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Summer Echo  作者: イワオウギ
I
64/292

64.再び、階段の折り返しがあった

再び、階段の折り返しがあった。

右手側の、視界全面に大きく広がる、

遠くの、

緑で埋め尽くされた、山々の風景に目をやりつつ、

カバンを持ち替え、

体の向きを反転させる。

少しだけ、勢いを付けた。

何となく、顔に風を当てたくなった。


そのまま、

何度か細かく折れ曲がりつつ、階段を上っていくと、

谷の突き当たりにある、コンクリートの壁面の中腹に行き着いた。

ここからは、

先ほど下で仰ぎ見た、つづら折りの区間だった。

階段は、

壁面を左へ右へと、交互に斜めに横断しつつ、

上に向かって延びている。


その、つづら折りの、

最初の折り返し地点の、すぐ外側には、

鬱蒼とした木々が迫っており、

枝葉が、

柵の手すりの上に、少しだけ覆い被さっていた。


そこは、ついさっき下で目にした、

壁からせり出たトンネル入り口の、その直上だった。

柵の向こう側には、

コンクリートの斜面の一部を壊した犯人(・・)が、

少しも悪びれることなく、大きく堂々と茂っていた。


私は、

壁面に続く階段を上っていき、

その、最初の折り返し地点に差し掛かったところで、

体を柵に寄せた。

手すりの上から顔を出し、下を覗き込もうとしたが、

すぐに思い留まり、柵から離れた。

体の向きを反転させ、カバンも持ち替える。

次の手すりに目を向けると、それを掴み、

えんじ色をした、細長い鉄の板に片足を乗せ、

再び、階段を上り始めた。



かなり高いところまで、上がってきた。

この次の折り返し地点は、

もう、壁の上だった。

そこを反転し、

壁上の(ふち)に延びる階段を進んでいけば、

展望台には、じきに着くはずだ。


私は顔を上げ、階段の先に目を向ける。

少年の後ろ姿の向こうには、

抜けるような青空が、大きく広がっており、

その、空の手前では、

真上にまっすぐ長く延びる、1本の細い棒が立っていた。

高さは、見たところ5mくらい。

柵のある折り返し地点の、すぐ外側に立てられているようだった。

棒の中ほどからワイヤーが3本、

三角(すい)を形成するように、それぞれが斜め下にピーンと強く張られ、

その棒が倒れないよう、しっかりと固定されていた。

棒の先端を仰ぎ見ると、

槍の刀身のような、鋭く(とが)ったものが取り付けられていた。

直上の空を、ただ静かに指している。


恐らく避雷針。


雷が、

人や階段の柵、あるいは階段自身に落ちるのを、

あれで防いでいるのだ。

実物を直接見たのは、これが初めてだった。

避雷針には、あの凄まじい迫力の雷が、

これまで数十回、もしかしたら百回以上、

大きな音と激しい光を伴って、直撃したことだろう。



それにしても・・・。


私は顔を俯けると、次の段に足をかけたまま、

その場で立ち止まり、

呼吸を、しばらく繰り返す。


やけに息が切れる。

運動不足なのは確か。

体がなまっているのも確か。

でも、ちょっとおかしい。

疲れが、普段より明らかに早い。

心臓が、ドクドクと強く脈打っている。


自覚症状のない風邪や、

あるいは、

ここ数日の出張疲れを、一瞬だけ疑ったが、

すぐに、そうではないことに気付く。

ここの標高は、およそ1500m。

空気は都内より、ずっと薄い。


ふぅ・・・と、ひとつ大きく息を吐き、

私は面を上げる。

額や頬に吹き出た汗に、風が当たり、

そこが、ひんやりと気持ちが良い。


そのまま、階段を見上げると、

少し先で、

少年が、こちらを向いて待っていた。

私の様子を、じっと窺っている。

特に変わった様子はない。

ケロッとしている。

あちらさんは、どうやらまだまだ元気なようだ。



そのとき、不意に頭上から、

誰かの足音が、小さく聞こえてきた。

そちらを振り返ると、

壁面の(ふち)に沿って延びる、手すりの向こう側に、

丸々と膨らんだナップサックを背負った、ふたりの観光客の姿があった。


淡いブロンドの、ショートヘアの男性と、

そのすぐ後ろには、

同じく淡いブロンドの、ロングヘアの女性。

ともに、スポーツ用のサングラスをかけており、

手すりの上から顔を出し、下にいる私たちを覗き込みつつ、

ゆっくりと階段を下ってきていた。

男性の口元が僅かに動き、

それから女性の口元が僅かに動く。

声は聞こえない。


私は見上げるのをやめ、

少年の方へと向き直った。

階段を上っていき、

少年のいる場所の、3つ下の段に立ち、

その次の段に片足を乗せたまま、動きを止める。

顔を上げ、少年に目を向けると、

少年は、まだ観光客たちの方を仰ぎ見ていた。


「行こう?」


声をかけると、少年は、


「どこで擦れ違おう・・・」


と、

顔を上に向けたまま、弱々しく言った。


「どこか適当な場所があったら、そこで擦れ違おう」


「適当な場所って?」


「広いところ」


「・・・無かったら?」


少年は、私を見た。

不安げな表情。


「階段で擦れ違えば良いよ。体を横にしてさ」


「でも・・・」


「大丈夫だって」


「でも・・・」


「・・・だったら、」


私は、

そう言って、階段の先を指差し、


「そこの折り返し地点で擦れ違おう」


と提案した。

少年は、そちらを振り返り、

私の指し示した方に目を向ける。

そして、ほんの少し間を置いてから、

そのまま何も言わずに、階段を上り始めた。

私も少年に続く。



「あ!」


折り返し地点まで、残り数段のところで、

少年の声が聞こえてきた。


「どうした?」


顔を上げ、尋ねると、

すぐに少年が、こちらを振り返った。


「擦れ違えるようになってるー」


明るい声。

少年は、再び向こうを向き、

階段の残りを、一気に駆け上がっていった。

避雷針の前で左に折れ、

左に更に折れることなく(・・)、そのまま直進して、

折り返し後の、階段の前を通り過ぎていく。


私は、

ゆっくり階段を上りつつ、少年の行った方に顔を向ける。

道はそちら側にも、ほんの少しだけ続いていた。

およそ3m先に柵があり、そこで行き止まりになっている。


少年が、その突き当たりへと駆けていったのを確認した私は、

そこから顔を、更に左へ向けた。

あのふたりは、まだ少し離れたところを歩いている。

私は、

彼らを急かさないよう、すぐに見るのをやめ、

顔の向きを正面に戻した。



階段を上りきった。

正面にそびえ立つ避雷針へと近づいていき、

その向こう側を、ちょっとだけ覗き込んでみる。

眼下に、

クロバダム下流の、深さ200mほどの渓谷の景色が、

大きく広がっていた。

谷底の河原は太陽に照らされ、白っぽく輝いている。

視線を、少し左に向けると、

河原のそちらの方は、ダムから伸びる影に広く覆われており、

薄っすらと、(もや)がかかっていた。

そこを、

巨大な、真っ白い水の塊が、

次々と落ちていく。

遠くの、遥か下の方で、

止めどなく、

ほんの僅かな切れ間もなく、

ゆっくり落ちていく。


ずいぶんと離れた。

コンクリートの壁上に立つ、私の耳には、

今は、

重々しさのすっかり抜け落ちた、柔らかな放水の音が、

微かに響いている。


私は、谷を見るのをやめ、

少年の方を振り向く。

少年は、夏の日差しのもと、

通路の突き当たりで、

両手と顎を柵の上に乗せ、背中を少し丸めて立ち、

そこから、山々の風景を眺めていた。


その、少年の向こうには、

木々に深く覆われた山の斜面が、

左上から右下へと、斜めにまっすぐ延びていた。

貯水湖の、こちら側の岸を形成している山の斜面で、

その奥には、

白みがかった山々の稜線が、

貯水湖の向こうで、右の方へと緩やかに下っていた。

その、更に奥には、

また一段と白みがかった、山々の稜線。

上の方には、

まだ、たっぷりと雪が残ってる。


私は、

少年の方に歩いていきながら、顔を少し上げ、

その、雪が残る稜線の、

更に奥へと、目を向けた。

そこには、

もう、山の稜線は無い。

薄っすらと白んだ、大きく青い空。

空は、

高くなるほどに青を取り戻していき、

深く色濃く、静かに澄んでいく。



突き当たりに立ち、少年と一緒に山の景色を眺めていると、

階段を下りてくるふたりの足音が、少しずつこちらに近付いてきた。


足音は、次第に大きくなっていったが、

あるところから急に小さくなり、

そして、軽い音へと切り替わった。

テンポも、僅かに速く。

恐らく、階段を下りきったのだろう。

彼らは今、

避雷針の前の、折り返し地点までの平らな区間を歩いているのだ。


私は、後ろを振り返った。

ブロンドの髪の男性が、ちょうど階段の折り返しに差し掛かっており、

顔をこちらに向けていた。


「Thank you」


男性は、私が振り向いたことに気付くと、

すぐに、お礼の言葉を口にした。

体を反転させ、そのまま階段を下りていく。

私は焦った。


どういたしまして・・・って、何て言うんだっけ?


男性に続き、階段を折り返していく女性を見送りつつ、

懸命に考えていると、

隣から声が聞こえてきた。


「ゆーあーうぇるかーむ」


階段を下りかけていた女性は足を止め、顔を私たちの方に向けた。

口元に笑みを浮かべている。


「Good boy」


そう言って、少年に軽く手を振ると、

顔を横に向け、そのまま階段を下りていった。

ふたりの足音が、徐々に遠ざかっていく。

私は、少年を見た。


「英語、話せるの?」


訊いてみると、

少年は私を見上げて、首を振った。


「ううん、話せない。ちょっと分かるだけ」


「英会話の塾とか行ってるの?」


少年は、また首を振った。


「ううん、学校。

 月に1度オーストラリアの先生が来て、英語を教えてくれるから」


「へぇ、それは凄いなぁ」


「えー、普通だよぅ」


少年は少し照れくさそうにして、日に焼けた顔を(ほころ)ばせた。



「そろそろ行こうか」


「うん!」


少年は、折り返し地点に向かって歩き出した。

私も少年のあとに続き、

足を動かしつつ、顔を右に向ける。

そちらには、

コンクリートの、やや急な上り斜面が、

ずうっと延びていた。

手すりと階段が、

何度か折れ曲がりつつも、そこの斜面を上っており、

その先にある、

全面ガラス張りの、平たい円形の建物の真下へと繋がっていた。

窓が、太陽の姿を真っ白に反射している。

目を細めつつ、

その、刺すような眩しい光の上に目を向けると、

観光客の人影が、いくつか見えた。

屋上の柵の近くに立ち、景色を眺めている。


展望台は、

もう、すぐそこにある。

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