74.風の中に、湿気がちょっと混じるようになった
そのとき、不意に背後から声をかけられた。
女性の声。
ふたり同時。
「すみませーん」
「すみませーん」
「え?。
あ、はい」
私は、
慌ててスマートフォンを内ポケットに戻しつつ、声がした方を振り返る。
そこには、
明るい茶色のショートボブの女性と、
黒に近い茶色の、ポニーテールの女性が立っていた。
ふたりとも厚手のチェックの長袖を着ており、
その両肩からは、
リュックを背負うときの太いバンドが、それぞれ左右の腰を経由し背中の方へと延びている。
大学生だろうか。
私よりは、
幾分、若そうに見える。
「あのー、ちょっと頼みたいことがあるんですが・・・」
髪が短い方の女性は、そう言って目線を下に向けた。
そちらをチラリと見ると、ピンク色のデジタルカメラ。
お腹の辺りで、両手で持っている。
「はい、何でしょう」
念のため、訊いてみると、
その女性は、顔を上げて言った。
「写真、撮って貰えませんか?」
「あぁ、はい。
分かりました」
私は、返事をしながらカバンを足元に置いた。
「じゃあ、お願いしまーす。
えーっと、ここのボタンを押すだけなのでー」
女性は、持っていたカメラを私に渡し、
それから、
端の方にある、平たくて丸いボタンを指差した。
手入れが行き届いた、やや長めの爪に、
すまし顔の黒猫のネイル。
「あぁ、
はい、分かりました。
・・・えーっと、どこで撮ります?」
カメラから顔を上げ、尋ねると、
短い髪の女性は、すぐに後ろを振り返った。
新しそうなピンクのリュックが、代わりにこちらに顔を向ける。
「ねー、ここで良いかなー?」
「良いんじゃなーい?」
「こっち側?、それともそっちにするー?」
「歩かせても悪いから、そこで撮ろうよ」
ポニーテールの女性は自分の斜め前を指差し、
移動し始めた。
背中を向けていた女性は、その女性のもとへ行きかけたが、
すぐに、こちらを振り返った。
「あ、こっちでお願いしまーす」
ひと言だけ、そう言うと、
ポニーテールの女性の方へ向き直し、小走りで追いつき、
その隣に並んだ。
私は、
足元に置いた自分のカバンに目を落とし、
それから、少年を見た。
少年は、
柵の向こう側の景色をじっと眺めていた。
私は、
少ししてから、さっきのふたり組の方へ向き直し、
止まった位置を確認し、
次いで、その正面に立つため、
何も言わずに、その場を離れた。
「じゃあ、撮りまーす。3、2、1」
パシャ。
谷と青空をバックに、柵の前で顔を寄せ合い、
横向きピースの指の間から片目を覗かせ、
笑顔でポーズを決めている、そのふたりを撮った。
「ありがとうございましたー」
「ありがとうございましたー」
ふたりは同時にお礼を言い、
そして、
同時に頭を下げた。
「念のため、もう1枚撮りましょうか?」
私が、
そう言いつつ、女性たちの方へ歩き出すと、
ショートボブの女性は、
「あ、ちょっと確認してみますー」
と言って、こちらに駆け寄った。
私からカメラを受け取り、液晶画面に映った写真を見て、
すぐに後ろを振り返る。
「ねー、これで良いよねー?」
「どれー?、」
遅れて歩いてきたポニーテールの女性が、そう返事をし、
差し出されたカメラの液晶画面を覗き込みつつ、そのカメラを中心にして回り込むように移動していく。
そして、
ショートボブの女性の隣に並んで、顔を寄せ、
一緒に写真を確認すると、
「全然オッケー。可愛く撮れてる」
と言った。
「良いかなー?」
「良いと思う」
髪の短い方の女性は、それを聞くと顔を上げた。
私の方を振り返り、笑顔で、
「あの、大丈夫でした。ありがとうございましたー」
と言って、頭を下げた。
私も笑顔になった。
「あぁ、良かったです。
それでは」
と言って、ふたりに背を向けると、
後ろから声が聞こえた。
「あのー・・・」
「え?。
あ、はい、何でしょう」
返事とともに、
再び女性たちの方を振り向く。
「もし、宜しければ・・・ですけど」
「はい」
「お返しに、写真を撮りましょうか?」
「え?」
「お子さんと一緒に」
ショートボブの女性は、
そう言って、少年の方へと視線を向けた。
少年は、
ひとり、柵の近くに立ち、
顔を俯けたまま、ダムの下の方を静かに眺めている。
「えーっと・・・、」
私は、
その少年に目を向けながら、急いで頭を回転させる。
本当は断りたかった。
ただ、そうすると、
変に思われてしまう気がした。
それで、
「あ、はい。
じゃあ、お願いします・・・」
と、
その申し出を、しぶしぶ承諾することにした。
内ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラのアプリを呼び出す。
「ここを押せば・・・、」
カシャ。
「こんな感じで撮れますので」
「あ、はい。分かりましたー」
女性にスマートフォンを手渡した私は、少年の方へ向き直す。
そちらに歩いていく。
「写真、撮ってくれる・・・って」
近くに行き、声をかける。
少年は、少しの間、
そのまま、柵の間からダムの放水を眺めていたが、
やがて、
下を向いたまま、ゆっくりと体の向きを変えていき、
ダムの放水に背を向けた。
私も、
少年に続き、体の向きを変えた。
その場にしゃがみ込む。
正面には、スマートフォンを構えた女性。
すぐ後ろには、
もうひとりの女性が寄り添うように立っており、
その向こうには、
堰堤の反対側の柵と、貯水湖の穏やかな水面。
奥と左右にそびえ立つ、緑の山々。
晴れた空。
「じゃあ、撮りまーす。
ほら、ボクー。
こっち見てー。ちゃんと顔上げてー。
もっと顔上げてー。もっとー。
そうそう。
笑って笑ってー。スマイルスマイル。
ちょっとぉ、途中で下向いちゃダメだってー。
あぁ、そういうことかー。
しっかりこっち見てー。
そうそう、良い顔ー。
ハイ、チーズ」
カシャ。
「ありがとうございます」
お礼を言いながら立ち上がった私は、
ふたりの方へ歩き出す。
「多分、大丈夫だと思うんですけど・・・」
ショートボブの女性は、
そう言って、スマートフォンを私の方へ差し出した。
私は、
それを受け取ると、写真を確認した。
雲のない青い空。
それを左右から挟み込んでいる、木々に覆われた山々。
まっすぐ横に長く延びる安全柵。
その中央には、
スーツ姿の、しゃがんだ私と、
立ったままの少年と、
その少年の右手にある、小さな赤いフィギュア。
少年は、こっちを見て、
恥ずかしそうに、ほんの少しだけ笑っている。
「あ、はい。大丈夫です。
どうもありがとうございました」
私は、
スマートフォンを内ポケットに戻しながら、改めて女性にお礼を言った。
「いえいえ。ではー」
髪の短い女性は、そう言って私に背を向けると、
ポニーテールの女性とふたり並んで、堰堤を向こうへと歩き始めた。
次第に遠ざかっていく、2つのリュック。
ときどき、思い出したように横を向き、
すぐに直って、
そうして、私たちから離れていく。
私は、少年の方を振り返った。
そちらへ足を向ける。
少年は、背を向けていた。
両手で柵の棒を掴んで、
顔を俯け、
何事も無かったかのように、
ダムの放水の方へ、静かに目を向けている。
「おかえり」
少年が、
隣に並んだ私に声をかけた。
私は、少年を見た。
「ただいま」
「うん・・・」
「・・・写真、見る?」
「いい・・・」
「そっか・・・」
私は、顔を正面に戻した。
手すりの上に両手を置き、そこから下の景色を覗き込む。
放水は、今も変わらず続いている。
ずっと下の方にある噴出口から、
圧縮された真っ白な水の塊が、遠くへ勢いよく噴き出し、
横に大きく広がりつつ、
辺りに、薄い水煙を漂わせつつ、
遥か下に小さく映る河原へと、次々と落ちていく。
「ねぇ」
少年の声。
「何?」
私は、
放水に目を向けたまま、言葉を返す。
「何で、
ハイ、チーズ・・・じゃないの?」
「あぁ、えっと、
ちょっと古いかな・・・って」
「そうなの?」
「何となく。
ウチの新人も、あまり使ってないし」
「僕のとこ、みんな、
ハイ、チーズ・・・だよ?」
「学校の友達も?」
「・・・うん」
「そっか。
ちょっと気にし過ぎだったか」
「多分」
「そっか」
「うん」
「あの・・・」
「なに?」
「その・・・」
「・・・うん」
「いや、
そろそろ、その・・・」
「・・・うん」
「その、あの・・・」
「・・・うん」
「ちょっと寒くないかな・・・って」
「・・・まだ、へいき」
「そっか」
「・・・うん」
「そっか」
「・・・」
私は、ため息をついた。
しばらくしてから、
今度は、
深く長く、もう一度。
風が下から吹き付ける。
雨の日の匂いとともに、水分を含んだ空気が私の顔に当たり、
肌を撫で付け、前髪を浮き上がらせ、
そのまま、頭上に広がる青い空へと抜けていく。
辺りには、放水の音が轟々と。
日差しは、
今は、もう熱くない。
「ねぇ」
また、
少年の声が聞こえた。
「何?」
「・・・」
「どうした?」
私は、
頭を起こして、顔を隣の少年の方へ向けた。
少しの間、そのまま待っていると、
少年は、
掴んでいた柵を放し、その手をゆっくりと下ろした。
顔を俯けたまま、
柵の根本の辺りに目を向けている。
じっと目を向けている。
風が吹き、私の前髪を僅かに揺らす。
少年の、
紺と白の長袖シャツも、僅かにはためく。
向こうの方から、
徐々に、男性たちの賑やかな声が近付き、
私たちのすぐ後ろを通り過ぎていき、
また、徐々に遠ざかっていく。
少年が、
やがて、体をゆっくりとこちらに向けた。
ちょっと間を置き、
それから顔を上げていき、
その、
小さな、丸い2つの目をまっすぐ私へ向ける。
口を開いていく。
「・・・ダム、面白かった?」




