66.その展望台は
その展望台は、
山の、急峻な崖を背後に、
ダム下流の谷側へと、
広く、円く張り出していた。
上空から見下ろすと、三日月のような形をしている。
・・・いや、正確には少し違う。
もっと太い。
幅がある。
四日月とか五日月くらい。
そんな呼び名があるかどうかは、知らないけれども。
少年と私は、
その欠けた月の、細く尖った場所から、
谷側の、最も張り出した箇所に向かって歩いていた。
そちらは、ちょうどダムのある方角だった。
この展望台の外周を囲う、柵の前に立ち、
そこからの谷の景色を、ふたりで眺めるつもりだった。
歩いていた少年が、急に小走りになった。
柵のちょっと手前に、高さが膝くらいの台座があって、
少年は、そこへ駆けていく。
私は、台座に目を向ける。
上に、
厚みのある、ブロンズ製のプレートが乗っていた。
大きさは1畳ほどで、
側面は、平らでツルツルだが、
上の面は、ザラザラでデコボコ。
あっちこっちが、小高く盛り上がっている。
台座の前に着いた少年は、
首から上を、円を描くように大きく動かし、
全体をじっくりと見回していく。
そして、それが終わると、
次に、プレートの表面を指先で軽く触って、
そのまま、撫で始めた。
デコボコ具合を確かめている。
「今いるところは、どーこだ?」
少年の隣に立ち、尋ねると、
少年は、
動かしていた手を止め、私を見上げた。
「今いるところー?」
「そう。
ここの展望台は、どこにある?」
「えーっと、多分・・・」
少年は、そう声に出しながら、
目の前のデコボコのプレートに、視線を落とす。
中央辺りを見ている。
真剣な眼差し。
押し黙ったまま、
ただ、目と頭だけを、
小さく細かく動かしている。
少年が、急に頭を上げた。
踵を浮かせ、精一杯に高く伸び上がり、
プレートの少し向こうにある柵の、更に向こう側で広がる谷間の風景を覗き込む。
僅かに左を向き、
次に、ゆっくりと右を向き・・・。
少年は、
やがて、浮かせていた踵を下ろした。
視線を再び、プレートの中央辺りへと落として、
じぃっと見つめ、
しばらくしてから頭を起こし、山の風景をざっと簡単に確認し、
また、すぐに視線を落とし、
少ししてから、
目をプレートに向けたまま、私に言った。
「多分だけどー・・・、」
少年は、そう声に出しながら、
プレート中央へ向けていた目線を、そのちょっと手前の場所へ移した。
そして、そこをまっすぐ見据えたまま、
自分のシャツの袖を、手探りで引っ張って伸ばし、
手のひらを埋めた。
袖口から、小さく顔を覗かせた4本の指先を曲げ、
縮んで戻ろうとするシャツの袖を、ぎゅうっと押さえ付けている。
少年は、
次に、プレートの上へと身を乗り出すと同時に、
袖で保護した方の手のひらを、
小高く盛り上がった、山の背の部分についた。
顔をほんの少し起こし、
また、プレートの中央辺りに視線を向け、
そして、
体を支えていない方の手の、人差し指の先を、
プレート上の山の斜面にある、
とても小さい、僅かなでっぱりへ向けた。
「ここにある、コレ。
この、ちっちゃい建物」
「何で?」
私が尋ねると、
少年は、更に身を乗り出して、
プレート上のでっぱりの、少しだけ向こうの場所を指差した。
「えーっと、ここにダムがあってー・・・、
それで、ここのコレがー・・・、」
少年は、
体を起こし、顔を上げ、
そうして、
プレート上を指してた手をそのまま少し持ち上げ、言葉を続けた。
「あそこにあるダムだからー」
私も、
少年と一緒に、そちらへ目を向ける。
展望台の縁の上、柵の向こうに、
堰堤の、向こう半分だけが見えている。
でも、
隣の少年からは、
角度的に、
その姿は、ほとんど見えていないだろう。
私は、
顔を少年の方へと向け、微笑んだ。
「うん、そうだね」
少年も、こちらを見上げた。
「合ってるー?」
「多分」
そう答えると、
少年は、
その、日に焼けた顔をすぐに綻ばせた。
「良かったー」
「うん、良かった」
私は、視線を下へ落とした。
腰を少しだけ屈めて、
ブロンズ製の、周辺地形のジオラマに、
指先で、そっと触れてみる。
瞬間、痛みが走り、
思わず、手を引っ込めそうになった。
意外と熱を保っている。
「おっきいねー」
少年の声が聞こえた。
「ダムのこと?」
そう訊き返した私は上体を起こし、
顔を、少年の方へと向ける。
「うん」
そう言った少年は、
自分の指を、ジオラマ上のダムの壁に宛てがっていた。
ギリギリ触れないようにしている。
ダムの上端が、
少年の指の、付け根の辺りまで来ていた。
少年は、
ちょっとしてから、上体を起こし、
目線を、自分のズボンのポケットに向けた。
中をまさぐり、真っ赤なフィギュアを取り出す。
そして、それを片手に、
また、ジオラマの上に身を乗り出し、
フィギュアを、ダムの壁に立てかけた。
「どっちが大きかった?」
尋ねてみると、
少年は、
フィギュアの立ち位置と向きを、細かく調整しながら、
「うーん・・・。
多分、同じくらいかなー」
と答えた。
私は、更に尋ねた。
「カタウデマンの実際の大きさは、どれくらいだろうね?」
「・・・実際の大きさ?。
どういうことー?」
そう訊き返した少年は、顔をこちらへ向ける。
私は、
その顔を見ながら、口を開く。
「カタウデマンは、ダムと同じくらいの大きさなんでしょ?」
「うん」
「だったら・・・、」
そこで一旦、言葉を切った私は、
目を少年へ向けたまま、
体の前にあるジオラマの、その向こう側の柵の方を指差し、
更に続けた。
「そこから実際のダムを見たら、
実際のカタウデマンの大きさも分かるじゃない」
「あ!」
少年は、すぐに声を上げた。
慌てて体を起こし、
赤いフィギュアを片手に、走ってジオラマを迂回していき、
柵の方へ駆けていく。
私も、
それから少し遅れて、ゆっくりと足を踏み出す。
「どうだった?」
そう尋ねつつ、私は少年の隣に並んだ。
手を柵の上に置く。
眼下には、
緑豊かな深い谷と、
そこにすっぽりと収まっている巨大なダムの、その遥かなる全景。
放水は、今も変わりなく続いている。
音は聞こえない。
ここまでは、届いていない。
広々とした堰堤の上、小さな人影。
あちこちに、点々と。
それぞれが、
少しずつ少しずつ、ゆっくりと動いている。
少年の声が、
ちょっと間を置いてから、返ってきた。
「おっきいねー、すっごくおっきい」
「そう?」
「うん」
私は、
顔を、少年の方へと向ける。
少年は、
左右の手首を柵の上に押し当て、
眼下のダムに向かってバンザイをしているような、
そんな、
腰を引き、頭を低くした体勢をしていた。
顔のすぐ近くの柵の、細い棒の向こう側に広がっている谷の景色へと、
その目を、
一生懸命、向けている。
少年は、
少ししてから、静かに頭を起こした。
まっすぐに立ち、
手中にあるフィギュアを、黙って見つめる。
そして、
また、視線をダムの方へと向けると、
両手首を柵の上に押し当て、
そのまま、腰を引きつつ後ろへ下がっていき、
頭を低くし、
バンザイの体勢に戻った。
じぃっと見ている。
今、
少年の、その2つの小さな目には、
このダムと同じくらい大きな、片腕のヒーローが、
はっきりと映っているに違いない。




