68.その老人は、上は白いワイシャツで
その老人は、上は白いワイシャツで、
ネクタイは付けていなかった。
下は、ブルーのジーパン。
膝の部分が、少しだけ色褪せている。
カジュアルなデザインの、真っ赤なスニーカーを履いており、
こちらは、まだ真新しい。
「硬水?。
硬水っていうと、確かミネラルがあまり無い方の・・・」
私が、話し始めると、
老人は、
「逆だよ、逆。
ミネラルが多い方が硬水。少ないのが軟水」
と、すぐさま私の間違いを訂正し、
そして、
右手を口元へと持っていった。
人差し指と中指の間に、
黒いペンライトのようなものを挟んでいる。
「え?。
・・・あぁ、すみません、勘違いしてました」
私が、そう言うと、
老人は、口元に当てていた手をゆっくりと遠ざけ、
それから、顔を横に向けた。
ふーっ・・・と、
白く濁った気体を細く吹く。
「いいってことよ。
誰にでもひとつやふたつ、間違いはある。
俺なんか、いっつもしてる。
年中、間違いだらけだ」
老人は、声を上げて笑った。
「・・・ここ、硬水なんですか?」
「そうそう。
ここの水はよ、そこの・・・、」
老人は、そこで言葉を切り、
ジュースケースに腰掛けたままで、視線を上へ向ける。
少年と私も後ろを振り返り、そこにそびえる崖を仰ぎ見る。
「そこの後タチヤマ連峰の雪解け水でよ、
土ん中に滲みて、その道すがら、
カルシウムやマグネシウムとかのミネラルを、たっぷり取り込んでよ、
そんでもって、そっから湧き出してんだ。
・・・アンタ、タチヤマでも湧き水を飲んだんだって?」
「え?。
あ、はい、飲みました」
慌てて老人の方に向き直した私は、そう答えた。
「駅を出て、すぐのヤツ?」
「はい、そうです」
「あそこの水は、クマオの水って名前で軟水なんだ。
飲みやすかっただろ?」
「あ、はい、飲みやすかったです」
「そうだろ?。
朝晩飲んでる水道が、だいたい軟水だからな」
老人は、満足げにそう言うと、
また右手を、口元へと持っていった。
指に挟んでいるものの先端が、淡くオレンジに灯る。
LEDの光。
少ししてから、それを口元から離し、
顔を横に向け、
白い気体を、細く長く吐き出す。
そちらに何となく目を向けると、台車が止めてあった。
大きな段ボール箱が乗せられており、
その上には、
名札付きのエプロンと白い帽子が置かれている。
この老人のものだろう。
休憩中のようだ。
「何か、特別な効能とかあるんですか?」
私は、
再び老人の方に顔を向けながら、そう尋ねた。
「ここの水?」
「はい」
「いや、特別な効能なんて御大層なもんは、
生憎、聞いたことねぇなぁ・・・」
「そうなんですか」
「お通じが良くなるとか、ダイエットに良いとか聞くけどよ、
ここら辺は、まぁ、どこの硬水も一緒だわな。
俺には、いまいちピンと来ねぇけどな。
おっと、
大事なお客さんに、俺がこんなこと言っちゃあダメだな」
ケースに腰掛けたままの老人は、
そう言って、禿げた頭を軽く掻いた。
「・・・それ、電子タバコですか?」
「お?、これか?」
老人は、
右の指に挟んだ、黒いペンライト状のそれを、
こちらに差し向ける。
「はい、そうです」
「そうだよ、電子タバコ。
俺は、機械のタバコ・・・って呼んでるけどな。
あ、もしかして煙が気になったとか?。
大丈夫だよ。これ、ニコチン無しのヤツだから」
そう言って、老人は、
右手の電子タバコを、自分の口元へと持っていった。
先端のLEDが、また淡くオレンジに灯る。
「いえ、煙が気になったわけではなくて、
ちょっと、その、興味があったので・・・」
「・・・アンタ、タバコ吸うの?」
老人は、白い気体を横に吹くと、
それから、私に目を向けた。
「いえ、私ではなく後輩が。
ヘビースモーカーなんで、ちょっと勧めてみようかと」
「どれくらい吸うの?」
「確か、1日1箱って言ってたような・・・」
私が、そう答えた途端、
老人は顔を俯け、
胸の前で立てた手を、左右に細かく震わせた。
また、顔を上げる。
「甘い甘い。そんなんじゃ、
全っ然、ヘビースモーカーの内に入らねぇよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。
俺なんか、若ぇときは1日3箱も吸ってたからなぁ」
老人は私を見上げ、誇らしげに語った。
「今は違うんですか?」
「今は、もう、ずっとこれよ」
老人は、
電子タバコを持った手を軽く上げた。
「どうして電子タバ・・・、
いや、機械のタバコにしたんですか?」
私が、そう訊くと、
「あぁ・・・、ウチの孫娘が勧めてきたからだよ」
と、
やや不満げに、老人は答えた。
電子タバコを、ゆっくりと口へ運び、
それを咥える。
少ししてから、口元から離し、
横を向き、
白い気体を、遠くの方に細く吹き付ける。
顔をこちらに戻し、
それから、やや俯け、
老人は、ひとりで語り始めた。
「去年の11月ぐらいによ、ウチの孫娘から電話があったんだ」
「電子タバコを送るから使ってみてくれ・・・ってな」
「何だ、その・・・電子タバコってのは?」
「そう、孫娘に訊いたらよ、
よく分かんないけど、普通のタバコよりは害が少ないらしい・・・って」
「俺はそんなヘンテコなタバコは吸いたくない、
普通のタバコのままでいい・・・って孫娘に言ったら、
いいからとにかく使ってみてくれ、
おじいちゃんには出来るだけ長生きして欲しい・・・って、
その場で返されちゃってさ」
「そんなこと言われたら、全地球人が断れないだろ?」
「じゃあ、試しに使ってみるから送ってくれ・・・って、
つい電話で答えちゃったわけよ」
老人は、そこで電子タバコを口に咥え、
息を吸い込み、
白い気体を横に、ふーっと吐く。
「それから、だいたい1週間後くらいかなぁ・・・。
こんぐらいの小包が届いてさ。
中には、これが入ってた」
老人は、そう言って、
電子タバコを持った手を、軽く上げた。
「電話じゃ、ヘンテコなタバコ・・・なんて、俺も言ったけどよ、
実は少し気になってて、
で、
興味津々で、このタバコを手にとったわけよ」
「そしたら使い方が・・・」
老人は、そこで左右の手のひらを空に向け、
それを勢いよく持ち上げた。
「もう、サッパリ分からねぇ」
「横にボタンがあったから押してみたんだけどよ、
うんともすんとも動きゃしねぇ」
「もしかして、これはこのまま吸うものなのか・・・って、
試しに咥えて、吸ってみたわけよ」
「キャップ付きでな」
「煙どころか、そもそも吸えやしねぇ」
「何だ、これは」
「頭にきて、ぶん投げてやろうかと思ったよ」
「でも、すんでのところで思いとどまった」
「電話での孫娘の言葉を思い出してよ・・・」
老人は、小さく息を吐いた。
「・・・で、
この、機械のタバコが入ってた箱をガサゴソ漁って、
説明書を見付けて、開いてみたわけよ」
老人は、左右の手のひらを空に向け、
また持ち上げた。
「サッパリ」
「細けぇ字がビッシリで、読めやしねぇ」
「で、孫娘には悪いと思ったけどよ、
さっさと、押入れの奥に放り込んだ。
もう、いいや。
俺には合わねぇ・・・って」
老人は、一旦そこで話を切り、
電子タバコで一服した。
「年が明けてよ、孫娘から年賀状が届いたんだ」
「明けましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします」
「妊娠しました」
「すぐに、ピーンと来たよ」
「俺の体のためじゃなくて、てめぇの子供のためじゃねぇかよ」
老人は、
そこでため息を、声と一緒に大げさにつく。
「で、
ウチのかかぁに、その年賀状を渡したらよ、
腰を抜かして、ひっくり返っちまった。
こりゃあ大変だ、すぐに電話しなきゃ・・・って騒ぎ始めやがった」
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ」
「必死に止めてよ。
で、押入れの奥から、この機械のタバコを引っ張り出してきたわけよ」
「でも、やっぱり使い方が分からなくてよ。
説明書の細けぇ字を虫眼鏡で、こーして苦労して読んでも、
見たことも聞いたこともねぇ横文字だらけ。
俺にはサッパリ分かりゃしねぇ」
「後ろじゃ、ウチのかかぁが、
まだですか、まだですか・・・って、ひっきりなしにせっつくし。
お前は、まだですか星人かよ」
そう言うと、老人は話を中断し、
落ち着いて一服した。
「・・・で、
正月早々、悪いと思ったけどよ、
ウチの若ぇ衆に片っ端から電話をかけた。
今すぐウチに来てくれ、これの使い方を教えてくれ・・・って」
「ひとり、つかまってよ。
で、教えてもらって、
少しだけ電気を溜めて、
それで早速、吸ってみたわけよ」
「そしたら、ウチのかかぁがよ、
受話器に手ぇ置いて、
固唾を飲んで、こっちを見守ってるじゃねぇか」
「仕方ねぇから手ぇ上げて、
もう、いいよ・・・って合図を送ったらよ、
何か、急に慌てだしてよ。
少ししてから、俺に言ったんだ」
「どうしよう、電話のかけ方が分からない」
「かぁ~。
お前、今まで散々、
あんなに俺を急き立てていたじゃねぇか・・・って思ったけどよ、
何も言わずに、
黙って、かかぁの代わりに電話をかけたよ。
確かに、俺も悪かったからよ」
「しばらく待ってたら、電話に孫娘が出た」
老人は、
そこで突然、神妙な顔つきになり、
やや目線を下に向け、
握りしめた手を、自分の耳に押し当てた。
「何ヶ月だ?」
「ちょっとおじいちゃん。
普通は、おめでとうが先でしょ?」
「いいじゃねぇか。何ヶ月だ」
「4ヶ月」
「何だ、まだまだ先じゃ・・・あ?」
老人は急に顔を上げ、横を向いた。
そこには誰もいない。
「・・・あぁ、4ヶ月だってよ」
そう言ってから顔を戻し、再び目線を俯け、
話を続けた。
「アレ、使ってる?」
「アレ?、アレって何だ?」
「電子タバコ」
「使ってるよ」
「ウソ」
「使ってるって」
「リキッドは、どうしてるの?」
「りきっど?」
「電子タバコの中に入れる液体。
全然、私の方に連絡が無かったけど、
どうやって買ってるわけ?」
「あ、あぁ、あれか。
まだ、たくさん残ってるから、
それで電話してないだけ」
「やっぱり使ってないじゃない」
「うるせぇなぁ、細けぇことはいいじゃねぇか。
それより、味は他にないのか。
俺は、スースーするタバコは嫌いなんだ」
「タバコの煙に味なんかあるの?」
「あるよバカ。
だから、いっぱい種類があるんじゃねぇか」
「どれも一緒でしょ?」
「違うよバカ」
老人は、
そこでひとつ息を吐くと、耳に押し当てていた手を下ろし、
それから私を見上げた。
「そしたら、隣のかかぁがよ、
はよ代われ・・・って、おっかねぇ顔で俺を睨みつけててよ。
多分、俺がバカバカ言ってるのが気に食わなかったんだろうな。
それで電話を代わってやったんだ」
老人は、そこまで話すと、
手に持った電子タバコを咥え、
横を向き、
白い息を遠くに吹いた。
「その1週間後・・・いや、2週間後だったかな。
とにかく、また小包が届いた」
「中には、新しいタバコの素・・・あぁ、リキッドのことな、
それと、これが入ってた」
老人は、手をワイシャツの胸ポケットに突っ込み、
中から、
色とりどりの毛糸で編まれた、小さな細い袋を出した。
「タバコ入れ。落としても、すぐ分かるように、
ほれ、鈴まで付いてる」
老人は、
そのカラフルなタバコ入れを、顔の横で小さく振った。
「・・・とは言っても、
機械のタバコは、吸ったあとは熱くなってて危ないからよ、
代わりに、中にはタバコの素と、
あと、これを吸ってるときはキャップも入れてる。
孫娘には、内緒だけどな」
老人は、
胸ポケットに手編みのタバコ入れを戻しながら、そう言った。
私は、口を開く。
「ひ孫さんには、もうお会いになられました?」
「いや。
写真では見たけど、まだだな」
「そうですか・・・」
「ここの営業が11月いっぱいまでだからよ、
そのあとで、ゆっくり会いに行こうとは思ってる」
「どちらでした?」
「女。孫娘の生まれた頃にそっくり。
ありゃあ、将来、
相当に気の強い女になるな・・・」
老人は、
私の背後の、どこか遠くの方に目を向けた。
電子タバコを持った手を、静かに口元へと運び、
ちょっとしてから、ゆっくりと膝上に戻し、
白い気体を、横に細く吐く。
無言。
そのまま。
ぼんやりと、遠くを眺めている。
店の表側から、
子供たちの、はしゃぐ声が聞こえる。
しばらくして、母親らしき女性が、
子供たちの名前を、次々に呼んでいく。
返事が3つ。
それから、ちょっと遅れて、
また、
子供たちの、はしゃぎ声。
今度はそこに、
父親らしき男性の声も混じっている。
楽しそうに笑い合っている。
老人は、
右手を口元へと持っていき、戻して、
白い息を、ふーっ・・・と横に長く吐く。
穏やかな表情。
安らいだ顔つき。
小さく、ポツリと呟く。
「俺、タバコやめよかなぁ・・・」
私は黙っていた。
老人の、
少し寂しそうな、その姿を、
しばらくの間、ただ静かに眺めていた。
電子タバコから出る煙は、
実際は煙ではなく、蒸気だそうです。
老人のセリフに《煙》という言葉が使われていますが、
この老人なら、蒸気ではなく煙と言うだろう・・・ということで、
敢えて使っています。
2019/8/28 追記
電子タバコ・・・と言うか、
日本ではニコチン入りのリキッドは禁止されているので、ほぼアロマ機器みたいなものですが、
最近、
全くの無害ではないのかもしれない・・・という報告が、チラホラ散見されます。
電子タバコをご利用の際は、
各自で情報をしっかりと調べた上で、各々の責任のもとで使用して下さい。




