6.タチヤマ駅の改札を抜けた
タチヤマ駅の改札を抜けた。
確か、次はケーブルカーのはずだ。
私は、歩きながら正面に目を向ける。
通路は、少し先のところで壁に突き当たっていて、
そこには、木製のベンチが置かれていた。
年配の女性客たち4人が、リュックを背負ったままで腰を下ろしている。
そのうちの3人が、
1冊のガイドブックを一緒に覗き込んで何かの相談をしており、
端っこに座る、残りのひとりが、
顔を3人の方に寄せて、飴玉を乗せた手をせっせと差し出している。
私は、上を見る。
天井に、横長の標識が据え付けられていて、
左斜め上を指す矢印のあとに、《ケーブルカーのりば》の文字が続いている。
見上げるのをやめ、私は顔を左に向ける。
階段の上り口。
そちらへ、少しずつ折れていく。
はしゃぐようなお礼の声が、次々に3つ構内に響く。
上り口の前に来た。
目線を上げる。
階段の、それぞれの段の正面部分に、
それぞれ違う言語で、行き先が書かれていた。
《 ケーブルカー 改札口 》
《Cablecar Ticket gate》
《 케이블카 개찰구 》
《 缆车检票 》
《 纜車驗票口 》
《 ประตูตรวจตั๋วรถกระเช้า 》
一番下のこれは・・・、タイの文字だろうか。
私は、
顔を更に下へ向けて、視界に入った1段目に足を乗せると、
階段を上り始めた。
上の階に出た。
構内は、大勢の観光客たちで賑わっていた。
小振りのナップザックを背負い、チェック柄の厚手の長袖シャツを着た、
いかにもハイキングらしい身なりの人々。
底の厚い登山靴を履き、
カラフルなウィンドブレーカーを身に纏い、
背中に、
同じくカラフルで、大きくて重そうなザックを担いだ人々。
そのザックの横には、
ときどき、銀色のマグカップがぶら下がっていた。
歩くたびに、小さく揺れている。
私のような、
真っ黒いスーツに身を包んだ、通勤姿の人は見当たらない。
私は、天井近くの標識に目を向ける。
《←ケーブルカーのりば ↑バスのりば ↑きっぷうりば》
視線を下ろし、左を向く。
行き交う人々の奥に、
観光客たちの、たくさんの背中が見えた。
並んでいる。
50人・・・、
いや、もっと多いかもしれない。
その、並ぶ人たちの頭上を見ると、
大きな液晶パネルが、3枚横に並んでいた。
左端のパネルには、
《10:10発》と、大きく表示されており、
残りのパネルには、
それぞれ、
ケーブルカーの写真と、山をバックにした高原が映し出されていた。
高原の映像には、
向こうへと延びる道路と、バスが1台映り込んでいたが、
そのバスは、パッと奥へと移動し、
更に少しすると、
また、パッと奥に移動した。
どうやら、
10秒間隔のライブ映像らしい。
私は、スーツの内ポケットに手を伸ばした。
スマートフォンを取り出し、時刻を確認する。
9時57分。
13分後。
しかし・・・。
スマートフォンを戻し、行列を見る。
その便には、
恐らく、乗れないだろう。
ケーブルカーの定員を、
もう、超えてしまっている気がする。
私は、
もう一度、左端の液晶パネルに目を向ける。
《10:10発》の表示の下、
やや小さめな字で《次発 10:30発》。
20分おきの発車なのだろう。
少し考えた末、
私は、足を自分の右へ踏み出した。
そのまま向きを変えつつ、2歩目も踏み出し、
そちらへ歩いていく。
視線の先、
フロアの床の、更に向こうの低い位置に、
まぶしい外の景色。
近付くごとに、
その景色が、だんだんと床の下から現れてくる。
列に並び、あそこで待っていても良かった。
ただ、30分以上もあることだし、
せっかくなので、駅の周りを歩き回ってみることにした。
階段を下りていき、外に出た。
目の前は、ロータリー。
周囲に、
雑貨店、山荘、飲食店などが建ち並んでいて、
それらの建物のすぐ背後には、
山々の、くっきりとした緑色の斜面が迫っていた。
もう、すっかり山の中だ。
辺りを見回すと、
近くに、湧き水を見付けた。
大きめな石で組まれた水受けに、こんこんと注がれている。
登山客たちが、
ヒシャクで水をすくって、それを口に運んでいる。
私も、ひと口だけ飲んでみようと、
そちらに足を向ける。
水は、思ったほどには冷たくなかった。
しかし、
口当たりは予想通りで、まろやかな感じだった。
とても柔らかい。
ヒシャクを水で洗って、元の場所に置くと、
私は、その湧き水をあとにした。
あてもなく、ぶらぶらと道路を歩くことにする。
駅を少し離れると、
人は、ほとんどいなくなった。
車も通らない。
静か。
日差しは、相変わらず強い。
アスファルトの路面に、
自分の真っ黒な影が、はっきりと映り込んでいる。
風は、
涼しい中に、ほんのりとした暖かみを孕んでいる。
とても清々しかったが、
道の脇の、ぼうぼうと茂る雑草の近くを通るたび、
その、鼻につく草の匂いとともに、
ムワッとした熱気が、頬をねっとりと撫で付けていく。
道なりに、
ひとり、しばらく歩いていると、
黒いスーツが日光を吸収し、表面が熱くなってきた。
まだ午前中。
午後に向かって、日の光は更に強くなっていく。
途中、開けた場所から川が見えた。
そちらへ足を向ける。
階段状の、コンクリートの堤防があり、
そこを下りていく。
下には、10段ちょっとで着いた。
私の、黒い革靴の先には、
真っ白な砂の、なだらかな河原が広がっている。
小さくて丸い石が、ところどころに散らばっていて、
そのまま目線を少し起こすと、
向こうの方に、
太陽光をキラキラと反射する川面が見えた。
河原は、
その周辺は砂粒ではなく、細かい砂利になっていた。
腰掛けられそうな大きい石も、いくつか転がっている。
石・・・と言うより、岩に近いのかもしれない。
川幅は、多分10mくらい。
さっき歩いてた道路よりも、幅がありそうだった。
水深は、見るからに浅そうだった。
深いところでも、
恐らく、30cmもないだろう。
全体的に、
広く薄く、流れている。
そのまま、川下の方に目を向けていくと、
離れたところに、
小さな人影を見付けた。
子供の背中。
紺と白の、ボーダー柄の長袖シャツ。
黒い頭。
短い髪。
帽子は、かぶっていない。
川辺にある大きな石の上に、
ひとり、
ポツンと座っていた。
周りには、他に誰も見当たらない。
私は、
川辺の、その小さな背中に、
しばらくの間、目を向けていた。
子供は、石の上で、
照りつける太陽のもと、身動きひとつしない。
じっと座っている。
私は、河原に背を向けた。
そのまま、堤防の階段を上がっていき、
道路に戻ると、
辺りを見回しつつ、駅の方へと引き返していく。
駐車場の横を通りかかったとき、
たくさん並んだ車の向こうに、赤い自販機が見えた。
進路を変え、その駐車場へ入っていく。
自販機の前まで来た。
カバンを足元に置き、売られている飲み物のラインナップをざっと確認する。
・・・緑茶にしよう。
大きくなくても、別に良いかな。
財布から500円玉を取り出し、それを投入口に。
次いで、
《つめた~い》と書かれた青いラベルに指を伸ばし、そのすぐ下のボタンを押す。
買ったものが、
すぐさま軽快な音とともに、勢い良く転がり落ちてくる。
屈んで、自販機の下の方にある排出口に手を突っ込むと、
落ちてきたばかりの、ミニサイズのペットボトルを掴み出し、
立ち上がる。
ふと、
足元にある、自分のカバンに目が行った。
あぁ、そうか。
もう片方の手は使えないんだった。
ちょっと迷ったが、
冷えたペットボトルを、スーツの腰のポケットに挿し込む。
そして、
再び、目の前にある自販機を見据えると、
さっきと同じボタンを押し、
最後に、
釣り銭のレバーをぐいっと下げた。
お釣りをしまった財布を、ズボンのポケットに戻す。
また屈んで、排出口に手を伸ばすと、
2本目を掴み出し、
反対の手ではカバンの持ち手を握り、
すっくと立ち上がった。
後ろを振り返り、
駐車場を歩いていき、道路に戻った私は、
そのまま、
再び、河原の方へと足を向けた。
「革靴の先」という表現は、通常は靴の爪先部分のことを示す言葉だと思いますが、
ここでは、「革靴の爪先部分の、その更に少し先にある地面」の意味で用いてます。
これ以降に出てくる「靴先」や「足先」も同様です。
逆に、
靴の爪先部分を指している場合は、「靴の先っぽ」等の言葉をなるべく用いるようにしています。