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Summer Echo  作者: イワオウギ
I
76/292

76.放水の音が、辺りに重々しく響いていた

放水の音が、辺りに重々しく響いていた。

ひと時も休まること無く、響いていた。


少年の顔を見ていた。

ただ、じっと見ていた。

少年の、澄んだ黒い目が、

ときどき、またたく。

口は、固く結ばれたまま。

無言。

返事を待っている。


私は、

一旦、口を開きかけ、

すぐに閉じた。

ひと呼吸置き、顔をゆっくりと正面に戻す。

谷の遠く向こうに目を向ける。


「・・・そっちは、どうだった?」


「僕?」


「うん」


「僕はねー、」


声の向きが、途中で変わった。

少年も、谷の方へ向き直したのだろう。


「僕は、すっごく面白かったー」


「・・・どんなところが面白かった?」


「えーっとねー、

 ・・・いろいろー」


「色々って?」


「えと、

 まずは、ダムがすっごく大きくて、

 すっごく高くて、

 水が、

 あんな所から、すごい勢いでドドドーって噴き出ていて、

 ナイアガラの滝みたいなってて・・・」


「・・・」


「あと、

 池もすっごく広くて、すっごく深いし、

 いろんな場所に行けて、いろんなものがあって、

 景色もキレイで、いい空気で、

 だから、

 僕、すっごく面白かったー」


「そっか・・・」


私は、

遠くに目を向けたまま、そう返した。


「ねぇねぇ、そっちはどうだったのー?。

 ダム、面白かったー?」


少年の声が、

再び、こちらを向く。


「私は・・・」


そう口にして、

私は、顔を静かに俯けた。

眼前には銀色の手すり。

傾き始めた太陽の日差しを、薄っすら白く返している。


「・・・うん」


少ししてから、

少年の、その先を促す声が聞こえた。

私は、息をひとつ吐いた。

顔を上げ、口を開く。


「私は・・・、

 私は、面白くなかった」


無言。

放水の音。


「・・・え?。

 今、何て・・・」


間を置き、返ってきたその問いかけに、

私は、

もう一度言った。


「私は、面白くなかった。

 ダムの面白さが、私には分からなかった」


「・・・でも、

 でも途中で立ち止まって、景色をいっぱい見ていたよ?」


「うん、見てた」


「だったら・・・」


「私が止まって見ていたのは、

 だいたい、木とか山とかの自然の風景だよ。

 ダムじゃない」


「ダムだって見てたでしょ?」


「ちょっとだけね」


「面白くなかったの?」


「そんなに」


「・・・どうして面白くなかったの?」


「何ていうか、ピンと来なかったんだ。

 何かが動いてるわけじゃないし、見た目が変わるわけでもない。

 想像力を掻き立てるような、そんな凝った仕掛けが見えるわけでもない。

 山奥に、コンクリート製の巨大な建築物があるだけ。

 時代背景やその規模、実際の運用を見据えた設計のことを考えてみれば、

 それは確かに凄いことなんだろうけど、

 でも、ピンと来なかったんだ。

 私には、面白いとは思えなかったんだ」


「木とか山だって、そこにあるだけだよ?。

 動かないよ?」


「動いてるよ。

 すごく、すごくゆっくりだけどね。

 生きてる・・・って表現した方が良いのかな。

 そこにあるだけじゃない」


「・・・そんなの、

 そんなの屁理屈だよ」


「そうかな・・・」


「そうだよ・・・」


少年は、

それっきり黙ってしまった。

私は、

手を柵に置いたまま、

渓谷の風景を、見るともなしに眺めていた。

観光客たちが、

私たちの後ろを通り過ぎていく。

楽しそうな声。

ときどき笑い声。

小さくなる。

徐々に遠ざかっていく。


私は、

顔を、静かに俯けていった。

目の前にある、太い銀色の手すりを、

じぃっと見つめる。

少ししてから、ポツリと呟く。


「私は、つまらない人間なのかな・・・。

 面白くない人間――」

「そんなことない!」


瞬間、

少年の、力強い大きな声が響いた。

私は、頭を起こした。

顔を少年の方へ向ける。

少年は、こちらを向いていた。

まっすぐ下ろされた両腕、

その先では、

左右とも、コブシを力いっぱい握りしめ、

歯を食いしばった、凄まじい怒りの形相を浮かべて、

下から私を、思いっきり睨みつけている。


「でも、私にはダムの――」

「そんなことない!」


少年は、また大声を出した。

そして、

その、まっすぐな眼差しを私に向けたまま、

一気に(まく)し立てた。


他人(ひと)のこと、つまらない人間とか言う人がつまらないんだ!。

 いろんなこと知ってるし、急に変なこと言い出すし、

 今までずっと、すっごく面白かった!。

 ちっとも、つまらなくなかった!。

 それが分からないヤツの方が、つまらないんだ!。

 面白くないんだ!」


「・・・そうなのかな」


「そうなの!」


少年は、

今も、すぐ近くで私を睨みつけている。

物凄い形相で、睨みつけている。

その目は、

誰よりも力強く、誰よりも黒く澄んでいて、

ほんの僅かな迷いも、恐れも、(けが)れも、(ゆが)みも、曇りも、

そこには、一切存在しない。

小さくて、

しかし、確かな2つの目。

ただただ純粋で。

ただただ透明で。



私は、

やがて、顔をゆっくり起こした。

目を、

再び正面の、谷間(たにあい)の景色へ向ける。

息を吸い込み、吐き出していく。


「・・・ありがと」


「うん・・・」


下から風が吹く。

冷えた空気。

水の匂い。

前髪が持ち上がり、元に戻る。

放水の音。

響いている。


「・・・ここに来れて良かった」


「僕も良かった」


「楽しかった」


「僕も楽しかった」


「ひとりだったら、

 きっと、楽しくはなかった」


「・・・え?」


「ひとりだったら、

 ダムを見て、

 そのまま都内の自宅に帰って、

 ベッドに寝転がって、

 スマホを確認して、

 その後、明かりを消して、

 多分、それで終わりだった」


「・・・」


「きっと、

 何も楽しくなかった」


「・・・」


「何も残らなかった」


「・・・」


「でも・・・、

 でも、ふたりだったから楽しかった」


「・・・」


「ふたりでここまで来たから楽しかった」


「・・・」


「ダムの面白さは、

 残念ながら、私には分からなかったけどさ」


「・・・」


「でも、楽しかったよ」


そう言った私は、

少年の方を見て、続けた。


「キミと一緒だったから、楽しかった」


少年は、顔を俯けた。

そのまま少しの間、じっと黙っていたが、

やがて、

隣にいる私の顔を、そっと見上げた。


「キミ・・・って、僕のこと?」


「もちろん」


私は頷く。

少年は、顔を正面に戻した。

それから下を向き、

照れくさそうにして、控えめに笑った。


「僕も・・・」


「・・・うん」


「僕も楽しかった」


「うん」


「その・・・、」


そう言った少年は、私の顔をチラリと見た。

そして、すぐに視線を戻し、

谷間の風景に目を向けながら、言葉を続けた。


「おじさんと一緒で」


「あ、やっぱり楽しくなかった」


「え?」


他人(ひと)のこと、おじさんとか言っちゃう子供と一緒で楽しくなかった」


「えー、だって・・・、」


少年は言葉の途中で、

また、私の顔をチラリと見た。


「だって、おじさんじゃん・・・」


「あー、楽しくない。

 少しも楽しくなーい。

 失礼なこと言う誰かさんのおかげで、ちっとも楽しくなーい」


「・・・」


「やっぱり、ひとりで来るんだったー」


「・・・」


「こんなところまで連れてくるんじゃなかったー」


「・・・そっちだって」


「・・・ん?」


「そっちだって、

 いっぱい僕のこと、からかってたじゃないか!」


「・・・そうだっけ?」


「そうだよ!。さんざんオナラオナラって!。

 他にも沢山!」


「そんなに多くないよ。ちょっとだけじゃん・・・」


「ちょっとじゃない!」


「でも、楽しかったでしょ?」


「ちっとも楽しくない!」


「そうなの?」


「うん」


「・・・ゴメン」


「・・・いいよ、謝らなくて」


「でも・・・」


「僕が落ち込んでたから、それでやってたんでしょ?」


「・・・」


「僕が、また元気になるように・・・」


「・・・すぐムキになって面白いから、それでやってただけだよ」


「僕、知ってるから・・・」


「面白かっただけだって・・・」


「僕、知ってるから・・・」


「・・・」


「知ってるから・・・」


「・・・」


「・・・」


「そっか・・・、知ってたか」


「うん・・・」


「そっか・・・」


「うん・・・」


私たちの正面には、

木々に深く覆われた渓谷が広がっていた。

両脇から山々の小尾根が、その渓谷へ左右交互に下ってきていて、

それが向こうの方まで、

ジグザグと、少しずつ白みを帯びていきながら続いている。

そして、

渓谷の遥か遠く、行き着く先には、

白んだ水色の空。

水色の空は、

高くなるにつれ白が薄れていき、青くなっていく。

どこまでも広く、どこまでも高い。

何もない。

何も動いていない。


辺りには、

重々しい放水の音が、

今も変わらずに、ずっと鳴り響いていた。

ときどき下から風が吹き、

私の前髪を浮かせて、そのまま空へと抜けていく。

観光客たちの賑やかな声が、遠くから徐々に近付き、

私たちのすぐ後ろを通って、離れていく。


少年と私は、

広い堰堤の上で、

柵の向こうに広がる渓谷の風景を、言葉もなく眺めていた。

柔らかくなった、夏の日差しのもと、

ふたり並んで、

ふたり一緒に、

ただ静かに、黙って眺めていた。

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