」
「え?。あ、いや、余計なおか・・・」
ね・・・と言いかけたが、
咄嗟に声を止める。
「ねぇ、なに?」
「いや、何でもない。
じゃあ行こう」
私は、少年から目を逸らすと、
そのまま後ろを振り返って、待合室に背を向けた。
ホームの先っぽにある下り口を確認し、
そちらへと足を踏み出す。
少年が、すぐに私の隣に並んだ。
「ねぇ。
さっき、何て言おうとしたの?」
「何でもないって」
「言って」
「え?。
いや、その・・・」
「余計な・・・」
と、少年が口にしたので、
慌てて声を出す。
「えっと、そうじゃなくて・・・。
その、何て言うか、難しいんだけど・・・、
あ、余計なお菓子が残ってないかな・・・なんて」
「チョコのこと?」
「そう。それ」
「うん、分かった。ちょっと待ってて」
少年は立ち止まり、
ズボンの左右のポケットを、両方の手で、
パンパン・・・と、何度か軽く叩いた。
私もすぐに足を止め、半身の体勢で振り返る。
少年は、片方のポケットに視線を向け、
そちらだけ、
また、軽く叩いた。
次いで、
そのポケットに手を突っ込むと、ひしゃげた赤い紙箱を抜き出す。
側面のフタを開き、
箱を斜めにし、手の上にチョコを出す。
まず1コ。
箱を何度か小さく振って、更にもう1コ。
少年は、箱を自分の耳の近くに持っていき、
それを細かく振って、中の音を確かめた。
そして、
振っていた手を下ろし、私を見上げると、
そのまま、チョコが乗った手をこちらへと差し出し、
口を開いた。
「これ、2つともあげるー」
「え?。
いや、1コでいいよ・・・」
「ううん。2つともあげる」
「・・・ふたりで1コずつにしよ?」
「ううん。いい」
「・・・」
「あげる」
しばらくの間、少年の顔を見ていた私は、
やがて、
開いた手を、黙って少年の前に差し出した。
少年は、
見上げるのをやめ、差し出された手のひらに視線を向けると
そこへ、チョコを乗せた手を持っていき、
ゆっくりと傾けていく。
「・・・ありがと」
「うん」
顔を上げずに返事をした少年は、
そのまま、体を横に向けた。
紙箱の開いた口を、自分の口元へと近付けると、
近付けた距離を保ったままで、一気に真上を向く。
顔の上で逆さになった紙箱を小さく何回か振り、
チョコの細かい欠片を、口に流し込んでいく。
夕日の中、
少年は、今は顔を俯け、
下ろした紙箱を上から覗き込みつつ、
その側面を反対の手で、黙々と叩いていた。
私は、
少年から貰ったチョコを、2つとも口の中へと放り込む。
味がしない。
少年は、
箱の辺を、角の方から少しずつ慎重に千切っていき、
中を開き始めた。
私は、
口の中のチョコを、ときどき思い出したように舌の上で転がしつつ、
少年を、
静かに、じぃっと見つめていたが、
しばらくしてから、顔を上げた。
キョロキョロと辺りを見回す。
2番線の向かい側。
背の高い木立に目が止まった。
しばらく眺めて、
そちらへと足を向ける。
ホームの縁に立った。
下を覗き込む。
足元にあるホームが生み出す影の中、草が深く生い茂っており、
朽ちた枕木が、その中に埋もれていた。
レールは無い。
枕木だけが、草の中に点々と並んでいる。
私は、
そのまま顔を右に向けていき、自分の影を探した。
すぐに見付かった。
ぼうぼうに茂る草の上、
向かい側の木立の方へと、斜めに長く映り込んでいる。
私は、少年の方を振り返って言った。
「こっちに来てごらん」
「あ、ちょっと待って・・・、」
少年は、
お菓子の紙箱を両手でクシャクシャに丸めると、ズボンのポケットに押し込み、
顔を上げ、
ホームの縁に立つ、私のところへ駆け寄ってきた。
「なにー?」
「あっちに茂みが見えるでしょ?」
私は、
そう口にしつつ、木立の方を指差す。
「あっち?。
・・・背の高い草が、たくさん生えてるところ?」
「うん、そう。届く?」
「・・・?、何がー?」
「手」
「届くわけないじゃん」
「私は届くよ。ほら」
私は、自分の手を真上に高く伸ばした。
向かい側の茂みに、
私の影の、手首から先が映り込んだ。
「あー、そういうことー」
「そういうこと。届く?」
私は、
頭の上で、握ったり開いたりしていた手を下ろすと、
そう言って、少年の方に顔を向けた。
「ちょっと待って。やってみるー」
少年は背伸びをし、手を上に伸ばす。
斜めに伸びた、私の長い影。
すぐ隣に寄り添うようにして、少年の短い影。
先っぽからは、細い手が伸びているが、
茂みには届いていない。
少しだけ、距離が空いている。
「ちょっと届きそうにないね」
「えー、あれくらい楽勝だよぅ」
そう言った少年は、
上げていた手を下ろすと、顔を俯け、
自分の足元に目を向けた。
「あ、ちょっと待って」
「え?。なにー?」
両手を後ろへ振り上げようとしていた少年は、動きを止め、
私を見上げた。
「落ちると危ないから。
もっとこっち」
「あ、うん、わかった。
・・・ねぇねぇ、
僕の影、ちょっと見ててー。
下を見ながら、おもっきりジャンプするから」
「はいよ」
少年は、ホームの端から1歩だけ離れて立つと、
下を向いたまま、両手を後ろへ振り上げた。
足を曲げ、姿勢を低くし、
両手を胸元に引きつけると同時に、勢い良く跳び上がる。
開いた手を空に向け、精一杯に突き出す。
・・・着地。
すぐさま、私を見上げる。
「どうだったー?」
「うーん、惜しい。あとちょっと」
「えー・・・。届いたでしょー?」
少年は、
納得のいってなさそうな声で、そう言った。
「いや、ギリギリ届かなかった」
「・・・じゃあ、今度はもっと本気出すから、
もっかい見てて」
「さっきのは本気じゃなかったの?」
「うん。ちょっとだけ本気じゃなかった」
そう言いながら、両手を前後に振っていた少年は、
やがて、その両手を大きく後ろへ振り上げた。
先ほどよりも足を深く折り曲げ、さらに低くしゃがみ込むと、
次の瞬間、
思い切り高く、伸び上がった。
左手を空に向け、一直線にピーンと伸ばす。
「・・・どうだったー?」
「惜しかった」
「えー・・・。届いてたでしょー?」
「いや、届いてない」
「・・・あと、どれくらいだったー?」
「コレくらい。
ほんのちょびっと。
だから、もう1回やってみよう」
「・・・」
「ほら、諦めちゃダメだよ。チャレンジチャレンジ」
「・・・ねぇ」
「何?」
「ホントに僕の影、ちゃんと見ててくれたー?」
「ん?、・・・見てたよ?」
「その割には、足がずっとこっち向いてたけど・・・」
「あぁ、首から上は影の方に向いてたから」
「・・・ほんとー?」
「うん、本当」
「・・・」
「本当だって」
少年は、
私の目を、じぃっと見ていたが、
しばらくすると、
何も言わずに顔を下に向け、視線を自分の足元に向けた。
両手を後ろへ振り上げ、
足を折り曲げ、
その場で、すぐにジャンプ。
勢いが無い。
手も上げない。
代わりに、顔をこちらに向ける。
目が合った。
「・・・」
「いや、手を上げてなかったから・・・」
「チョコ返して」
「もう食べちゃった」
「返して」
「いや、もう食べちゃったから」
「・・・」
「・・・行こっか」
「うん」




