79.車内にブザーが響き、扉が閉められた
車内にブザーが響き、扉が閉められた。
ちょっと遅れて、短く警笛の音。
床下から、
やや控えめな、空気の漏れ出す音が聞こえて、
その音が鎮まると同時に、列車がのっそりと動き出す。
徐々に上がっていくエンジン音。
私の背中に、
ウレタン製の、少し固めの背もたれが押し付けられ、
車体の細かい振動が、直に私の内側に。
ホームの柱が、
横を、
1本ずつ、ゆっくりと通り過ぎていく。
次第に速くなっていく。
窓の向こうを塞いでいた、薄暗くて殺風景な壁が途切れた。
外に出る。
景色の奥の方、左右の端から端まで、
鬱蒼とした緑の、山々の斜面。
そのずっと手前、
この線路のすぐ近くを並走している道路の脇には、
閑散とした駐車場。
見覚えのある赤い自販機が、
視界の更に手前を高速で横切っていく電柱や街路灯、街路樹とともに、
後方へと去っていく。
微かに踏切の音。
あっという間に近付き、
目の前を通り過ぎたかと思うと、急に音を変え、
そのまま遠ざかる。
その後は、
窓のすぐ傍を、何かの建物の壁が覆った。
しばらくして、それが切れると、
外の風景は、
向かい側の離れたところでそびえる、山々の斜面だけになった。
手前の開けた空間には、何も見当たらない。
木も、電柱も、建物も無い。
ポッカリと広く空いている。
程なくして、列車の走行音も重さが抜け、
遠くまで響き渡るような音に変化する。
橋梁に差し掛かったのだろう。
恐らく今、列車は川を渡っているのだ。
私は、
列車の、少々騒がしくなった音に耳を傾けつつ、
窓の外の、ずっと向こうの方の、
木々の深く生い茂った山麓を眺めていた。
やや沈んだ色調の、落ち着いた緑。
眩しさは、既に無い。
見える景色の全てが、仄かに黄色みを帯びている。
少しずつ後ろへと流れていく。
やがて、列車の音が元に戻った。
窓のすぐ近くを、
木々の枝葉が、引っ切りなしに次々と横切っていく。
私は、外を見るのをやめた。
顔を正面に向ける。
視界の端に、少年の姿。
向かいの背もたれが、やけに広く感じる。
私は、スーツの内ポケットに手を伸ばす。
中でスマートフォンを掴んだが、
少ししてから、指を離す。
その手を、
膝上にある、もう片方の手の上へ。
顔を俯け、目を瞑る。
カタン、コトン。
カタン、コトン。
小気味良い、列車の走る音。
それに合わせ、
小さな振動が、私の体を抜けていく。
繰り返し繰り返し、抜けていく。
列車が何度か停車し、発進し、
その後、長めのトンネルを抜けた辺りで、
私は目を開けた。
少年の声が、聞こえた気がした。
顔を上げ、
向かい側のシートの、窓際の席に視線を向ける。
項垂れたままの、少年の姿が目に入った。
出発前と変わらない。
全く一緒。
シートのクッションとお尻の間に両手を差し込み、
背中を丸めて、
自分の腿の辺りを、じっと見ている。
私は口を開きかけ、
そのまま、
何も言わずに、ゆっくりと閉じた。
窓際の、小さなその姿を、
黙って見つめる。
カタン、コトン。
カタン、コトン。
少年は、項垂れたままだった。
顔を上げなかったし、声も聞こえてこなかった。
列車がカーブに差し掛かり、
私は、傾いた体をすぐに戻す。
少年も、すぐに戻す。
カタン、コトン。
カタン、コトン。
やはり、気の所為だったのだろうか。
私は息を小さく漏らすと、正面に向き直した。
顔を俯け、目を閉じていく。
しかし、
すぐさま、その目を開けた。
自分の組んだ足の、膝頭の向こうを、
しばらくの間、じぃっと見つめ、
それから、おもむろに頭を起こす。
顔を少年の方に向け、
一呼吸置き、口を開く。
「・・・どうしたの?」
列車の走行音に掻き消されぬよう、声を大きくして尋ねた。
返事は、聞こえてこなかった。
顔も上げない。
俯いたまま。
腿の辺りを、黙って見つめている。
私は、
少し待ってから、
もう一度、声をかけた。
「さっき、何か言わなかった?」
返事は、
やはり聞こえてこなかった。
顔も上げなかった。
しかし、少し遅れて、
少年は、
今度は俯いたまま、
小さく、僅かに、
そっと頷いた。
「どうしたの?」
私は、改めて訊いてみた。
少年は、
そのまましばらくの間、自分の両腿を見ていたが、
やがて、頭をゆっくり起こすと、
顔をこちらに向けた。
私の目をじぃっと見つめて、
少ししてから口を開く。
「あ――ね、ぼ――ね・・・」
「え?、何?。
電車の音がうるさくて、ちょっと聞こえない」
「あの・・・」
「うん」
「・・・」
少年は、私の顔を見据えたまま、
しばらくしてから、口を一瞬だけ大きく開いたが、
すぐに小さくしていき、
その開けた口を、また噤んでしまった。
顔を俯け、目を伏せる。
私は、組んでいた足を解いた。
前かがみになり、
片耳を少年の顔の近くへ寄せる。
「これなら聞こえる。話してみて」
「・・・」
「・・・話してみて」
少し間を置いてから、
少年の、息を大きく吸い込む音が聞こえた。
「・・・あのね」
「うん」
「僕、実はね・・・」
「あ、ちょっと待って」
私は、話を途中で遮ると上体を起こした。
少年を見て、尋ねる。
「その話って、もしかして長い?」
「・・・」
少年は、
そのまま、私の顔をじっと見ていたが、
やがて、
その、上げていた目線を僅かに下ろすと、
自分の真正面にある、無人の背もたれに目を向けた。
静かに見ている。
静かに考えている。
「えと・・・。じゃあ、大事な話?」
質問を変えると、
少年は前を見据えたまま、コクン・・・と頷いた。
私は口を開く。
「分かった。
なら、次で降りよう」
少年が、
すぐに顔をこちらに向けた。
丸い目が、
2つとも、やや大きく。
口も、小さく少し。
驚いたような顔つき。
私は、
その顔を見ながら、更に言葉を続ける。
「駅のホームで、ふたりでゆっくり話そう。
電車は1時間に1本とかだし、
それに来たとしても、
乗り降りする人は、きっとほとんどいない。
多分、ここよりは落ち着いて話せるだろうから」
少年は、
それを聞くと視線を外し、下を向いた。
そして、
少ししてから、
また、私を見上げて、
黙って頷いた。
私も、黙って頷いた。




