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Summer Echo  作者: イワオウギ
I
73/292

73.周囲の空気が

周囲の空気が、

途中から、ややひんやりとしたものに変わった。

私は、

足元を見たまま、階段を下りていたが、

少ししてから、

頭を僅かに起こした。

視線を階下へ走らせたあと、再び足元へ戻す。

階段を下りた先に続く路面には、

黒っぽい、濃い色の部分が、

あちこちで、大きく広がっていた。

濡れているようだ。

陰気で(ほの)暗い景色の中、

辺りには、

また、雨の日の匂いとカビ臭さが漂っている。


階段を下りきった。

足を前に踏み出し、顔を上げると、

さっきの係員に言われた通り、

少し先で、

左右に延びる通路へと突き当たっていた。

正面の奥に見える、その通路の壁は、

白っぽいコンクリートだったが、

表面は、

水の伝った跡や付着した土埃(つちぼこり)の黒、カビの薄っすらとした緑色で、

全体的に、満遍なく薄汚れている。

ところどころ、

質感が微妙に異なるセメントで粗く上塗りされている箇所がある。

ヒビ割れの補修だろう。


(てい)字路に出た。

途端に、

サー・・・っという、

ノイズのような、小さい音が聞こえるようになった。

途切れることなく響いている。

トンネル状の、この通路の、

どこか遠くを抜けていく、気流の音だろうか。


私は、

その微かな音に耳を傾けつつ、右へ折れた。

そのまま歩いていく。

通路は暗く、まっすぐ延びている。

突き当たりには、

外の景色が、ちっちゃく覗いている。

堰堤と、そこを歩く人々、

背後にそびえる、緑色の山々。

それら全てが、

遠くの方で、

夏の日差しで、眩しいほどに白んでいる。


そして、

その出口に向かっての、通路の右手側の壁には、

大きな照明パネルが、

間隔を広く空けて、何台も設置されていた。

暗がりの中、

ぼんやりとした、四角い白い明かりが、

道なりにポツリポツリと並んでいて、

それが、

出口の近くまで、ずっと続いている。

その横では、

ときどき、人が立ち止まっていた。

パネルを見ている。

私は、歩きながら顔を右に向けた。

パネルの表面には、

ダムの建設当時の写真が、枠いっぱいに大きくプリントされていた。

写真は、どれも白黒。

写りは荒く、

それぞれの輪郭も、全体的にぼやけている。


1枚めは、

トンネル工事に励む、作業員たちの写真だった。

坑道のライトによる逆光で、

あちこちに、円形の真っ白い部分が出来ている。

2枚めの写真は、

ヘルメット姿の大勢の人々が、

みんなで一斉に、右手の握りコブシを上に突き出しているものだった。

トンネル貫通を喜ぶ人々・・・と、タイトルにある。

3枚めは、

ダムの建設地の、整地作業の様子のようだ。

ダンプカーやショベルカーなどの、巨大なはずの重機が、

広大な作業現場に比して、とても小さく見える。

その次には、コンクリートバケットが写っていた。

展望台への、上り階段の途中で見かけたものだ。

まだ()き出しのままの、長い鉄芯の目立つ建設現場に、

ヘルメットをかぶった作業員が、ひとり立っており、

クレーンで宙吊りにされたバケットを、下からじっと見上げている。


私は、

右手側に次々と現れる、時代を感じさせるモノクロ写真に目を向けながら、

つい少し前、少年と一緒に上を歩いたダムの光景を、

頭に思い浮かべた。

幅の広い、どっしりとした堰堤。

照りつける太陽の中、

そこを行き交う、たくさんの観光客たち。

そして、気付いた。


あぁ、これは放水の音だったのか。


私は、顔を前に向けた。

明るい出口の向こうに、ダムの堰堤が覗いている。

かなり近くなった。

ノイズのような小さな音は、今も私の耳に届いていた。

そんなには変わっていない。

恐らく、

出口の付近まで、こんな感じだろう。

硬いコンクリートの内壁は、

音をほとんど吸収せず、

ずっと、そのままを私たちに届けている。


少年と私は、

この、殺風景な薄暗い通路を、

ふたり並んで、ただ歩いていく。

会話は無い。

沈黙。

重苦しい。

ときどき、観光客たちが横を擦れ違っていく。

他愛ない会話が羨ましい。

少年は、

今、何を思っているのだろう・・・。



外に出た。

瞬間、

聞こえていた放水の音が薄まり、少し遠のく。

明るい。

上からの太陽の光が、私を照らしている。

久し振りの陽気は暖かく、心地良い。

視線を上げる。

相変わらずの、抜けるような青い空。

その下の方には、

向こう側の山々の、鮮やかな緑が少しだけ。

視線を戻す。

前方に、ダムの堰堤。

気のせいか、ちょっと広くなったような気がする。

しばらく狭いところにいたので、

多分、そのせいだろう。

視界の左右と上をずっと塞いでいた、トンネルの暗い壁は、

今は無い。

歩く私の横顔を、

風が、優しく吹き付ける。


左手側に、分かれ道が現れた。

慰霊碑へと続く道だ。

そちらに目を向けると、

黒い彫像たちの乗った庇の下で、

小さな男の子を肩車した、父親と思しき男性が立っていた。

上を向いた男の子が父親の頭に片手を置いて、

反対の手を、庇へ精一杯に伸ばし、

何とか触ろうと頑張っている。

すぐ後ろには、髪の長い女性が立っていた。

目を細め、笑みを浮かべて、

その手で、男の子の背中をそっと支えている。


私は、顔を正面に戻した。

分かれ道を、まっすぐ通り過ぎていく。

道の右手の、レストハウスの前に差し掛かった。

少年と私が休んだ、白いベンチには、

今は、

背中を少し丸めた老夫婦が、並んで腰掛けている。

ふたりとも、膝上には水筒のコップがあり、

その底面と側面に手をそれぞれ宛てがい、持っている。

小さくなったその目で、

遠くの方を、静かに眺めている。


そう言えば・・・。


私は、

道脇に並んだ、たくさんのベンチを、

ざっと見渡す。


人が、だいぶ減った。


()きのベンチが目立ち、

レストハウスの壁に設けられた、売店の窓口の前にも、

誰も並んでいない。

私は、視線を正面へ戻した。

堰堤の上の人影は、

やはり、少なくなっていた。

ガランとしていて、

だから、

さっきは、堰堤が広くなったように感じられたのだろう。

もう、そういう時間なのだ。

足元に目を落とすと、

影が、来たときよりも長くなっていた。

色も、ちょっと薄くなっている。



少年と私は、堰堤の中央を進んでいく。

前から来た人を()けるために、

黙って横にずれ、少年から離れると、

少年も黙って横にずれ、私の隣にすぐに並んだ。

しばらくすると、

少年は何も言わずに私から離れ、また堰堤の中央に戻った。

私もそちらに寄り、

少年の隣に、

何も言わずに、また並ぶ。

そうして、

だだっ広い堰堤の上を歩いていく。

黙々と歩いていく。



話をどうやって切り出そうか。

何て言えば良いだろう。


少年は、

きっと、自分は騙されたと思うだろう。

裏切られたと思うだろう。

私のことを、酷い大人だと思うだろう。

嘘つきと言われるかもしれない。

もしかしたら、

憎しみに満ちた目で睨み付けられるかもしれない。

私を、絶対に許さないだろう。


間違いなく、このあと嫌われてしまうんだろうな・・・。

もう、口も()いてくれないんだろうな・・・。


私は、

静かに、ため息をついた。

しかし・・・、

しかし、それでも言わねばならない。

・・・絶対に。

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