69.「おっと、すまねぇ。だいぶ引き止めちまった」
「おっと、すまねぇ。だいぶ引き止めちまった」
老人は顔を上げ、私の方を見た。
「いえ、面白い話を聞けて良かったです」
私は笑顔で、そう返した。
「そうかそうか。そっちの坊主も・・・ん?、どうした?」
老人が、途中で言葉を止めた。
私は、
すぐに自分の隣に、目を向けた
少年が、項垂れていた。
足元のコンクリートの路面を、静かに見つめている。
肩口から力なく下ろされた手は、
両方とも、中途半端に開いていた。
何も持っていない。
下には、
先ほど渡した、私のハンカチが落ちていた。
「坊主、どうした?。体の調子でも悪いのか?」
老人が、心配そうな声で尋ねた。
少年は、何も答えなかった。
顔を俯けたまま。
「・・・俺の話が面白くなかったか?」
少年は、
また、何も答えなかったが、
下を向いたまま、
今度は、ゆっくりと首を横に振った。
それっきり動かない。
何も喋らない。
自分の足元を、ただひたすらに見つめている。
私は、老人の方に顔を向けた。
「すみません、
どこか休める場所、近くにありませんか?」
「え?。あ、あぁ、だったら、」
そう言って老人は立ち上がり、
「坊主、ここ座るか?」
と、
それまで自分が腰掛けていたジュースケースを、
少年に向かって片手で促した。
「いえ、あの、出来ればベンチとかの方が・・・」
「あ、あぁ、そうだな。
こんなんじゃ、ゆっくり出来ねぇからな・・・」
「いえ、その・・・、すみません」
「だったら、あそこにベンチがあるからよ、
そこで休んでいき」
老人は顔を横に向け、
手に持った電子タバコで、視線の先をまっすぐ差した。
そちらに目をやると、
崖下に、ベンチが2つ並んでいた。
手前のベンチは、年配の女性客たちで埋まっていたが、
奥は空いているようだった。
私は、老人の方に向き直った。
「ありがとうございます。ちょっと、あそこで休んでいきます。
・・・ほら、行こう?」
「あ、ちょっ・・・」
立ち去ろうとした私たちを、
慌てて老人が引き止めた。
「え?、あ、はい」
私は振り返り、老人を見た。
「この坊主、何かツラそうな表情してるけどよ、
どうしちまったんだよ?」
「えっと、その・・・。
あ、もしかしたら、さっき飲んだ湧き水でお腹を冷やしてしまったのかも」
「あ・・・。あぁあぁ、そうかそうか」
老人は、
得心がいったような、
少し安心したような声を上げ、
「いや、それもあるけどよ、
急に硬水を飲んだから、それで体がビックリしちまったのかもしれないな」
と、言葉を続けた。
「あぁ、なるほど」
「どうする?。
あとで、あったかいミルクを持っていってやろうか」
「え?。あ、いや、いいです。
今は下手にお腹を刺激しない方が、良いと思いますし」
「あ、あぁ。そういや、そうだな」
「では、これで・・・」
「何かあったら言ってくれよ?、力になるからよ」
「はい、分かりました。ありがとうございました」
私は老人に背を向け、歩き出した。
「・・・あ。おーい、お客さーん、」
老人が、
すぐにまた、私たちを呼び止めた。
私は、後ろを振り返る。
「ハンカチハンカチ。ほら、これ。忘れてるよー」
少年とふたりで、崖下のベンチに腰掛けた。
太陽は、まだ高い位置にある。
相変わらず私たちを、ギラギラと熱く照らしつけている。
体の汗は、もうすっかり乾いていたが、
肌着は、まだ湿っていた。
ときおり風が吹き、
スーツの胸元から入り込み、
湿気ったままの、冷たい肌着を、
私の肌に押し付ける。
その風自体も、
いつの間にか、少し寒くなってきていた。
夜の気配を、
もう既に、微かに孕んでいる。
山の空気の移り変わりは、都会のそれに比べ、
遥かに早い。
少年は、一言も喋らなかった。
私の方を見ることさえしなかった。
ただ、両手をお尻の下に敷き、
背中を丸め、
自分の膝頭を、じっと静かに見つめていた。
ずっと見つめていた。
私は、
少年の様子を窺うのをやめ、顔を正面に向けた。
目線の高さに、山々の稜線。
左右に長く、延びている。
その上には、青い空。
明るさが、
ほんの少し、引いた気がする。
すぐ目の前を、
観光客たちの黒いシルエットが、何度も横切っていく。
隣のベンチでは、年配の女性客たちが、
今もまだ、騒いでいた。
どれが何の山か、言い合っている。
みんな、楽しそうだ。
私は、ひとつ息を吐くと、
前を見たまま、自分の内ポケットに手を突っ込んだ。
スマートフォンを取り出し、表示を確認する。
もう、こんな時間か。
次いで、画面の端に目をやり、
アンテナ表示を確かめる。
電波状況は良好。
ネットは、使えるようだ。
そのまま、スマートフォンを指で操作し、
乗り換え案内のアプリを起動させる。
出発駅と到着駅を入力し、
帰りの経路と、到着予定時刻を確認。
次いで、
念のため、その1本あとも調べ、
最後に、
もう一度、画面に映った現在の時刻を見た。
そろそろ向かわなければ・・・。
私は、スマートフォンを内ポケットに戻すと、
膝上のカバンの持ち手を握り、
ベンチから立ち上がった。
一呼吸置き、おもむろに少年の方を振り向く。
少年は、
まだ、そのままだった。
ベンチに座ったまま、俯き、
自分の膝先を、じっと見つめている。
私は、そこに立ったまま、
しばらくの間、
ベンチの項垂れた少年に、黙って目を向けていた。
そして、
少年に聞こえないよう、小さく息を吐くと、
体の向きを戻し、
また隣に、ゆっくりと座り直した。
「・・・行くんじゃないの?」
少年が呟いた。
私は、少年に目を向ける。
「もう、行けるの?」
「うん。もう、へいき・・・」
少年は、顔を俯けたまま、
そう返した。
「でも、まだ・・・」
「歩いてたら、すぐ直るから・・・」
「でも・・・」
「直るから・・・」
私は少年の横顔を、黙って見つめる。
少年は、まばたきもせず、
自分の膝先を、じっと凝視していた。
動かない表情。
止まった眼差し。
ただ静かに、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
「・・・うん、分かった」
やがて私は、再びカバンの持ち手を掴み、
ベンチから立ち上がった。
少し遅れて、少年も足を片方ずつ下ろし、
音もなく立った。
「・・・行ける?」
もう一度、少年に尋ねた。
少年は、
下を向いたまま、無言で頷く。
「・・・分かった、行こう」
そう言って、
私は顔を、左に向けた。
少し先の、コンクリートの路面に、
四角い穴が空いていた。
左右と奥の、手前以外の3方向は、
柵で囲まれている。
目線を僅かに上げると、案内標識が視界に入った。
《↓アオギサワゆき でんきバスのりば》
私は、少年の方を振り向いた。
「・・・行くよ」
少年は私の顔を見上げず、
無言で頷いた。
四角い穴の前まで来た。
幅は、およそ2m。
階段が、下に続いている。
短い。
10数段ほどで壁に突き当たっており、
階段は、そこで折り返している。
私は立ち止まり、後ろを振り返った。
少年は、私のすぐ近くにいた。
俯き、
視線を足元に、黙って向けている。
「ほら、先に・・・」
上ってくる人たちと擦れ違うことを考え、
横ではなく、縦に並んで下りることにする。
少年は、ほんの少しだけ顔を上げ、
階段の下り口を確認すると、
また顔を俯け、
足を踏み出した。
「あ、ちょっと待って」
私は、慌てて言った。
少年は、階段の手前で、
すぐに足を止めた。
「やっぱり私が先に行くよ」
「・・・」
「その・・・」
「・・・」
「後ろだと、またオナラが・・・」
「・・・」
「えと、その・・・ごめん」
「・・・先に行って」
「え?」
「先に行って」
「いや、その、
そういうつもりじゃなかったんだけど・・・」
「いいから先に行って!」
「あ、うん・・・。
やっぱりちょっと、しつこかったよね」
「・・・」
「ごめんね・・・」
私は、
小声で少年に謝ってから、階段の方に向き直し、
ゆっくりと下り始めた。
「止まって」
すぐに少年の声が聞こえた。
「え?」
私は立ち止まり、後ろを振り返る。
「下を見て」
「下?、何で?」
「いいから」
私は、
そのまま少し、少年をじっと見ていたが、
やがて顔を俯け、
自分の足元に、視線を落とした。
ごく普通の、コンクリートの階段。
何かが落ちているわけでもない。
「別に、何も無いけ・・・イテッ」
突然、私の頭に何かが降ってきた。
驚き、
そしてすぐに、口元を緩める。
顔を上げると、
少年がこちらに、握りコブシを伸ばしていた。
ほんの少しだけ、
笑っていた。




