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Summer Echo  作者: イワオウギ
I
77/292

77.後ろを通り過ぎていく人々が、徐々に増えてきた

後ろを通り過ぎていく人々が、徐々に増えてきた。

数分前に、

観光客たちの一団が、堰堤の中央の方へ歩いていったが、

今は、それとは逆の方向だった。

ケーブルカーの発車時刻を気にする声が聞こえる。

私は、自分の内ポケットに手を伸ばした。

スマートフォンを少し抜き出し、顎を引いて画面を確認し、

すぐに戻す。

さっきと変わらない。

時刻も、目の前に広がる渓谷も。


もともと乗るつもりだったケーブルカーは、

既にここを()ってしまっていた。

次は15分後で、

これがトミヤマに戻るための、今日の最終便だった。


私は、

遠くへ目を向けたまま、視線だけを下に向けた。

間近に、

焦点の合っていない、ぼやけた銀色の手すり。

その背後の、ずっと奥には、

水煙が薄っすら棚引く、谷の底。

河原と川。

遥か下で、小さく細く。

それらを、

ぼんやりと、見るともなしに眺めていた。

ただ眺めていた。


やがて私は、息をひとつ吐き出した。

顔を上げ、少年の方を向き、

そのまま少し、少年を見つめて、

それから告げた。


「帰ろう」


まっすぐ前を見ていた少年は、

それを聞くと、

少ししてから、顔をゆっくりと俯けていった。

足元の、ダムの放水を、

何も言わずに、じぃっと眺める。

私は、

そんな少年を、無言で見つめる。


程なくして、

少年は、顔を上げた。

こちらを向き、私を見上げる。


「いよいよ、お別れだね・・・」


少年は、そう言ってから鼻をすすった。

2つの小さな目が潤んでいる。

私は口を開いた。

一拍置いてから、溜めていた息を吐き出し、

それから、

息を大きく吸い込み直すと、そのまま声に出した。


「いや・・・、一緒に帰ろう」


少年は、

一瞬、目を大きくした。


「・・・え?」


「これから一緒に、トミヤマに帰ろう」


「え?、え?。どういう・・・え?。

 だってさっき、あそこでチケット・・・」


「買ってない。

 タチヤマ方面のチケットを買おうと思ったけど、あそこじゃ買えなかった」


「え?、だって都内から来たんでしょ?。

 これから帰るって・・・」


「うん、帰る」


「だったら、何でタチヤマ・・・」


私は目を伏せ、

またすぐに、少年の顔をまっすぐ見据えて、

それから言った。


「こんなところに、子供ひとり置いて帰るわけにはいかない。

 キミをトミヤマまで送り届けたあと、都内にはそれから戻る」


「僕、僕、ひとりで帰れるよ!。

 平気だよ!」


少年は、

胸の前で左右のコブシを強く握りしめて、

大きな声で、そう訴えかけた。

私は、首を横に振った。


「・・・ダメだ。置いていけない」


「だって遠回りになっちゃうし、

 それに・・・、

 それに、お金だって余計にかかっちゃうよ?」


「分かってる」


「だったら・・・」


「ダメだ。置いて帰るわけにはいかない」


「僕、ひとりで帰れるよ!」


「ダメだ」


少年は、懇願するような目つきで、

しばらくの間、私の顔を黙って見上げていた。

私も目を逸らさずに、

少年の、

その2つの、小さく揺れる黒い瞳を、

黙って見つめていた。


少年は、

やがて、両手をゆっくりと下ろしていった。

顔を俯けていき、

その場に、静かに項垂れた。


「どうして・・・」


「・・・」


「どうして言ってくれなかったの?」


「・・・」


「そしたら僕・・・」


「・・・ほら、行こう。

 もう、あまり時間が無い」


私は少年を見るのをやめ、足元のカバンに視線を落とすと、

体を屈めて、拾い上げた。


「・・・」


「ほら」


「・・・」


少年は、顔を俯けたままだった。

返事をしない。


「・・・行くぞ」


「・・・」


私は、少年に背を向けた。

そのまま少しだけ返事を待ったあと、

ケーブルカー乗り場の方へ、足を踏み出した。

何歩か進み、振り返ると、

少年は、ついてきていなかった。

下を向いたまま、

ひとり、立ち尽くしていた。


「ほら、早く。

 これを逃しちゃうと、今日中には帰れないんだぞ」


少年は返事をしなかったが、

少し遅れて、頭を僅かに起こして、

項垂れたままで、

こちらに向かって、トボトボと歩き始めた。

私は、それを確認すると、

また、乗り場の方へ向き直した。

そして少年を待つことなく、

ひとり、歩き始めた。



ダムの堰堤を渡り終えた。

私は、

トンネル入り口の、水色の大扉のところで立ち止まり、

後ろを振り向く。

視線の少し先、堰堤の端っこ、

顔を下に向けたまま、力なく歩く少年の姿が視界に入る。

次いで、その少年の背後に目を向けると、

こっちを見ていた観光客たちが、すぐさま顔を背けた。


私は、

その場で少し、少年を待っていた。

しかし、

やがて、いたたまれなくなり、

それで少年に背を向け、また歩き始めた。

トンネルの、コンクリートの内壁に、

私の革靴の音が、

コツ・・・コツ・・・と、孤独に鳴り響く。


不意に、

正面から、男の子の無邪気な笑い声が聞こえた。

私は視線を起こす。

トンネルのカーブの先から、

すぐに、

髪の短い男の子と、その両親らしきふたりの大人が姿を現した。

3人で仲(むつ)まじく、楽しそうに歩いている。

私は再び顔を俯け、その家族と擦れ違う。

明るい声が、次第に遠ざかっていく。


彼らは今、

ひとり、落ち込んで歩く少年の姿を、

()の当たりにしているに違いない。

私は息をひとつ吐き出し、それから顔を上げた。


長く続く、薄暗い通路。

その奥に、やや明るい場所があり、

制帽をかぶった係員の姿と、向こう向きに並んだ人々の後ろ姿が見えた。

30人くらい。

行きのときより、だいぶ人数が減っている。


私は、

白い蛍光灯と灰色の景色の中、

ひとり、歩いていく。


私の革靴の音。

通路を行き交う人たちの、いくつかの靴音。

いくつかの話し声。

いくつかの笑い声。

背後の遠くの方からは、ダムの放水の音。

まだ、微かに私の耳に届いている。


私は、ずっと前を向いていた。

後ろを振り返らなかった。

胸が、苦しかった。

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