81.夕日に照らされた、ひとけのないホームには
夕日に照らされた、ひとけのないホームには、
横付けした列車から斜めに伸びる影が、
向かい側にある縁の辺りまで、かかっていた。
ホームに映る、その影列車には、
傾いた明るい窓が、乗降口に立つ私の足元から向こうへ伸びていて、
そこに、私の両足の影と、
少年の、腿から胸にかけての影が、
吊り革を握る乗客の、肩まわりのシルエットとともに映り込んでいた。
私は、
その、眼下に見える明るい窓へと、
足を差し出す。
靴底に、
影が、吸い付くようにして近付いていく。
車外に身を晒すと、
途端に、周囲の空気が少し冷たくなった。
顔を上げつつ、
1歩、2歩。
立ち止まり、それから後ろを振り返ると、
西日が顔に当たった。
どうやら頭だけは、既に影列車を降りていたらしい。
「寒くない?」
目を細めながら、
出来るだけ声を大きくして、少年に尋ねた。
辺りには、
先ほどから、けたたましい踏切の音が鳴り響いている。
「へい――」
言葉の最後は、
踏切の音に阻まれ、聞こえなかった。
でも、
多分、”き”だろう。
口の動きが、そんな感じだった。
私は、息を吸い込んだ。
口を開き、
声を発しようとした、ちょうどそのとき、
不意に、列車のブザーが鳴らされた。
私は、留めていた息を解放し、
一拍置いてから、顔を上げる。
プシュー。
ガラガラッ・・・、ガシャン。
扉が音を立てて閉まり、
列車が、のっそりと動き出す。
私の目の前を、
乗客たちの横顔が、その周りを囲う窓枠と一緒に、
ゆっくりゆっくりと、右へ流れていく。
窓の向こうで、白髪交じりの年老いた女性客が、
細くなった左右の手で、それぞれ大きく弧を描きながら、
懸命に口を動かしており、
向かいに座る、中年の女性客が、
笑いを堪えつつも、顔の前で手を横に振っている。
その女性がもたれているシートの裏では、
メガネをかけた、若い男性客が座っていた。
口の開いたナップサックを、体の前で片手で抱え、
やや前傾姿勢になって、もう片方の手を自分の正面へと伸ばしている。
男性の姿は、
右へ、そのまま流れていき、
代わりに、
私の視界には、
その伸ばした手の先にある、
色とりどりのドロップのイラストが描かれた、平たい缶が入ってきた。
逆さに持ち、
1回、2回と振っている。
向かい側の席には、
髪の短い、小さな女の子。
真剣な表情。
差し出されたドロップの缶のちょっと下へ、視線を向けている。
きっと、窓枠の下では、
女の子の両手が、逆さになった缶の口に添えられているのだろう。
列車は、徐々にスピードを上げていく。
ホームに残った私たちのすぐ近くを、どんどん通り過ぎていく。
程なくして、
目の前を流れていた列車の車体と窓が、パッと無くなった。
奥行きが、一気に解放され、
田園の、広々とした長閑な風景が現れる。
緑色の絨毯のような見た目の、稲の植わった田んぼ。
夕日を浴び、少し色褪せていて、
その向こうの方には、
何本かの電柱と、
それを結ぶ、撓んだ細い電線。
家々の屋根。
そして、
更に、ずっと向こうには、
木々に覆われた、山々の斜面。
遠くで、そびえている。
私は、顔を右へ向けた。
向こうにまっすぐ延びる、一対のレール。
黄色みを帯びた、淡い水色の空のもと、
列車の四角い後ろ姿が、
駅のホームから、少しずつ離れていく。
踏切の音が、
半端なタイミングで、唐突に切れた。
すぐ向こうにある遮断器のバーが、ゆっくりと上がり始める。
何も通らない。
誰もいない。
けたたましい音が去ったおかげで、
辺りは、急にひっそりとした。
しかし、それは一瞬で、
すぐに地面のあちらこちらから、
バッタたちの、鈴のような鳴き声が聞こえてくるようになった。
リリリリリ・・・。
ジィー。ジィー。ジィー。
ルルリィ、ルルリィ。
ジジジジ、ジジジジ。
声のひとつひとつは、それほど大きくはない。
しかし、何しろ、
夥しいほどの数のバッタが、そこら中で鳴いていた。
数百、あるいは数千もの細い声が幾重にも折り重なり、
奥行きのある音となって、周りに響き渡っていた。
その、
ひとときも休まることのない、大量の鈴の音に、
私たちは、
今や、すっかり取り囲まれている。
辺り一帯の音は、
ちっぽけな体に過ぎない彼らの群れが、完全に支配していた。
夏の終わり、その夕暮れ。
ときどき吹き付ける風は、もう既に秋のそれで、
やや肌寒い。
次第に遠ざかっていく列車の後ろ姿に目を向けつつ、
私は、少しの間、
ただ静かに、
虫たちの声に耳を傾けていた。




