70.1段1段、階段を下りていき
1段1段、階段を下りていき、
展望台の中へと、徐々に身を沈ませていく。
私の全身が建物にすっぽりと収まり、
更に何段か下りて、折り返し地点に立つと、
頭上からの眩しさが、急に無くなった。
同時に、少し肌寒く。
ここから先は、天井があった。
そのまま左にターンし、体の向きを反転させると、
次の階段は全部で3段の、ちょっと半端なものだった。
一瞬、迷ったが、
ズルをせず、真面目に1段ずつ下りていくことにする。
3つ下りたところで、足を前に踏み出しつつ顔を上げると、
視線の少し先に、開きっぱなしの自動ドアがあり、
その向こうの、広い空間には、
イスやテーブルが、規則正しく並べられていた。
展望台の外周を上ってくるとき、途中で喫茶店を見かけたが、
恐らく、ここは、
その喫茶店の、反対側にあるもうひとつの入り口なのだろう。
私は足を止め、顔を右へ向ける。
思った通り、トンネルの入り口があった。
奥へ向かって、まっすぐ下っている。
天井には、白い蛍光灯が道なりに点々と続いていて、
それぞれが、
打ち放しのコンクリートの内壁を、大人しく照らしている。
ちょっとだけ首を伸ばし、下の方を覗き込むと、
下りの階段が、
途中、踊り場をいくつか挟みつつも長く続いており、
数人の観光客たちが、こちらに向かって上ってきていた。
彼らの話し声がトンネルの内壁で何度も反射し、合わさっていき、
響くような、ぼやけた音となって、
ここにいる私の耳に、さっきから届いている。
私は、
視線を、再び喫茶店へと戻した。
少しの間、店の奥をじぃっと見て、
次に自分の隣を見て、そのまま体を少しだけ捻り、
口を開く。
「トイレは大丈夫?」
私の斜め後ろにいた少年は、
俯いたまま、
何も言わずに、小さく頷く。
「お腹は?」
念のため、更に訊いてみる。
少年は、
ちょっと間を置いてから、首を横に振った。
「あ、えっと。大丈夫ってこと・・・かな?」
すぐに気付き、私は慌てて確認する。
少年は、無言で頷く。
「分かった。じゃあ、行こう。
でも何かあったら、ちゃんと声をかけるんだぞ」
私が、そう言うと、
少年は、また無言で頷いた。
薄暗い階段が、
下に向かって、まっすぐ長く続いている。
ふたり、縦に並んで下りていく。
前が私で、少年は後ろ。
順序をこうしたのは、
何となく、少年を前に出したくなかったからだ。
階段を下りる速度も、気持ち遅めを心がける。
上りのときは、逆だったな・・・。
足を動かしながら、
そのときの少年の背中と、太陽の強い日差しを、
ぼんやりと思い出す。
そして、
これから言わねばならないことを考え、
私は小さく、ため息をついた。
上ってくる観光客たちと何度か擦れ違い、
踊り場をいくつか越え、階段を下りていくと、
やがて、幅の狭い通路に出た。
向こうへ、まっすぐ延びている。
10mくらい先で、壁に突き当たっていて、
そこの壁には、緑色の案内標識が据え付けられていた。
斜め右下を指す矢印と、その行き先が、
共に白抜きで記されている。
私は、
そのまま、そちらへ歩いていく。
蛍光灯の、冷たい白い光。
湿った空気。
左右のコンクリート壁の、ところどころには、
水の伝った跡が黒ずんだシミになり、縦に幾筋も残っていて、
その上を、壁と同じ色の蛇腹のチューブ数本が、
奥に向かって、まっすぐ続いている。
そうした、
どことなく不気味さと物寂しさを感じるトンネルの風景の中、私は進んでいき、
同時に、耳を澄ます。
通路に響き渡る、乾いた靴音。
遠くから途切れ途切れに響いてくる、誰かの甲高い話し声。
別の誰かの話し声。
他の音は・・・。
私は立ち止まり、すぐさま後ろを振り返った。
少年は、
今ちょうど、階段を下りきったところだった。
俯いたまま、トボトボと歩いてくる。
どうやら、
考え事をしているうちに、いつの間にか早足になっていたらしい。
その場でしばらく待つ。
少年が、ある程度近付いてから、
通路の突き当たりの方へと、また向き直し、
足を踏み出す。
さっきよりも、ゆっくりを意識。
少年を先行させようか、ちょっと迷った。
でも、それはやめた。
余計に気を遣わせてしまうような、そんな気がした。
緑色の案内標識の前まで行き、右を向くと、
眼下の、2つ先の踊り場の奥に、
誰かの足元が、チラリと覗いていた。
黒い革靴。
それ以外は、まだ見えない。
斜めに下っている天井の向こう側に、隠れてしまっている。
階下の革靴の主は、
こちらを向いたまま、そこに立ち続けている。
私は、そのまま階段を下り始めた。
踊り場をひとつ越えると、
革靴の人物の足元から上が、徐々に天井の裏側から現れてきた。
シワのない、黒いズボン。
ベルトの、金色のバックル。
ネクタイの先。
白のワイシャツ。
胸元に付けられたネームプレート。
襟元と、ネクタイの結び目。
首と、顎の先。
見たところ、係員のようだ。
制帽をかぶった、長身で色白の、若そうな男性が後ろ手を組み、
踊り場の奥の、左の隅で、
ひとり、静かに立っている。
係員の背後はすぐに壁で、
そこには、
1茎の野草の拡大写真がプリントされた、大きな照明パネルが据え付けられていた。
野草は紫色の花を咲かせていて、
照明パネルのバックライトの、煌々とした明かりで、
葉っぱの緑と花びらの紫が、
薄暗い景色の中、色鮮やかに浮かび上がっている。
次の階段は、左側のようだ。
パネルの手前に立つ係員の脇に、少しだけ下り口が覗いている。
私は、
踊り場の反対側の、右の隅に目を向ける。
ひと塊の、黒い大きな岩が、
そこの角にピッタリと収まるようにして、置かれている。
表面は、テラテラと薄く輝いており、
ひしゃくが2つ、
伏せられた状態で、てっぺん付近に無造作に置かれていた。
《湧き水》
そう書かれた案内プレートが、すぐ脇の壁に付けられている。
近くにベンチも用意されていたが、今は無人だった。
私は、
その、湧き水のある踊り場に下り立つと、
頭を軽く下げた。
係員も、頭を軽く下げる。
2回。
どうやら少年も、ちゃんと頭を下げたらしい。
私は、係員の手前で左へ折れる。
階段を、また1段ずつ下り始める。
先は、まだまだ長い。
行程的には、およそ半分といったところだろう。
「ねぇ・・・」
階段を下りていると、後ろから少年の声が聞こえた。
「どうした?」
前を向いたまま、言葉を返す。
「・・・中学校って、どんなところだった?」
「え?、中学校?。私の通ってたところ?」
「うん・・・」
「そうだなぁ・・・。
最初はとにかく、広いと感じたなぁ」
「広かったの?」
「それまで通っていた小学校に比べて、ね」
「・・・どれくらい?」
「うーん、ちょっと説明が難しいけど・・・」
「うん・・・」
「小学校は校舎が2つと体育館の、3つの建物しかなかったけど、
中学校になったら校舎が、えーと・・・1、2、3、4。
うん、校舎だけで4つか」
「え、そんなにー?」
「うん。生徒が全部で1000人いたからね」
「1000人。え、1000人もいたのー?」
「そう。
学年ごとに、だいたい10クラスあった」
「僕の学校、2クラスしかないよー?」
「私だって、小学校はクラスが3つしかなかった」
「僕の学校と、だいたい同じだねー」
「うん、同じくらい」
「名前を覚えるの、大変だったー?」
「うん、ちょっとね。
クラス替えのたびに、こんな人いたっけ・・・ってなってさ。
で、
毎回、名前を一生懸命に覚えるんだけど、
その名前と顔を、
クラス全員分、一致させるのに、
私はだいたい1ヶ月くらいかかってたよ」
「そっかー。大変だねー」
「確かに大変だけど、でも先生の方がもっと大変だよ。
初日から、全員分の名前を覚えていないといけないんだから」
「テストはー?。
何か、ちょっと変わるって聞いたけど・・・」
「うん、変わる。
中間テストと期末テストってのが行われる」
「ちゅーかんテスト?」
「あぁ・・・。
えっと、1学期とか2学期の、ちょうど中間辺りで実施されるテスト。
3学期は短いからナシ」
「もうひとつの方の・・・何だっけ。
えっと、きばつテストはー?」
「奇抜じゃなくて、期末だよ・・・。
それぞれの学期の末・・・つまり、終わり頃に実施されるテストのこと。
こっちは3学期ともある。
要するに1年で、
中間テスト2回と期末テスト3回の計5回、実施されるってことだね」
「5回しかないのー?。
僕の学校、いっつもテストしてるよー?」
「それは各クラスごとに個別で行うヤツで、
テストをして、採点してもらって、
それを返してもらって、それで終わりでしょ?」
「褒められたり、怒られたりするよー?」
「え?。あぁ、まぁ、そうだけど・・・。
でも、それはそれで終わりでしょ?」
「うん」
「中間テストとか期末テストとかは、全校で一斉にやるテストで、
国語とか数学・・・あぁ、中学になると算数は数学に変わるんだけど、
それと英語とか理科とか、
とにかく全部の科目を、2、3日かけて一気に行うんだ」
「うん」
「それで、
そのテストの合計点数で、学年での順位が出される」
「えー・・・。
順位が出るのー?」
「うん、出される。
今回は学年で100位・・・とかね。
だから、
みんな一生懸命、試験前は勉強する。
部活だって、テストの1週間ぐらい前から休みになる」
「勉強したー?」
「私?」
「うん」
「したよ、3日くらい」
「あれ?。
さっき、部活は1週間ぐらい前から休みって・・・」
「いいの。
その3日間は徹夜して勉強するから、それでいいの」
「テスト中、眠くならなかったー?」
「テスト中は大丈夫だったよ。
頑張らなきゃ・・・って、気を張り詰めていたからね。
その代わり、帰りが大変だった。
ウツラウツラしながら、
ときどき、一瞬だけ意識が無くなって、
電柱の方に、ふらふら~・・・って」
「えー。
僕、そんなに無理して勉強したくない・・・」
「2週間ぐらい前から、少しずつ勉強し始めれば、
別に、こんな無理しないでも大丈夫だよ。
私の周りにも、
ちゃんとそうやって勉強してる人、多かったよ」
「2週間も勉強するのー?。やだー」
「じゃ、私みたいに、
直前に集中してやるんだね」
「えー」
「あ、そうだ。
今から中学のテストの予行演習をしよう」
「そんなの、やらなくていいよぅ・・・」
「まずは1学期の中間テストにあたる1問目・・・、
あ、いや、
これは2学期の中間テストになるのかな?」
「2学期?、何で?」
「さっき上でやった、漢字の読みの問題が1学期の中間テスト。
ジオラマでの、今いる場所の問題が期末テスト。
で、次やる3問目は2学期の中間テスト」
「だったら僕、やらなくて平気だよー?」
「何で?。
中間テストは、全員が受けなきゃダメなんだぞ?」
「ううん、そうじゃなくて・・・」
「そうじゃなくて?」
「1学期の期末テストが終わったら、次は夏休みでしょー?」




