67.「ねぇ、あっち行こ?」
「ねぇ、あっち行こ?」
少年の声が、耳に届いた。
貯水湖の、遠くの水面を眺めていた私は、
顔を隣に向ける。
少年が私を見上げ、立っていた。
「あっち?」
「うん、あっちー」
少年は、
私に目を向けたまま、指差した手を自分の真横に上げた。
そちらは、
展望台の背後に迫る、岩崖のある方だった。
私は後ろを振り返り、少年の指の先に視線を向ける。
崖の少し手前に、
黒ずんだ板で拵えた、年季の入ってそうな小屋があった。
高さと大きさは、縁日の屋台と同じくらい。
小ぢんまりとしている。
小屋の前と左右に、
くすんだベージュのビニールの庇が、短く張り出している。
前面には窓口が3つ並んでいたが、
それらのうち、
両端のものは、目の荒い金網で塞がれ、
使えないようになっていた。
その金網には、
値札付きのキーホルダーが、大量にぶら下がっている。
そして、それら窓口のすぐ下には、
細長い棚板が、小屋の端から端まで左右に渡されており、
そこにも、
値札付きのタオルやお菓子などが、所狭しと並べられていた。
「あのお店?」
脇に置かれた、アイスのショーケースの前で爪先立ちをし、
上から手を入れ、奥のアイスを取ろうと四苦八苦している子供を見ながら、
私は少年に尋ねる。
「ううん、もっと奥」
「奥?」
「うん」
私は、視線をやや左にずらし、
店の背後にそびえる、岩崖に目を向ける。
その崖の下の方は、コンクリートの壁になっており、
そこの壁の麓に、
いくつかの大きな石で組まれた、水受けがあった。
水受けの、
ほんの少しだけ上にある、木の樋から、
1本の透明な筋が、
太陽の光をキラキラと反射しながら、そこに注いでいる。
縁からは、水が少しずつ溢れ出し、
石を伝い、
その通り道を、濡れた色に変えていた。
「湧き水?」
私は、
そのまま、そちらを見ながら少年に尋ねた。
ナップザックを肩の片方にかけた男性の観光客が、近付いていく。
手にはペットボトル。
中身は空っぽ。
何も入っていない。
「うん」
「喉が渇いたの?」
男性は水受けの前に立つと、
顔を下に向け、
そこに、カラのペットボトルを沈めた。
水が、一度大きく溢れたが、
すぐに元に戻り、
今はまた、少しずつ縁から流れ出している。
「うーん、それもあるけど・・・」
「・・・それもあるけど?」
私が、
少年の方を向いて、その先を促すと、
少年も、顔をこちらに向け、
私を見上げた。
「何か、冷たくて美味しそうだったから」
ふたりで、
店の裏手にある、湧き水の近くに来た。
少年は水受けの前に立つと、その周りを見回し始めた。
私も、少年と一緒に見回す。
ひしゃくは、どうやら置いていないようだ。
探すのを諦めた少年は、カタウデマンをポケットに入れ、
それから、
シャツの左右の袖を、順番に捲くり上げた。
そして、
水受けに、なみなみと溜まった水を見つめると、
そこに、
上から、そーっと、
両手を慎重に近づけていく。
「冷たっ」
水面に触れた途端、
少年は短く声を上げ、急いで手を引っ込めた。
すぐに、こちらを振り向く。
「すっごく冷たーい」
少年は、
一言、そう言って、
また水受けの方に向き直ると、
両手を、
今度は水の中に、ゆっくりと沈めていった。
「どれくらい冷たいの?」
「うーんと・・・、すっごく冷たい」
「手、痛くない?」
「ちょっとジンジンするー」
少年は、
そう言って、手を水から抜き出すと、
その、濡れた左右の手をくっつけ、
指先を軽く窄めて、お椀を作り、
それを樋の下に差し出した。
そのまま、しばらくの間、
水が溜まるのをじっと待つ。
それから少年は、
両手のお椀を、
水が零れないよう、慎重に顔の近くまで引き寄せると、
そこに口を近づけた。
水をすする音。
「どうだった?」
少年に訊いてみる。
少年は、すぐに顔を上げ、
私の方を見た。
「冷たいお水ー」
「どんな味?」
「味?」
「まろやかな味がしない?」
私がそう言うと、少年は小首を傾げ、
また口を、両手のお椀に近付けた。
水をすする音。
間を空けて、もう一度。
そして少年は、
口元を両手の間に埋めたまま、顔を次第に上へ傾けていく。
少年の、高く上げた顎から、
水滴が、僅かに跡を残しつつ首筋を伝い、
シャツの中へと消えていく。
少年は、
目一杯、顔を上に向け、
更にその体勢から、後ろに少し仰け反り、
手の中の水を、残らず飲み干すと、
顔を、一気に俯けた。
押し当てていた手を、口元から解放し、
そのまま、
左右の手先を空中で何回かバタバタさせて、水を切る。
そして、それが終わると、
少年はこちらを振り返り、私を見上げて答えた。
「味、よく分かんなかった・・・」
私は、
両手を幽霊のように胸元で垂らす少年に、自分のハンカチを差し出すと、
水受けの方に向き直した。
左手の甲を樋の下に晒し、氷のように冷たい水を満遍なく当てる。
それから手首を返し、
指を擦り合わせながら、掌の側も簡単に洗うと、
手を、全体的に軽く窄め、
そこに溜まった水を、口元へと運んだ。
「どうだったー?」
「・・・」
少年の、その問いには答えず、
窄めた手を、もう一度樋の下に持っていく。
すぐにそれを、口元へ。
見るともなしに水受けの水面を眺めつつ、意識を舌に集中させ、
静かに、慎重に味わう。
「・・・何か、思ってたのと違う」
私は、
少ししてから、そう答えた。
「そうなのー?」
「うん」
「・・・どう違うのー?」
「うーん・・・。
説明がちょっと難しいんだけど、
ここの水は、ちょっとハッキリしているというか・・・」
そう言って私は、
隣の少年の方に顔を向ける。
少年は、
そのまま私の顔を、しばらく黙って見上げていたが、
やがて口を開いた。
「・・・はっきりー?」
やはり、ピンと来なかったようだ。
「何て言うか、ここの水は・・・、」
そこで言葉を切り、
樋の先から細く下に延びる、透明な流れに目を向け、
「その、あんまり柔らかくない」
と続けた。
「・・・」
返事が無かった。
恐らく、
また、ピンと来なかったのだろう。
「タチヤマで飲んだ湧き水は、
もっと、こう、まろやかな感じで、
ここも、多分そうだと思ってたんだけど・・・」
私がそう言うと、背後から声が聞こえてきた。
「そりゃあ、ここの水は硬水だからなぁ」
少年も私も、そちらを振り返る。
おでこが広く禿げ上がった、ひとりの老人が、
店の裏側で、
逆さに置かれた、黄色いジュースケースの上に腰掛け、
私たちの方に顔を向けていた。




