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Summer Echo  作者: イワオウギ
I
67/292

67.「ねぇ、あっち行こ?」

「ねぇ、あっち行こ?」


少年の声が、耳に届いた。

貯水湖の、遠くの水面を眺めていた私は、

顔を隣に向ける。

少年が私を見上げ、立っていた。


「あっち?」


「うん、あっちー」


少年は、

私に目を向けたまま、指差した手を自分の真横に上げた。

そちらは、

展望台の背後に迫る、岩崖のある方だった。

私は後ろを振り返り、少年の指の先に視線を向ける。


崖の少し手前に、

黒ずんだ板で(こしら)えた、年季の入ってそうな小屋があった。

高さと大きさは、縁日の屋台と同じくらい。

小ぢんまりとしている。

小屋の前と左右に、

くすんだベージュのビニールの庇が、短く張り出している。

前面には窓口が3つ並んでいたが、

それらのうち、

(はじ)のものは、目の荒い金網で塞がれ、

使えないようになっていた。

その金網には、

値札付きのキーホルダーが、大量にぶら下がっている。

そして、それら窓口のすぐ下には、

細長い棚板が、小屋の端から端まで左右に渡されており、

そこにも、

値札付きのタオルやお菓子などが、所狭しと並べられていた。


「あのお店?」


脇に置かれた、アイスのショーケースの前で爪先(つまさき)立ちをし、

上から手を入れ、奥のアイスを取ろうと四苦八苦している子供を見ながら、

私は少年に尋ねる。


「ううん、もっと奥」


「奥?」


「うん」


私は、視線をやや左にずらし、

店の背後にそびえる、岩崖に目を向ける。

その崖の下の方は、コンクリートの壁になっており、

そこの壁の(ふもと)に、

いくつかの大きな石で組まれた、水受けがあった。

水受けの、

ほんの少しだけ上にある、木の(とい)から、

1本の透明な(すじ)が、

太陽の光をキラキラと反射しながら、そこに注いでいる。

(ふち)からは、水が少しずつ(あふ)れ出し、

石を伝い、

その通り道を、濡れた色に変えていた。


「湧き水?」


私は、

そのまま、そちらを見ながら少年に尋ねた。

ナップザックを肩の片方にかけた男性の観光客が、近付いていく。

手にはペットボトル。

中身は空っぽ。

何も入っていない。


「うん」


(のど)が渇いたの?」


男性は水受けの前に立つと、

顔を下に向け、

そこに、カラのペットボトルを沈めた。

水が、一度大きく溢れたが、

すぐに元に戻り、

今はまた、少しずつ縁から流れ出している。


「うーん、それもあるけど・・・」


「・・・それもあるけど?」


私が、

少年の方を向いて、その先を促すと、

少年も、顔をこちらに向け、

私を見上げた。


「何か、冷たくて美味しそうだったから」



ふたりで、

店の裏手にある、湧き水の近くに来た。

少年は水受けの前に立つと、その周りを見回し始めた。

私も、少年と一緒に見回す。

ひしゃくは、どうやら置いていないようだ。


探すのを諦めた少年は、カタウデマンをポケットに入れ、

それから、

シャツの左右の袖を、順番に()くり上げた。

そして、

水受けに、なみなみと溜まった水を見つめると、

そこに、

上から、そーっと、

両手を慎重に近づけていく。


「冷たっ」


水面に触れた途端、

少年は短く声を上げ、急いで手を引っ込めた。

すぐに、こちらを振り向く。


「すっごく冷たーい」


少年は、

一言、そう言って、

また水受けの方に向き直ると、

両手を、

今度は水の中に、ゆっくりと沈めていった。


「どれくらい冷たいの?」


「うーんと・・・、すっごく冷たい」


「手、痛くない?」


「ちょっとジンジンするー」


少年は、

そう言って、手を水から抜き出すと、

その、濡れた左右の手をくっつけ、

指先を軽く(すぼ)めて、お椀を作り、

それを樋の下に差し出した。


そのまま、しばらくの間、

水が溜まるのをじっと待つ。

それから少年は、

両手のお椀を、

水が(こぼ)れないよう、慎重に顔の近くまで引き寄せると、

そこに口を近づけた。

水をすする音。


「どうだった?」


少年に訊いてみる。

少年は、すぐに顔を上げ、

私の方を見た。


「冷たいお水ー」


「どんな味?」


「味?」


「まろやかな味がしない?」


私がそう言うと、少年は小首を(かし)げ、

また口を、両手のお椀に近付けた。


水をすする音。

()を空けて、もう一度。


そして少年は、

口元を両手の間に(うず)めたまま、顔を次第に上へ傾けていく。

少年の、高く上げた顎から、

水滴が、僅かに跡を残しつつ首筋を伝い、

シャツの中へと消えていく。


少年は、

目一杯、顔を上に向け、

更にその体勢から、後ろに少し()け反り、

手の中の水を、残らず飲み干すと、

顔を、一気に俯けた。

押し当てていた手を、口元から解放し、

そのまま、

左右の手先を空中で何回かバタバタさせて、水を切る。

そして、それが終わると、

少年はこちらを振り返り、私を見上げて答えた。


「味、よく分かんなかった・・・」


私は、

両手を幽霊のように胸元で垂らす少年に、自分のハンカチを差し出すと、

水受けの方に向き直した。

左手の甲を樋の下に晒し、氷のように冷たい水を満遍なく当てる。

それから手首を返し、

指を擦り合わせながら、(しょう)の側も簡単に洗うと、

手を、全体的に軽く窄め、

そこに溜まった水を、口元へと運んだ。


「どうだったー?」


「・・・」


少年の、その問いには答えず、

窄めた手を、もう一度樋の下に持っていく。

すぐにそれを、口元へ。

見るともなしに水受けの水面を眺めつつ、意識を舌に集中させ、

静かに、慎重に味わう。


「・・・何か、思ってたのと違う」


私は、

少ししてから、そう答えた。


「そうなのー?」


「うん」


「・・・どう違うのー?」


「うーん・・・。

 説明がちょっと難しいんだけど、

 ここの水は、ちょっとハッキリしているというか・・・」


そう言って私は、

隣の少年の方に顔を向ける。

少年は、

そのまま私の顔を、しばらく黙って見上げていたが、

やがて口を開いた。


「・・・はっきりー?」


やはり、ピンと来なかったようだ。


「何て言うか、ここの水は・・・、」


そこで言葉を切り、

樋の先から細く下に延びる、透明な流れに目を向け、


「その、あんまり柔らかくない」


と続けた。


「・・・」


返事が無かった。

恐らく、

また、ピンと来なかったのだろう。


「タチヤマで飲んだ湧き水は、

 もっと、こう、まろやかな感じで、

 ここも、多分そうだと思ってたんだけど・・・」


私がそう言うと、背後から声が聞こえてきた。


「そりゃあ、ここの水は硬水だからなぁ」


少年も私も、そちらを振り返る。

おでこが広く禿()げ上がった、ひとりの老人が、

店の裏側で、

逆さに置かれた、黄色いジュースケースの上に腰掛け、

私たちの方に顔を向けていた。

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