61.「あっちのアレ、なにー?」
「あっちのアレ、なにー?」
振り向きざま、
少年に、そう尋ねられた。
「あっちのアレ?」
「あの黄色い、おっきなやつー」
少年が、
こちらに目を向けたまま、道の先を指差す。
私は顔を上げ、そちらを確かめる。
私のすぐ右手側にあるコンクリートの壁沿いには、
少し先に、再び階段の上り口。
道は、
そこの脇を通り過ぎて、更に奥へも続いており、
少年の指は、そちらに向いている。
上り口を数m行き過ぎたところの、道の中央に、
高さと幅が私の背丈の倍くらいある、箱状の巨大な何かが置かれていた。
色は黄色というか、むしろ黄土色に近い。
野ざらしのためか、
塗料は、ところどころ剥がれ落ち、
そこには褐色の錆が、
ビッシリと、こびり付いている。
恐らく、鉄製。
見るからに重そうだ。
その側面には、四角い大きな穴が、
縦横に規則正しく、
まるで建物の窓のように、いくつも空けられていた。
軽量化のためだろう。
4階建ての廃ビルのような、そんな見た目をしている。
そして、その廃ビルの屋上からは、
《コンクリートバケット》と書かれたプレートが、吊り下げられていた。
・・・バケット?
知らない単語だった。
プレートには、他にも何か書かれている。
ただ、ここからでは、
その字は少し細かすぎて、私には読めなかった。
多分、ダム建設のときに使われた、
コンクリートに関する、何かの機具なのだろうが、
それ以上のことは分からなかった。
「うーん、何だろね・・・」
私は、そう答えながら、
バケットの、すぐ左脇へと視線を移す。
そこには、弓なりに曲がった棒状のものが、
まるで、
どこかの道場で見かけそうな、台座に飾られた名刀のようにして、
やや厳かな雰囲気で置かれていた。
クレーン用の、ケーブルの切れ端らしい。
近くのプレートに、そう書いてある。
「分からないー?」
「うん、ちょっと分からない」
「そっかー」
「どうする?、近くに行ってみる?」
少年の方を振り向き、そう尋ねてみると、
すぐに少年も、こちらを向き、
私を見上げた。
「うん、行ってみるー」
ふたりで、
黄土色の、大きな箱の近くまで来た。
道は、
この先にも、コンクリートの壁沿いに延びている。
ただ、とは言っても、
私の腰くらいの高さの、少し低めの金網のフェンスが、
ここで道の左右に渡されており、
これ以上は、奥へと進めないようになっていた。
私はフェンスの前に立ち、その上に片手を置くと、
正面にそびえる、巨大な箱型のコンクリートバケットを見上げた。
ヒビ割れた塗料。
細かい、線のような擦り傷が、
あちらこちらに、何本も何本も付いている。
側面を形成する鉄板は薄く、
そこに空けられた四角い窓穴から中を覗くと、
すぐ内側に、
ザラザラとした赤錆びにすっかり覆われている、ゴツゴツとした壁面が見えた。
その赤錆びた壁面は、
少しだけ、こちら側に倒れ込むような角度で傾斜しており、
上に行くほど広がって、
バケットの外周にあたる、黄土色の側面に近付いている。
要するに、
底面がやや狭めの、四角い植木鉢の周囲を、
たくさんの窓穴が空いた四角い筒で、ピッタリと包んだような形状をしていた。
恐らく、
この、窓穴の向こうに覗く赤錆びた鉢は容れ物で、
”コンクリートバケット”の名から察するに、
その容れるものとは即ち、コンクリートなのだろう。
そう予想しつつ、
そのままバケット上端の、先ほどのプレートを見上げると、
《クロバダム構築用 重さ7トン 容積9立方メートル》
と、
この機材の名称とともに、併せて書かれていた。
容積の記載があるということは、
やはり、容れ物に間違いないだろう。
「多分、コンクリートを運ぶための容れ物じゃないかなぁ・・・」
私は、
目の前にそびえるバケットを仰ぎ見ながら、
独り言のように、小さく声に出した。
高いところで太陽光を白く返している、文字の書かれた四角いプレートと、
そのバックには、
線のような細かな赤錆びの目立つ、黄土色をした鉄の蔽い。
その、くすんだ色の蔽いの縁の向こうには、
相変わらずの、鮮やかな青い空。
とても高い。
「これに容れて運んだのー?」
「ん?、あぁ、多分。
ドロドロの、まだ固まっていないヤツをね」
「ふーん・・・。普段も、これ使ってるのー?」
「普段?。
・・・あぁ、街の建物とか?」
「うん」
「いや、使ってないと思うよ。街だとミキサー車が使えるから」
「ミキサー車?」
「あれ?、知らない?」
私は、少年に目を向ける。
少年は顎を思い切り高くし、
日の光を顔の全面で受け止めるようにして、上を眺めていた。
まだ、プレートの字を見ているようだ。
「知らなーい。どんなのー?」
「うーん、口で説明するのは難しいけど・・・」
「うん」
「えーと、トラックで・・・」
「うん」
「荷台にアリのお腹みたいなのを乗せて、
それを、ずうっとクルクル回している車」
顔を上に向けていた少年が、
突然、空へと吹き出した。
大きな声で笑い始める。
「何それー。
そんな車、ホントにあるのー?」
少年は、その場にしゃがみ込み、
腹を両手で抱え込むと、
地面に向かって、そのまま笑い続けた。
「いや、そんな形なんだって」
「アリさんのお腹なんか乗せて走ってるのー?」
「えーと・・・、
まぁ、うん。そんなの乗せてる」
私が、
ちょっと戸惑いつつも、そう答えると、
少年は、路面に両手と両膝をつき、
四つん這いになってしまった。
「く、苦しー」
笑いながらの呼吸で、
確かに、とても苦しそうだった。
私は、そんな少年の様子を、
しばらくの間、黙って見守っていたが、
口を開くことにした。
「街中を、今もたっくさん走ってるよー」
「こ、こらー。や、やめてったらー」
「一生懸命、クルクル回しながら走ってるよー」
「も、もう・・・、く、苦し・・・」
少年は、
ついに笑い声の混じった、呼吸音しか返さなくなった。
右肘をつき、少し遅れて左肘をつき、
額を路面スレスレで留めつつ、必死に堪えている。
あとちょっとだ。
「信号で止まってるときも、ずっと回してるよー」
そのまま、
少しの間、黙って待っていると、
少年が、右の手のひらを路面につけ、
上半身を小刻みに震わしながら、何とか体を少し起こした。
「な、何を・・・?」
少年が、途切れ途切れに訊いてきたので、
私は、その期待に応えてあげることにした。
「ドロドロのコンクリートが、たくさん詰まった・・・」
「・・・う、うん」
「丸くて大きな・・・」
「・・・う」
「アリさんの・・・お、な、か」
少年は、また勢いよく吹き出し、
その場にコロンと寝転がった。
仰向けになり、両手をお腹の上に乗せて、
口を思い切り開き、
左右の目を力いっぱい瞑って、
爽やかな夏の青空のもと、
気持ち良さそうに、大きな声で笑い続けた。




